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バレエの経済学 ~新貴族の登場~

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<この夏公開の映画「バレエ・カンパニー」

わが家の娘が通っているバレエ教室の発表会があった。
少女たちが日頃の練習の成果を一生懸命に発表する姿には心を打たれるものがあったが、ふと我に返って考えると、これほど「投資」と「リターン」が見合わない世界も他に無いのではないかと思えた。

数年前、某ベンチャー企業の社長と一緒に六本木のクラブに飲みに行った時、背筋をきちんと伸ばしてきれいな歩き方をしている女の子がいたので「バレエをやっていたでしょう?」と声をかけたことがあった。歩き方を見て私が見抜いたことで、彼女は多少驚いていたようだったが、逆にこちらが驚かされたのは、夜は六本木で働いているけれど、昼は日本でも指折りのバレエ団のひとつ、Mバレエ団で教師に相当する「助教」をしているという。彼女によれば、日本でバレリーナとして職業的に生きていくことは難しく、バレエだけで食べていけるのは、日本中でせいぜい100人程度しかいないという。

プロへの狭き門のキツさの度合いといったら、Jリーグ以上、しかも、バレリーナとして第一線で踊れるのは、せいぜい30代前半までが限界。仮にプロになったとしても、スポーツ選手のように高額な契約金やサラリーがもらえるわけでもない、かけた労力や投資に対して、リターンが全くあわないのだ。けれども、少女たちはバレリーナをめざす。バレエの練習というのは、見かけの優雅さとは裏腹に過酷ともいえる継続的な努力と鍛錬が求められる。バーレッスンというウォーミオングアップとストレッチを兼ねた練習を1時間ほどやって、やっと本番のレッスンになる。プロフェッショナルになれたとしてもそうした練習を毎日続けなければ、すぐに技術が落ちてしまう厳しい世界だ。見返りを求めず、ただバレエという芸術に献身的に全身全霊を捧げる・・そうした彼女たちの姿はある種、宗教的ですらある。いや、今や宗教は、特に日本ではもっとも見返りのある「儲かる商売」になっているわけだから、バレエのことを「宗教的」というのはバレエをやっている人々に対して失礼かも知れない。

経済学に「ポトラッチ」という言葉がある。日本語に訳せば「蕩尽行為」ということになるだろうか。人間は生きていくために必要なだけの労働をするというように「合理的」にできていない。日々の生産物を貯め込むことで過剰な富を生み出し、それを祭りの時などに一気に使い果たす。対象は、神様だったり、共同体のメンバーだったり色々だが、圧倒的な「贈与」「贈り物」を相手に対して行うことを「ポトラッチ」という。人間の経済行為の根源には、理性では説明できない、こうした「呪われた部分」があることを示す言葉と言っても良いだろう。

貴族のポトラッチが生んだバレエ芸術

バレエやオペラという芸術の庇護者になったヨーロッパの貴族階級は、まさにこのポトラッチを毎夜繰り広げていた。いかに派手に無駄使いをするかが、貴族としての力の誇示につながった。バレエという芸術のこうした出自を考えれば、バレリーナが、同じ舞台芸術であってもダンサーや俳優などとは異なる特別の存在であることがわかるだろう。では、バレリーナとは一体何なのか?それは、端的にいえば「美」の神様に捧げられた「生け贄」である。バレリーナを目指す少女たちには少々酷な言い方になるが、「生け贄」であるから、もともとバレリーナとは職業たりえない。バレリーナとしての全ての鍛錬は、彼女たちの身体が創り出すこの世で最も美しい一瞬を美の神様に捧げるためにのみあるものだ。日本舞踊では「老い」が価値になるが、バレエの世界では、マイヤ・プリセツカヤが70歳代で「瀕死の白鳥」を踊ったことなど特異な例外は別にして、基本的に「老いて美しい」という概念は存在しえない。女性が最も美しい時期の最も光輝く瞬間のために全てを捧げるという、「刹那の美学」に裏打ちされた芸術なのだ。

投資とリターンが成り立たない構造ゆえ、欧米では著名なバレエ団は、政府機関から庇護を受けている。かつての貴族階級の役割を政府が担っているともいえるだろう。一方、日本ではそうした公的な庇護はほとんど無いに等しい。「だから、何とかしろ」というバレエ関係者の声もあるのだが、逆に言えば、本来、儲からないポトラッチ構造をもっているバレエ団が公的な庇護もなく、日本では複数、成り立っているというのは驚くべきことではないか。もっとも、それは、バレエ団を支えている人たち(クラブでバイトをしていたバレリーナのように)の犠牲によって成立している面もあるのだが。

「新貴族」の登場

バレエ団などが運営するバレエ教室に、今、ちょっとした異変が起きている。バレエ教室といえば稽古事として子供が通うというのが常識だったが、20代後半から30代にかけた大人の女性がバレエを習い始めている。彼女たちの多くは、仕事を持っており、未婚である。昔なら、母親になっていて子供を通わせる立場になっていたのだろうが、自分自身の興味や自分を磨くためといってバレエ教室に通っている。
 彼女たちのことをマスコミ的には「負け犬」と言うのが定着しつつあるようだが、あえて、カトラーとしては彼女たちを「新貴族」と呼びたい。

彼女たちが「~貴族」の名に値するのは、そのポトラッチ的消費行動ゆえである。世界の名だたる著名ブランド品の売れ行きを今や最も左右する顧客層であり、ホストクラブに目を向ければ気に入ったホストのためにドンペリを何本も空けたりする気前のイイおねえさん方である(もっともこのおねえさん方は風俗系の方々が多いようだが)。

マーケティング的観点でいえば、この「新貴族」たちを取り込んだ、新しいバレエ団運営の可能性が生まれている。これまでも、それぞれのバレエ団に友の会組織のようなものはあったのだが、これを一歩進めて、彼女たちをバレエ団の運営そのものに関わらせる、例えばバレエ団のオーナー権を彼女たちに販売するという方法が考えられるだろう。単にバレエ団の情報を流すだけではなく、バレエ団の演目やキャスティングについても意見を反映させる仕組みを持たせればよい。

「新貴族」の彼女たちが渇望するのは、他の人たちとは「ちょっと違う」「ワンランク上の」アイテムである。その渇望はヴィトンのバックを持つことでは、もう満たされなくなっている。
「バレエ団のオーナー」という新しい称号は、こうした渇望に応えるものになるだろう。

ひょっとするとバレエという芸術は、この日本において「新貴族」という庇護者を得て、やり方次第では世界的にも例を見ない、全く新しい事業展開を見せられるかも知れない。

(カトラー)

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コメント

良かった。

投稿: | 2004.11.09 14:02

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