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イカロスの墜落~共同通信ブログ休止の波紋~

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イカロスの墜落(フリューゲル)>拡大できます

共同通信が「署名で書く記者のニュース日記」というブログを今年の3月から立ち上げている。
大手マスコミの記者が個人の資格とはいえ、社名も明示しながらブログというメディアとどのようにつきあっていくのだろうかという関心から、時々チェックをしていた。このブログを運営している小池新編集長は、社会部を振り出しに、30余年もの記者生活を送ったベテラン編集委員。文章からは大マスコミの記者にありがちな偉ぶった風な所がなく、個人的にはむしろ親しみの持てる人物と感じていた。
ところが、このブログが、突然大荒れし、更新中止にまで追い込まれてしまった。そのことは大西宏さんのブログを通じて知ったのだが、確認してみると、6月29日付けのエントリー記事を最後に、367件にも達するコメントの海に沈没する形で、休止状態になっている。

事の発端は、小池編集長が、ライブドアの堀江社長に関して書いたコラム記事だった。堀江氏が書いているブログ「社長日記」の内容を取り上げて、「スノッブで鼻持ちならない」、さらには堀江社長のことを「こんなのにだまくらかされていてはいけない!」と断じたのである。この物言いにライブドアの株主と称する読者まで反応して、コメントの嵐となり、上述したような休止状態に追い込まれたのである。

「社長日記」に異議あり!(6/26付け記事)より

 ・・・(前略) もちろん、ご商売のことも書いておられるが、はっきり言って、これこそ「スノッブ」以外の何ものでもないと僕には思える。要するに「成功した青年実業家とは、こういうふうにしているものなんだよ」というやつだ。たしかに、livedoorはBlogで成功しているようだし、僕もこうした新しいメディアが広がってほしいとは思う。が、そのこととこのことは全く別だ。いかに商売がうまくいっているといっても、この程度の内容を載せて、結果的に若い人たちをだまくらかすのはちょっとどうかと思う。さらに言えば、社長の日記をトップページにシルエット入りで紹介しているというのは、一体どういう神経だろうか。
 ちょっと言いすぎたかもしれないが、こういうのが鼻持ちならないというやつだ。読んでいる人たちにはぜひ言いたい。こんなのにだまくらかされていてはいけない!

何度かこの文章の前後の記事も含めて読み返してみたのだが、小池氏がなぜ堀江氏のことをここまでこきおろすのか理解ができない。過去の記事では佐世保の事件なども取り上げていて、その内容はバランスがとれていたと思えるのだが、この記事は、一転、ほとんど人格攻撃に近い内容になっている。当の堀江氏と論争でもしていて、その挙げ句にというならまだありそうな気もするのだが、堀江氏からは、この騒動の間、一度たりともコメントもトラックバックも入っていない。言ってみれば、勝手に話を持ち出し、勝手にこきおろし、そのまま沈没してしまったという印象なのだ。

しかし、小池氏の記事を最初から読んでいくと、この問題に至る伏線が実はあったのではないかと思えてくる。それは、このブログに書く記事内容が共同通信社としての立場とどのような関係になるかについて書かれた記事だ。

足りないものは…理念!?(6/15日付け記事より)

・・・(前略)ざっと見ても、これだけのことが同時並行で起きている。どの問題にも関心があり、この日記で触れてみたい気はある。ただ、どうにも無力感が強いのが率直な気持ちだ。これから、この国や国民(もちろん自分もその中に入っている)はどうなっていくんだろうかという、先行きの不透明感と、閉塞(へいそく)感をはるかに通り越した、そう「もう、どうでもいいや」というような、投げやりな感情に近いものを感じてしまう。
  こう言うと、また「メディアの人間がそんなことを言ったらおしまいだ」としかられそうだが、前にも書いたとおり、このコラムは、共同通信というマスメディアの枠から完全には外れてはいない(わずかに外れていることはある)半面、個人的な感情をすべておさえているわけでもない。微妙なバランスの上に立っている。・・・(後略)

この文章に対して大西宏さんがコメント欄で「共同通信というマスメディアの枠とは、一体何のか?」と鋭いツッコミを入れられた。それに対して、一緒にこのブログを運営している伊藤編集部員が先ず答え、続いて小池氏も見解を述べるという形になったのだが、その内容は、正直いって答えになっていない。

新聞には基本的にテーマごとに社論というものが存在する。読売や産経を考えてもらえれば分かるはずだ。しかし、前にも書いたことだが、共同に社論はない。だからといって、何を書いてもいいということでないことは分かってもらえると思う。・・・(中略)・・・ 個人的に言えば、共同に社論がない以上、僕にとっての枠とは、今言った社会的規範の枠とほとんど同義語になる。要するに、それぞれの問題について個人の意見はあるが、こうした場で表現できるのは、そのうち、一定の社会的規範の枠に納まっているか、ぎりぎりわずかにはみ出している、その程度の考えだ。

ここからはカトラーこと私の想像だ。小池氏が「共同通信というマスメディアの枠」と言った時、実は日頃は見ないようにしている、日本のマスコミに特有と言っても良い「閉鎖的な言語空間」の存在が、ありありと見えてしまったのではないか。それは、共同通信社という企業体の利害だけからも説明できない、普段は可視化されず真綿のように我々を窒息させている「閉じられた言語空間」である。晩年の江藤淳氏が鋭く指摘していた閉された言語空間あるいは、イラク人質事件の時などに、自己責任論などの形を借りて立ち現れてきた「世間」と呼ばれる存在にも近い。ここに、このように存在すると明確にはいえないのだが、確実に我々の言葉を制限している見えないタブーのようなもの、それを「マスメディアの枠」「一定の社会的規範の枠」と表現したのではないかと想像している。

そして、「枠」のことを小池氏はそう表現した瞬間に、逆に自らの不自由さというものを痛烈に自覚したのではないかと思う。部下の伊藤編集部員が、共同通信の綱領などにも触れつつ、

編集長が言う「共同通信の枠」というのは、会社に勤めていると皮膚で感じる「私企業の中で働くサラリーマンとしての足かせ」のようなものを指しているに違いない。不文律というか、コモンローというのか、明文化されていない枠組みは確かにある。

と枠組みの存在について肯定した文章で答えたのを見て、小池氏は「留守の間に、伊藤編集部員が勝手に『枠』について展開しているようだが・・」と書き、明らかに苛立っていた。その上で、ブログでの自分の立場を「一定の社会的規範の枠に納まっているか、ぎりぎりわずかにはみ出している」と極めてわかりにくい表現で説明することになった。
しかし、こういう風に書いた小池氏の本当の気持ちは「枠などあってはならない」「自由に書けるはずだ」という思いではなかったかと推測する。それは、共同通信というマスコミ企業に属するサラリーマンとして書いてきたつもりはないよという、記者としての矜持に関わることでもあっただろう。小池氏が、ライブドアの堀江氏を個人的な感想とはいえ、こきおろし、しかもその記事に対して、かなりのネガティブリアクションがあったにも関わらず、だめ押しするように自説にこだわったのは、「書きたいことが書きにくい」というあの「閉ざされた言語空間」「マスメディアの枠組」から跳び出したいという思いが根底で働いていたからだと思う。

墜ちたイカロスを殺すな

ブログというメディアツールは、小池氏にとって、イカロスの翼ではなかったのかと考えている。
長年、日本のマスコミ界で生きてきて、表現に対する「枠組み」という、ぬえのようなものが存在することについては、誰よりも意識していただろう。署名で記事を書くことすらも一般化していない日本のマスコミの中にあって、個人の立場を明確にしてブログに記事を書くと決意した時点で、そうした枠組みを少しでも壊したいという彼なりの思いがあったはずだ。別に小池氏を擁護するわけではないが、非難のコメントの多くは、その点の見方で、小池氏を単に大マスコミの象徴のように扱ってしまっていて、ステレオタイプ化してしまっている。名前を騙っているだけかも知れないが、共同通信の匿名記者を名乗る人物が「小池氏は、単なる一介の編集委員で、共同通信社を代表しているものではない」などと本当にくだらない、社畜のようなコメントを入れていたが、こうした形式のブログサイトを立ち上げることについては、たぶん共同通信の社内でも色々な声があったことだろう。技術的にいえば、ブログの管理機能でコメントを受け付けないとしておけば、今回のような事態は、物理的に避けられたことだろう。実際、多くの有名人のブログでは、トラックバックは認めても、コメントは受け付けないという形式のものがほとんどである。その点についても小池氏は、読者からの反応に対してオープンにいきたいという考え方を当初から持っていて、こうしたブログを始めたのだと推測している。
小池氏が夢想したのは、ジャーナリストと読者が自由闊達に意見を述べ合う開かれた言語空間ではなかったのか。
ブログというコミュニケーションツールに彼が期待したのは、そうした夢であったに違いない。
ブログは、マスコミと読者の関係、ジャーナリズムのあり方を大きく変える可能性を持っていると思う。どの新聞社やマスコミも、第一線の記者や編集長などラインの業務を終えた「編集委員」「解説委員」と呼ばれる人々を数多く抱えているが、もし彼らが、小池氏のように自分のブログを持って、個人の立場で情報発信を始めたら、それだけで閉鎖的といわれるこの国の言語空間は劇的に変わるはずだ。

 ギリシア神話に登場するイカロスは、囚われた島から、2組の翼を作り、蜜蝋で背中に接着して脱出を試みる。しかし父親の忠告を無視して高く飛びすぎたため、太陽の熱で蜜蝋が溶け、海に墜落してしまう。この寓話は、その後、「思慮の足りない浅はかな人間にならないように」というメッセージを持つ教育的訓話として利用されていくのだが、私が今回の騒動を「イカロスの墜落」と表現したのは、そうした意味ではない。イカロスの寓話によって表現されているのは、人間の愚かさではなく、「リスクを取る人間につきまとう悲しみ」だと考えている。その意味でイカロスは、ドンキホーテにも似ている。常に新しいことや、新天地を目指すものたちは、結果、うまく事が運べば喝采されるが、そうでなければ笑いモノになってしまう。しかし、世界は、そうした何人ものイカロスやドンキホーテが存在したことで変革されてきたはずだ。
墜ちたイカロスを殺してはならない。

(カトラー)


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コメント

トラックバックありがとうございました。「リスクを取る人間につきまとう悲しみ」というご指摘は痛いほど分かります。日本は、まだまだリスクを取る人が少ないせいか、失敗に寛容ではありません。
「署名で書く記者のニュース日記」が閉鎖状態に追い込まれたことは残念でした。「森と木」や、あの「枠」の議論がもうできなくなりました。「枠」の問題や参議院選挙に関する記事あたりから、ちょっと小池氏はお疲れ気味かなと感じていましたが、正直、堀江社長批判の記事には驚きました。
実名で意見を述べるリスク、しかも、どなたがご覧になっているのかわからないインターネットで意見を書くリスクに慣れていらっしゃらなかったのだと思います。しかも、もし小池さんが勝手にやったとしても、あのような状態になって知らん顔を決め込んでいる共同通信のかたがたの神経も疑いたくなります。
結構、私も辛口の意見を書いていますが、いつも念頭に置いているのは、どなたであれ相手の方といつお目にかかっても、同じ言葉で議論できるようにしておくということです。また実名を出していますので、仕事先の皆さま、また知人の人たちも読んでくださっていることは片時も忘れたことがありません。

先週、WBSでブログが取り上げられ、小谷キャスターが匿名の危険性を指摘したときに、すかさず「ブログは、WEBの品種改良につながり、またマスメディアの既得権をなくす」とするコメンテータのロバート・フェルドマン氏(モルガン・スタンレー社)が「新聞もね」と返した言葉は本質をついているように感じました。
新聞に限らず、ともすればマスコミは無責任な書きっぱなし、言い放しを感じます。名前がでないから、批判を直接浴びるリスクもがないことも一因ではないでしょうか。「署名で書く」という試みは、新聞の記事の質や魅力をつくる重要な鍵になると思っていますので、それだけに、今回の出来事は残念でした。


投稿: 大西宏 | 2004.07.26 15:03

江藤淳の「閉ざされた言語空間」はニュアンスでは通じるところがあるかもしれませんが、江藤さんの場合と今回の件はやや違うと思います。というのは、江藤さんの場合は、閉ざした主体が明確になっているところです。非常にポリティカルな側面があり、そのことが現在に通じる部分があるのかは、正直、戦後生まれで、二十歳そこそこの僕には看取できません。カトラーさんは、現在の言語空間を閉ざしているのは何だと思いますか?ちなみに、僕はそれこそ社会規範だとおもえるのですが。社会規範自体、曖昧模糊としているものでしょうけど。そのことはもっと考えるなりしないといけないと思っているのですが。今日のところは、ひとまず失礼いたします。

投稿: こばやし | 2004.07.27 10:23

すいません。ちゃんと読んでいませんでした。本当に失礼いたしました。

投稿: こばやし | 2004.07.27 10:30

コメントありがとうございます。
WBSを私も見て、フェルドマン氏のコメントに同じ印象を持ちました。匿名の言語空間を形成してきた、さいたる存在は新聞というメディアかも知れません。誰が言ったことなのか、書いたことなのかわからないけれど、もっともらしくて聞こえて、知らぬ間に情報の受け手側は、判断停止に陥ってしまうーそんな状況が長く続いていたのだと思います。
世の中がうまくいっているように見えている間はそれでもよかったのですが、「ちょっとおかしいぞ」と皆が声を上げ始めたのだと思います。その意味で、今回、問題となった共同通信の小池氏など、マスコミの人たちが、トロイの木馬から姿を現す反乱者のように内側から個人の立場で声を上げることは、インパクトが大きいと考え、実は期待していました。
江藤淳さんは、こうした問題に早くから気づき、その起源を戦後の占領軍の検閲に求めたのですが、コメントをいただたいた「こばやし」さんや私も含め戦後民主主義世代にとっては、あまりピンとこない話だということも確かです。

ただ、匿名の言語空間の起源をつきつめていくと「主語」のない日本語の構造そのものだとか、天皇制にまで話がおよびたいてい収拾がとれなくなります。江藤さんも、それではいつまでたっても埒があかないから、占領軍の時代まで遡るということで決着つけようぜーということだったのかも知れないと思っています。
いずれにしてもブログの登場で、そうした閉ざされた言語空間に風穴が空きつつあるのは確かなようです。

投稿: katoler | 2004.07.27 14:03

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