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共同通信ブログは何故、休止したままなのか?

木村剛氏が、共同通信ブログ騒動の渦中にある小池編集長の応援キャンペーンともいえるような「頑張れ!くじけるな!小池編集長!」という記事をアップした。
当初、この問題は「大マスコミ(=小池編集長) VS ベンチャー経営者(=堀江社長)」という図式からスタートした。小池氏の堀江氏に対する物言いを、大マスコミの傲慢さと捉えたブロガーたちが猛反発したのだ。しかし、問題の焦点は、既に別の次元に移行したと考えている。すなわち、日本のマスコミ界において個人の自立性が担保されうるかどうか、さらにはネットを介した参加型のジャーナリズムが実現できるかどうか、という正しくジャーナリズムの本質にかかわる問題である。

私の記事「イカロスの墜落~共同通信ブログ休止の波紋~」でも指摘したように、小池編集長の堀江氏に対する記事は、明らかにバランスを欠いており、首をかしげざるを得ない内容だった。しかし、当の堀江氏は、(少なくとも表面上は)意に介していないという態度をとっており、この問題自体がさらに発展する要素はなかったといえよう。「ゴメンナサーイ、ちょっと言い過ぎました」と言えば済んだ話なのだ。しかし、その後の共同通信ブログの長きに渡る休止は、別の事態が進行していることを示していると考えざるをえない。

私が懸念するのは、小池氏がブログを再開することについて、それを止めさせる力が働いているのではないかということである。社内の反対を押し切って、個人名を掲げたブログをスタートさせたのはいいが、脇が甘かったためにブロガーたちから予想もつかなかった反発を食った、それ見たことか・・・そうした声に取り囲まれている状態が目に浮かぶのである。

「小池氏は編集長といっているが、実は一介の編集委員にすぎず、共同通信社を代表しているのではない」という社畜のようなコメントを書き込んでくる記者がいた(共同通信の記者を騙っている可能性はあるが)。こうした連中は、仲間を背後から切り捨てて、その代償として、一体何を守ろうとしているのか。そんなことで「共同通信」の看板を守れると本気で思っているのだろうか。

「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川鶴章氏によれば、この事件に対する新聞人の評価は総じて冷笑的のようだ。

★「やっぱり所属報道機関の名前を出してブログを持つのは、まずい。名前を出すなら、複数の人間のチェック体制を通ってからアップロードする形にしなければならない」 ★「無責任な発言が出ないように、コメントは受け付けるべきではない」 ★「なぜブログなんて、余計なことを始めたんだろう。本業に専念していればこんなことは起こらなかっただろうのに」 ★「ネットユーザーは社会の中でも特殊な層。かれらの意見は必ずしも、世論ではない」 ★「ネットのおかげで大衆が感情で流され、1つの『暴力』を形成するようになっている。これは民主主義にとって必ずしもいいこととは言えないのではないか」

ある程度予想はしていたが、湯川氏が集めた新聞人の声は、救いがたいほど硬直的である。ひとつひとつに徹底的に反論を加えていきたい気持ちにかられる一方で、結局、日本の新聞ジャーナリズムの水準はこんなものかとバカバカしさがつのる。逆にこうした声の中で、小池氏がブログによる情報発信を始めたことは、大きなリスクを背負っていたのだということをあらためて実感させられた。
こうした硬直した新聞ジャーナリズムのカルチャーの根底にあるのは、大手のマスコミ各社が極めて硬直的な体質を持っているからだ。その最たる問題は人材の流動性がほとんど欠如していることだろう。一般の方々は驚くかも知れないが、日本の大手マスコミのほとんどは中途採用に門戸を閉ざしており、未だに純血主義を固守している。これは記者クラブ制度と並んで日本だけに見られる歪んだ現象だ。早い話が、朝日新聞を辞めた記者が、読売新聞の記者となって活躍することは、まずあり得ないのだ。欧米のマスコミでは、記者はまぎれもなく個人として活動するジャーナリストであり、たまたまその時点で所属しているメディアに記事を書いているに過ぎない。読者の支持を受けるスター記者は、スポーツ選手のように、引き抜かれて、高額の支度金とともに移籍することさえある。こうした人材の流動性が無ければ、その企業に属している人間は必然的に「社畜」にならざるを得ないだろう。小池氏を背後から斬って捨てた、「社畜」のような記者はこうして生まれてきたのだ。

ジャーナリストの仮面を被った社畜に囲まれながらも、リスクを背負ってブログを立ち上げた小池編集委員は、結局、墜ちたイカロス、あるいはドンキホーテにならざるを得なかったのだ。

こうして書いてくると、暗澹とした気持ちになってくるが、それでも地殻変動はおきつつある(と信じたい)。
私の記事をベタほめしてくれたから言うわけではないが、上記で引用した「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川氏のようなマスコミ人も存在する。

湯川氏とは、面識は一切無いが、その著作「ネットは新聞を殺すのか」(NTT出版)を通じて存じ上げていた。ネットとマスコミの関係にについて少しでも関心のある人間なら、ぜひ読んでおかねばならない本だ。新聞人の側からもっと早い段階でこうした本が出てきてしかるべきであったが、この湯川氏の本以外にこうした問題に正面から取り組んだ著作を寡聞にして知らない。この著書の中で、湯川氏は自身のことに触れているが、大手通信社のサンフランシスコ支局の配達員(新聞少年のようなもの)としてスタートし、その後、翻訳業務などを経て、記事を書くようにもなったという。しかし身分はずっと配達員のままであったのだが、「異例の措置」で41歳で編集委員になったという異色の経歴の持ち主だ。こうした本流ではない道筋でジャーナリストになった苦労人であるから、日本のマスコミの体質の問題点もよく見えているのだと推測している。

その湯川氏が「週刊!木村剛」にトラックバックした記事「マスコミ側の受け止め方」で、上記のように身内の新聞人の声を紹介しているのだが、そのこと自体も大変勇気のいることだと心から敬意を表する。社畜のような記者もいれば、湯川氏のような骨太なジャーナリストもいるということなのだ。世の中そう捨てたものではない。
こうした湯川氏のような人が、共同通信のブログ問題を極めて重く捉えていることを私たちは認識べきであり、小池氏がブログを再開できるかどうかは、今後の日本のジャーナリズムの行く末にとって大きな意味を持つということなのだ。

あらためて言おう、墜ちたイカロスを殺してはならない。

(カトラー)


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Comments

はじめまして。
カトラーさんのエントリーを読んで小池氏に対する同僚(?)記者と思われる記者からのコメントがバックショットであるという考え方に始めて気が付きました。確かにそう考えると背後からの切り捨てとも読めますね。

新聞社の複雑な組織を全く知らない私には、組織の実情を知らせ、小池氏の会社内での立場が良く理解出来たコメントでも有ります。

日本の新聞業界では同業他社への移籍がほとんどないという事は、初めて知りました。そのそのような世界に在籍した事のない私にはまるで理解を越えた世界です。

私もずっと小池氏のブログの再開を期待して眺めて来ましたが、以前にも書いたようにこのブログは既に会社管轄に置かれているようです。

削除したいがライブドアにはブログの削除という事は規約で認めていないので削除も出来ない。それならばコメント等出来る限りの組織防衛をしなくてはという事でコメントやトラックバックの削除や復活など努力はしているようです。

一番書きたいのは小池氏であると私は考えております。


Posted by: jUKE_NIKKO | 2004.08.12 at 02:55 AM

 初めまして。通りがかりのharrisonという者です。10年近く大手紙記者を経験した後、他メディアへ転職したものです。共同通信編集委員のblogがあること自体知らなかったので、コメント、興味深く読ませていただきました。
 ただ、新聞社が同業他社への転職がほとんどない、というのはちょっと誤解だと思います。本当に記者を新卒採用しかしない純血主義を取るのは新聞メディアの中では恐らく日経新聞ぐらいで、朝日、読売、毎日、共同いずれも転職者は多いです。ただ傾向としては、①地方紙から朝日、読売、共同などに転職するケース②産経・毎日・時事から朝日、読売、共同に転職するケース--などが典型的です。テレビから大手新聞に転職する方もいらっしゃいますし、中途採用は結構多いですよ。ただ朝日や読売の場合、転職者がその後のし上がるのは大変で、例えばですがサツのクラブで抜きまくる産経の記者を引き抜いたうえで結局内勤部門に異動させてしまう--とか、残酷なケースも過去には散見されました。
 ただ、Katolerさんが例にあげられておられた「朝日の記者が読売に転職」だけは確かにありえないと思います。日経から朝日、というのはかなり昔にありました。読売の子弟が朝日、とか朝日の子弟が読売、というのは珍しくないですけどね。
 私自身は大手「紙」から大手専門「誌」への転職です。
 では失礼致します。

Posted by: harrison | 2004.08.12 at 09:24 AM

 マスコミの人材流動性は決して低くはないとコメントしようと思ったら、すでにharrisonさんが詳細なコメントを寄せられていました。
 大手マスコミがネットに対して懐疑的なのは、アメリカでも同じです。単に人材の流動性が原因なのではなく、もっと根深い問題が横たわっていると思います。つまり、大手メディアは言論の自由を長く独占するなか、その本来の意味を忘れてしまい、ネットの登場で多くの個人が言論の自由を行使し始めたことに戸惑いと反発、場合によっては嫉妬を感じているのでしょう。
 今こそ、言論の自由やジャーナリズムとは何か、意見の述べ方、議論の仕方について考える必要があるのでしょう。
 

Posted by: halberstam | 2004.08.12 at 12:43 PM

harrisonさん、halberstam さんコメントをありがとうございます。新聞社を中心とした大手マスコミの中での転職や中途採用は、昔に比べると確かに増えているようですね。私の友人にも産経→中日、毎日→産経という形で動いたケースがありました。ただ、harrisonさんも言及されているように、冷や飯を食わされるケースも時には見られたりして、風通しは必ずしも良くないなという印象を持っています。ジャーナリスト個人の看板より新聞社という看板が優先するというカルチャーは、残念ながら大きくは変わっていないようです。

日本のマスコミの場合、日本語圏=日本の中でビジネスモデルが完結してしまうので、英語圏を前提とした欧米マスコミのような開かれた流動性を期待することには、もともと無理があるのかも知れないと内心で思っています。こうした壁を破るためには、新聞社も株式を公開するか、海外メディア企業と資本提携するような思い切った資本政策の転換が必要でしょう。既にテレビ局の一部は、上場しているわけで、新聞社がIPOできない、もしくはしない理由はなくなりました。経営環境が変わってくれば、そうした選択も現実のものになるのではないでしょうか。いずれにしても大きな枠組みが変わらないと、風通しはなかなか良くならないだろうと思うのです。

jUKE NIKKOさんが指摘されているように、小池氏らが立ち上げたブログが、既に会社の管理下に置かれているということならば、ここでも会社の看板や組織防衛が優先されているということなのでしょう。
「共同通信は社命で小池氏にブログを再開させるべし!」と言ってみたらどうでしょうね。

Posted by: katoler | 2004.08.12 at 05:49 PM

カトラーさん、申し訳ありません。
操作ミスでトラックバックを2度送信してしまいました。
可能であれば、一つ削除願います。

Posted by: あざらしサラダ | 2004.08.13 at 11:46 PM

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