41歳からの銀メダルあるいは哲学
アーチェリー山本父の意地…いぶし“銀”中年の星 (夕刊フジ)
【アテネ19日=五輪支局】若き五輪メダリストが挫折を乗り越え、20年の時を超えて見事な復活を遂げた。それもメダルの色を銅から銀に輝きを増して。アーチェリー男子個人で山本博(41)がロス五輪以来の表彰台に立った。競技人生30年。家族と教え子に支えられたオジサン教諭が「中年の星」になった。
メダルラッシュが続くアテネオリンピックの中でも、私にとって特に印象に残ったのは、41歳のアーチェリーの名手、山本博選手が銀メダルを獲得し、表彰台に立った光景だった。これまでアーチェリーという競技を真剣に観戦したことは無かったが、山本選手がひたすら自分自身と向き合い、70m先の小さな的の真ん中に矢を射当てる、凄まじい集中力に感動させられた。その姿は、スポーツ選手というより、哲学者もしくは求道者に近いように思えた。41歳の中年アスリートが、誇らしく首にかけた「いぶし銀」のメダルは、同じ中年の私にとっては特に眩しく見えた。
「41歳からの哲学」(新潮社)という本がある。
最初、本屋でこの本の書名を見たときには、「14歳からの哲学」のパロディ版かと思ったのだが、著者名を見れば「池田晶子」とあり、「14歳~」の著者、ご本人であることがわかった。読んでみれば、現代に生きる大人たちに向けたメッセージが彼女独特の語り口で痛烈に伝わってくる。この本に収載された文章は、週刊新潮に連載されたコラム「死に方上手」をもとにまとめられたものだが、「死」の問題だけでなく、時事問題や愛犬のこと、さらには文明批判まで、その鋭いメッセージの矢は多方向に放たれている。
しかし、その中心には、あのアーチェリーの名手、山本選手のように、まったくぶれることなく思索する著者の強靱な姿が浮かび上がってくる。彼女が背筋を伸ばし、渾身の気力を込めて放つのは凛とした「正しき言葉」である。その言葉は、凝り固まったこの世の「既成概念」「固定観念」を木っ端みじんに打ち砕く破壊力を持っている。
よく考えると、命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。いわば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。いったいこれはどういうことなのか。こうした感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を教えることは不可能である。~41歳からの哲学<なぜ人を殺してはいけないのか>より~
「人は何のために生きるのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」こうした問いは、あらためて問われると、答えに窮してしまう。筆者の言葉をかりれば「当たり前のことほど難しい」。そうした問いをあらためて問い、真摯に思索することこそが「哲学」といえるのだろう。池田さんが、誰もが普段は見過ごしてしまっている根源的な問題を日常の話題からギリギリと、それでいて自然体で思索している姿は、アテネの空の下、弓をふりしぼる山本さんの姿にどこか似ていた。
それにしても、私たちが「考える」ことをしなくなったのはいつからだろう。確かに情報は手に入れようとしてもがいている。ネット上やメディアには様々な情報が溢れかえり、「知りたいこと」はYahooやGoogleで検索すれば何かしら引っかかってくる。しかしそうした行為は、単に情報を頭に詰め込んでいるだけで、考えることとは全く似て非なることだということを、この本を読んだ人は気づくだろう。
「しまった!なんと人生を無駄遣いしてしまったことか」と、後悔の念にとらわれたが、著者はこの本の帯カバーに救いの言葉を用意していてくれた。
「考えることに、手遅れはない」
とはいえ、私の場合は、かなり手遅れかも知れないが、少しは頑張ってみるかと思わせてくれた銀メダルであった。
山本さんといい、池田さんといい、木村さんといい、チャーミングな中年が増えてきた。
(カトラー)
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コメント
すみません
池田晶子さんの本をよく読んで見てください。
池田晶子さんの執筆したコラムをよく読んでみて下さい。
あまりにも非道すぎると思うのは私だけではないと思います。
投稿: kinko | 2005.09.03 01:29
kinkoさん、書き込みありがとうございます。
池田晶子さんのファンの方なんでしょうか。
それともその逆ですか。
「非道すぎる」というのは、池田さんの本を評した私の文章が不的確であるとおっしゃっているのか、池田晶子さん自体が問題だとおっしゃっているのか、わからないんですね。
何が「非道すぎる」と言われているのか教えていただけますか。
投稿: katoler | 2005.09.03 08:51