誰も知らない(Nobody Knows)の絶望そして希望
銀座のアニエス・べーで映画誰も知らないとコラボレートしたミニコンサート&トークショーが開催された。
カンヌ映画祭に出品され、主演の柳楽優弥君が主演男優賞をとった話題の作品だが、カンヌでこの映画を見たアニエス・べーが感銘を受け、Tシャツをデザインしたことをきっかけにコラボレーションが実現したという。
「誰も知らない」は、不思議な透明感に満ちた作品である。15年前におきた実際の事件を下敷きにしており、母親や社会から見捨てられた兄弟たちが、都会の一角で漂流するように生きる姿が描かれている。このことだけを捉えれば、社会派の重いテーマを扱った作品と思えるのだが、映画はむしろ淡々とした明るいタッチで子供たちの自然な日常に寄り添うような形で進行していく。
トラックからアパートに荷物が運び込まれてゆく。引っ越してきたのは母けい子(YOU)と明(柳楽優弥)、京子(北浦愛)、茂(木村飛影)、ゆき(清水萌々子)の4人の子供たち。だが、大家には父親が海外赴任中のため母と長男だけの二人暮らしだと嘘をついている。母子家庭で4人も子供がいると知られれば、またこの家も追い出されかねないからだ。その夜の食卓で母は子供たちに「大きな声で騒がない」「ベランダや外に出ない」という新しい家でのルールを言い聞かせた。
子供たちの父親はみな別々で、学校に通ったこともない。それでも母がデパートで働き、12歳の明が母親代わりに家事をすることで、家族5人は彼らなりに幸せな毎日を過ごしていた。そんなある日、母は明に「今、好きな人がいるの」と告げる。今度こそ結婚することになれば、もっと大きな家にみんな一緒に住んで、学校にも行けるようになるから、と。
新聞記事的に言えば、「子育てを放棄した母親!」「子供たちの存在に気づかない無関心な大人たち!」というようなセンセーショナルな見出しが躍るのだろうが、この映画の作品世界はそうした絶叫調のメッセージとは無縁な場所にある。トークショーに出演した是枝監督も述べていたが、最初は実際の事件に対する「怒り」が映画制作の動機になったというが、作品世界では次第にその怒りは別の感情に変化していったという。その別の感情とは何なのか、彼は言葉にはしていなかったが、それは、きっと深い絶望のようなものだっただろうと想像している。
映画の柳楽君が演じる主人公の明が、子供たちを置いて恋人の所に行くという母親に対して「お母さんは勝手だ!」とただ一度、声を荒げるシーンがある。それに対して母親は「私は幸せになっちゃいけないの?」と応える。その答えを聞いた少年の顔に浮かぶ諦めにも似た絶望が、この作品に通奏低音となって響いている。その絶望とは、母親を非難する感情というよりも、そうした「母親」を生んでしまうこの世界そのものに対する深い絶望である。
この作品でYOUが演じている母親は、鬼畜のような母親ではない。心のどこかで「母親」になりきれない、「母性幻想」を鵜呑みにすることができない、その意味では、この国のどこにでもいるような「母親」である。その「絶望」の通奏低音は、子供たちを置き去りにした、この事件の母親、育児ノイローゼや我が子に対する虐待が止められない親たち、「適応障害」に苦しむこの国のプリンセスの心にまで流れ始めている。
「母性」というものはひとつの幻想に過ぎないーという認識、それを「絶望」と言い換えてもよいのだが、そうした認識に立つ地点からしか、もう一歩も先に進めないところに私たちは来てしまったのではないか。もちろん、子育て支援のために解決すべき現実的な課題は数多く存在するし、そうした問題にはひとつひとつ取り組んでいかなくてはならない。しかし、根本的には「よき母親たるべし」という暗黙のプレッシャーが支配するこの国の「母性幻想」をいったん壊さない限り、母親たちが感じている真綿で首を絞められるような閉塞感や身動きがとれない状況からぬけだすことはできないだろうと考えている。
しかしながら、母性幻想が壊れた日本とは、一体どんな世界になるのだろうか。小泉首相が涙したように、戦争中、多くの若者が「おかあさん」と叫びながら戦死していった、その屍の上にこの国の平和は築かれている。その意味で、日本の一般大衆の心を基底部分で支えていたのは、宗教でも天皇制でもなく、母性原理だったのではないか。だとすれば、その母性原理を捨てたとき、日本人は一体何と叫んで死んでいくことになるのだろう。母性幻想を壊すとは、日本人のメンタリティやこの国のかたち自体も大きく変えることを意味する。
映画に話を戻そう。
「絶望」についてばかり述べてきたが、この映画の作品世界で、「希望」と呼べるものがあるとすれば、それはここで描かれた子供たちの姿だろう。映画では、母親が居なくなったマンションの一室で子供たちだけの生活が始まるのだが、それはある種、都会というジャングルの中に築かれた秘密基地、自由の王国のような趣もあり、当初はワクワクする気持ちも子供たちの表情に生まれている。観客はこうした子供たちだけの暮らしがいつまでも続けば良いのにとさえ思うのだが、一番小さな妹の死によって、その自由の王国には終わりが来てしまう。
子供たちはとにかく、未来に向かって成長していく。そして生きることに対して真摯であり、誇りを持っている。そのことが、悲惨な現実を下敷きにしているにもかかわらず、この作品に力強い「希望」の調べを与えている。
作品の終わりに近い部分で、タテタカコさんという長野県飯田に在住の女性シンガーの「宝石」(試聴可)という曲が流れるのだが、これが本当に素晴らしい。アニエス・ベーのミニコンサートで歌ってくれたのだが、ショートカットが似合う少年のような女性で、硬質なボーイソプラノのような声と音楽性は、新しい才能の登場を実感させられた。是枝監督は、この映画の制作に際して、当初からこの歌を使うこと決めていたというが、この歌から映画のイメージが膨らんでいったのではないかと思えるほど、映画のシーンとマッチしている。
「宝石」 作詞・作曲 タテタカコ
真夜中の空に問いかけてみても
ただ星が輝くだけ
心から溶け出した黒い湖へと
流されていくだけ
もう一度天使はボクにふりむくかい?
僕の心で水浴びをするかい?
やがてくる冬の嵐に波が揺られて
闇の中へぼくを誘う
氷のように枯れた瞳で
僕は大きくなっていく
だれもよせつけられない
異臭を放った宝石
この映画の下敷きになった15年前の事件の公判で、証言台に立った、長男の少年は、母親の期待に応えられなかったと、自分を責めて泣いたという。
現実は、映画に比べてさらにせつない。しかし、証言台で泣いたという少年の姿には希望を感じさせられた。その少年も、もう大人になって誰かと家庭を持ち、立派な親になっているはずだ。
ふと、15年前のその少年と一緒に、この映画をもう一度見たいと思った。
(カトラー)
<アニエスベー銀座店での展示:アニエスベーと是枝監督(左)、撮影で使われたサンダル(右)>
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コメント
こんばんは!
TBありがとうございます。
アニエス.bでのイベント、予定があり参加できなかったので、
レポートはひじょうにきょうみ深かったです。
また映画についての考察も、はやくさくひんを見たいなあと
思わせるような内容で、おもしろかったです。
ぱんは今週の水曜に『誰も知らない』とみるよていです。
まちきれないほど、楽しみになってきました!
それでは、また訪問します。
投稿: ぱんスキュー | 2004.08.29 23:16
はじめまして。こんなイベントがあったのですね。行きたかったです。
私は、この映画そのものからはまったく希望らしきものは感じられず、そのためにあの場面で切ったのかな、と思いました。
事件の報道があったときには、報道の仕方についていろいろ議論もあったようですね、母親がそこまで追い込まれた原因にも目を向けるべきであるとか。
投稿: 小林 | 2004.08.29 23:20
こんにちは。
トラックバックしていただいたので訪問させてもらいまいした。
この映画は見る人によって感じ方が大きく異なるとは思うのですが、
すばらしい作品であったと思います。
あの子供たちが置かれた悲惨な状況の中から、
希望のような、純粋で無邪気な想いを僕も感じました。
考えることが山ほど湧き上がってきます。
映画を見終わって、時間が経てば経つほど心にひっかかってきます。
もう一度見てみたい作品です。
アニエス・ベーのイベントうらやましいです。
知ってはいたのですが、いかんせん奈良県在住なもので……。
とても残念です。
また訪問させてもらいますねー。では。
投稿: ハチマキ | 2004.08.30 11:45
カトラーさん、初めまして。
TBありがとうございました。
現実問題として、この子供達に希望が見出せるかわからないんですが
もしそうだとするなら彼等が決して生きる事を諦めなかったって事かなって気がします。
振り返る暇さえないですよね、他に選択肢もない年齢だったと思うし。
可哀想なのは、母親を憎めないって事かな。
母親も子供の存在を疎ましくは思っていなかったみたいですし(映画の中では)。
もちろんそこに「母性」があったのかは疑問ですが。
ただ単に同居人として愛していただけかもしれませんし。
あとこの問題は母性と共に父性の不在にも端を発していると感じました。
投稿: るるる@fab | 2004.08.31 00:03
すみません、Tbが重複エントリーになってしまいました。
お手数お掛けしますが、2つは削除してください。
投稿: るるる@fab | 2004.08.31 00:29
ふだん映画は見ません。でも前から気になっていた映画でした。父親という意識がやや希薄かもしれない私でさえボロボロ泣いてしまいそうな感じはありますが観ることにしました。ただし一人で。
なんとなく、ですが「ほたるの墓」を想起させる話です。戦争という異常環境と、「イマ」という時代が、ひょっとすると見えないところで通じているのかもしれない。
投稿: miyakoda | 2004.08.31 13:36
コメント、トラックバックをありがとうございます。
映画「誰も知らない」は、上映館が限られていることもあるのかも知れませんが、連日、立ち見が出て、盛況のようですね。こうした映画が高い評価を得るのは、とてもうれしいことです。
皆さんのコメントやトラックバックしていただいた記事を拝見すると、家族の問題を色々考えさせられました。miyakodaさんがおっしゃるように、現代の子供たちは平和な時代にあって心の戦場を生きているのかも知れないという気がしました。この映画の兄弟の姿は、イラクの街に溢れる親を亡くしたストリートチルドレンに限りなく重なります。
母性幻想をいったん壊すべきだと書きましたが、実際には、こうした幻想はとうに壊れているのかも知れません。nomaddaemonさんの「(母性幻想が崩れた)時代にあって、なぜそうなって、どうするべきなのかを語るべきなんじゃないか」という指摘は全く同感です。しかし、私の場合も「ステキなアイデアで一刀両断」できるような家族ビジョンを持ち合わせていません。もしかすると、それぞれの生き方の数だけ家族の形があって、ビジョンなど描けないというのが、本当のところかなという気もしています。こう言うと、結局、成るようにしかならないという大変無責任な結論になってしまうので身も蓋もないのですが・・・。
社会問題として考えた場合は、男女共生型の社会に家族は向かわなければならないだろうと考えます。るるる@fabさんがおっしゃるように父性の不在もこの事件の背景にはありました。その意味で、出生率を上げるために「母性保護」の大合唱になるのは、かえって女性たちを追いつめることになるでしょう。それはプリンセス雅子が迷い込んでしまった袋小路でもあります。父親がもっと子育ての面で存在感を持つというのが、とりあえずできることでしょうか。娘が長じた私の場合は、既に手遅れですが・・・。
投稿: katoler | 2004.08.31 17:37
トラックバック、いただきまして、ありがとうございます。 ^0^
あの事件の場合、子供を置き去りにした非情な母親・・・そして、その後ろには、母親同様、無責任な複数の父親が存在しています。ただ、自分のblogに書きましたように、その女性にだって、わずかな母性というものがあったと信じたい・・・と私は思っています。
「100%の悪」、というのは、どこにも存在しないと思うのです。そして、それは我々の誰もが、いつその暗闇に堕ちてゆくかわからない・・・そういった恐ろしいものだとも思っています。
先日も、福井で、1歳の子供が病弱な母親が急死した後、孤独死しましたよね。借金とりの執拗な取立てにあっていたことは周知の事実だったようですが、誰も助けてあげることができなかった・・・。
「誰も知らない」が描き出している世界は、決して十数年前の事件でもなければ、単なる“物語”でもない、ということですよね。それは、自分に対する戒めと受け止めるようにしています。
まだ、blogには書いていないのですが、昨日、タテさんの京都のライブに行ってきました。対バンあり、のライブですが・・・。(元々、音楽好きなので、ライブハウスはよく行きます)ステキな歌声でした。
最後になりましたが・・・猫ちゃん、可愛いですね。
私の家にも3匹、猫 ^・・^ がいます。全て、見るにみかねて拾った捨て猫ですが、大切な家族です。猫は大事に飼ってあげれば、20年は生きられます。口がきけない分、注意深く見守ってあげてくださいね。(くれぐれも外には出ないように。車に轢かれる、猫エイズにかかる・・・ろくなことはありません。 (; ;) )
長々のお目汚し、失礼いたしました。 m(_ _)m
投稿: hanna | 2004.09.06 12:18
こんにちは、くりおねです。
お礼が遅れましたが、ジャンバラヤへのトラックバックをありがとうございました。
この映画は絶対に見たいと思っていたので、見てからカトラーさんのエントリを読もう、と思っていたのです。
様々な問題を静かに語るこの映画が多くの方に見られていることは、とてもうれしく思います。
未来へ向かって、ひとりひとりが少しでも大切にされる社会を作っていくのが私たち大人の責任なのかな、と、見てから時間をおいて今さらのように思いました。
投稿: くりおね | 2004.09.12 17:34
カトラーさん、こんにちは♪Ochanokoです。
(先ほど、カトラーさん宛に打ったコメントが、回線の混雑を理由に消されてしまったので、再度送らせて頂きます。もし送信がダブってましたらご了承下さい)
誠に勝手ながら、カトラーさんのブログをマイブログリストに入れさせて頂きましたのでご連絡します。支障等がございましたら、お手数ですがご一報頂けますでしょうか・・?
池田晶子さんの本、面白いですね~!私も大学では哲学を専攻していたので、思考回路的にはかなり親近感を感じます。カトラーさんの注目視点は私の求めるものが多く、ひれ伏す思いです。(‘Taken&Taken’ばかりの私は「ブログ人」失格かな・・・)
「誰も知らない」の記事もまた、考えさせられました。「母親」かぁ~・・・。
あらゆる状況下においても現状を手玉に取って「楽しめる」才能があれば・・と理屈では思っていても、思うようにはいかないのが現実なのでしょうね~。今の時代だからというよりも、どの時代も「人生」はラクではないと思うので、数々の試練は、その人がそれを超えられるからこそ与えられるものであって、超えたときには人として前進しているという保証もついてるものだと思えたら・・・味わい深い人に成長してゆけるのかなぁ?と理屈を並べる私も、母親なんて大役をした時には、絶望の淵に泣いてそう。。
投稿: ochanoko | 2004.09.15 18:00
初めまして。
映画はとっても優しくて、日溜まりにいるような優しさだと思いました。
カトラーさんの記事を読み、それは「希望」という光だったんだなぁと思いました。
トラバはらせてもらいました。
投稿: ともっち | 2004.09.17 10:13
今日、『誰も知らない』を見てきました。
改めてカトラーさんの感想を読みました。
実在の少年が「期待に答えられなかった」と言って泣いたという部分、観たあとではとても胸がつまります。
その意味ではドキュメンタリーに限りなく近い作品だったのかと思い直したりしているところですが。
観た直後の素直な感想を、もうひとつのほうのブログに書きましたので、トラックバックさせていただきますね。
投稿: ぷれこ | 2004.10.20 01:19
どうしてTBガ2つずつ?
この時期、ライブドアもアメーバブログもかなり重かったので。大変、失礼いたしました。
投稿: ぷれこ | 2004.10.23 15:35
お邪魔します。
興味深くレビューを拝見致しました。
「この映画の下敷きになった15年前の事件の公判で、証言台に立った、長男の少年は、母親の期待に応えられなかったと、自分を責めて泣いたという。」
この事実を知って、複雑な気持ちになりました。
ボクも今作のレビューを書いてますので、トラックバックをさせて下さいませ。よろしくお願いします。
投稿: マーク・レスター | 2009.01.18 19:59