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カリスマの頓死あるいは詐欺師の生誕

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堤義明氏辞任:西武鉄道Gの全役職退く 保有株を大量訂正 <毎日MSNより>

 西武鉄道グループのコクドの堤義明会長は13日、東京都内で記者会見し、コクドとグループ会社の全役職を辞任し、経営の第一線から身を引くことを明らかにした。コクドが筆頭株主になっている西武鉄道の株式保有比率を有価証券報告書に過少に記載していた事実を明らかにし、責任を取った。

西武鉄道グループの総帥、堤義明が有価証券報告書に虚偽の記載をしていた責任をとって全ての役職から退くという突然の発表があり、日本中に衝撃が走った。中内功が率いたダイエーの産業再生機構への支援要請、ナベツネの巨人球団オーナーからの辞任・・・とカリスマ経営者と呼ばれた人物が、次々と表舞台から姿を消すという事態が続いている。

こういう状況を、一般メディアは、カリスマの「終焉」だとか「落日」だとか評しているのだが、こうした表現にはどうも違和感を感じる。もっと適当な言葉がないだろうかと考えていたのだが「頓死」という言葉が思い浮かんだ。

このところのカリスマたちの失墜には、「驕れる平家久しからず」と語られる時の無常感というか哀しみが感じられない。世界の中心で輝いていたスーパーパワーが落ちぶれ、くすんでいく寂寥感、地平線に沈んでいく夕日を眺めている時に感じる哀愁のようなものが全く伝わってこないのだ。辞めたカリスマたちは、いずれも馬糞のように意味も無くポタポタと墜ちていったという印象で、ある種の滑稽感さえつきまとっている。かつての「カリスマ」たちが、無意味に頓死を遂げていく状況・・・これは一体どうしたことなのか。

カリスマが氾濫する現代

カリスマ(Charisma)という言葉は、ギリシア語の「カリス:神からの授かりもの」という言葉が語源になっているが、一般化したのは、20世紀になって、マックス・ウェーバーが社会科学の言葉として使い始めてからのようだ。その意味では、由緒正しき言葉といえるのだが、最近では「カリスマ教師」にはじまり「カリスマ主婦」「カリスマ店員」等々、カリスマ××という言葉が巷に氾濫し、「犬も歩けばカリスマに当たる」状態になってしまった。

ウェーバーによれば、「支配」には三つの類型が存在する。すなわち、合理的(合法的)支配、伝統的支配そしてカリスマ的支配である。カリスマ的支配においては、支配者の持つカリスマによって、支配の正当性と被支配者からの支持が与えられることになる。
ただし、この「カリスマ」というものは、そもそも実体のないものである。ウェーバーは、宗教的なカリスマは、それまで偶像崇拝をおこなっていた部族宗教の信者に対して、偶像(実体)を捨てさせ、福音(神の言葉)を信じさせることで、普遍宗教(ユダヤ教、キリスト教)へと導く力を得たと論じている。逆にいえば、カリスマとは、もともと何か実体のある能力や財力を指し示すのではなく、福音の言葉のように何かを約束するだけの存在、あるといえばあり、ないといえばなくなる曖昧な存在だ。そしてキリストのような宗教的なカリスマについていえば、その約束の世界を遙か遠い彼岸に描くことで、その宗教的普遍性や永遠性を獲得できたといえるだろう。

カリスマと詐欺師は紙一重

仮に実体のない言葉を信じさせるのが、カリスマとしての本質だとすれば、それは「詐欺師」に限りなく近づき、ほとんど紙一重の違いということになる。キリストとヒトラーを同じ土俵で論じたら、キリスト教徒からは冒涜行為と非難されるかも知れないが、この両者が宗教的カリスマとして共通していたのは、二人とも生きていた当時は「詐欺師」呼ばわりされていたことだ。しかし、私はキリストとヒトラーは、ある一点で全く本質的に異なっていたと思っている。それは、キリストは、自分自身が救世主であることを、十字架に磔にされ、殺されたその瞬間まで疑っていたのに対し、ヒトラーは自分がドイツ民族の救世主であることを信じて疑わなかった点である。繰り返しになるが、カリスとは、神からの授かりものであって、努力して手にいれたり、自らが決めてそうなれるものではない。「自分は救世主(カリスマ)である」と宣言するカリスマには、そう述べた時点で、既に何かしらの詐術あるいは自己欺瞞が入り込んでいる。
実のところ、人は他人に自分の言葉をうまく信じ込ませることで詐欺師になるのではない、自分自身を見事に騙した時、正真正銘の「詐欺師」になるのだ。

「株式実務などにはノータッチで、最近まで何も承知していなかった」堤義明は、記者会見の席上、能面のように表情も変えずにこう述べた。恐らく彼は、そう述べた自分自身の言葉を正に文字通り信じていただろう。だからこそスラスラと臆面もなく語ることができたのだ。もう少し踏み込んだ想像をすれば「私は本当に知らなかったのだ!非難されるべき点があるとすれば、自分が裸の王様であったことだ」と弁解したかったに違いない。
堤義明をはじめとする最近のカリスマたちの失脚は、第一には「高度成長」という福音の言葉を彼らが語れなくなってしまったことに起因している。キリストでもない限り、現世の人間、ましてや経営者のカリスマ性などというものは、いずれ色褪せる時が来る。それは神ならぬ人間である以上しかたのないことだ。問題は、カリスマからただの人になった時に、人間としてどんな表情を持つかということであろう。

報道陣のカメラフラッシュの前で、苦しい言い訳を並べ立て、その言い訳を自らに信じ込ませることしかできなくなった、かつてのカリスマの姿は、色褪せたというよりは、むしろ「詐欺師」に近かった。

(カトラー)

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コメント

TBSラジオ番組「アクセス」の
2004年10月15日(金)のテーマ に
「ダイエー、西武など相次ぐ企業トップの辞任で考える。
カリスマオーナーによる経営は、
もう時代遅れだと思いますか? 」
というのがありましたが、
情報化がすすむことで
あらゆる場所に平均化された「人物像」が
見いだされ、そこに当て嵌められる「コトバ」も
同じように平均化された価値として偏在していきます。
ただ浮遊してさえいれば「自分自身を見事に騙せる」
時代は終わったのでしょうか?
それともそんな時代などはじめから無かったのでしょうか。
自己も他者も信じない「救世主」が
騙る「ことば」の無意味さは
どこか国会や大統領選の「道化師たち」に通じるところが
あるのかも知れませんね。

投稿: sunrain | 2004.10.19 22:45

sunrainさん、コメントをありがとうございます。
個人的には、中内功にせよネベツネにせよ、カリスマ経営者と呼ばれる人物は好きなんですね。部下として働かされたらたまらんと思いますが・・・。
このところのカリスマ経営者の問題は、市場や株主など企業としてのステークホルダーの利害が複雑に絡み合う経営環境になって、カリスマ型の経営手法が行き詰ってしまったといえるのでしょう。ひとりの超人的な経営者がすべてを取り仕切るなどということが、現実的には不可能になっているのだと思います。
米国の大統領が、ヒトラーやサダムフセインのような独裁者と異なるのは、一見、強大な権力をもっているように見えても、近代化された政治システムの中では、「大統領」という立場は、一種象徴的な記号として機能しているということでしょう。そうしたシステムの中では、カリスマ性などというものはかえって邪魔な要素になります。
ブッシュやケリーのような凡庸な人物しか大統領候補になりえなくなっている現実を見ると、ご指摘のとおり、カリスマというもの自体が成立しなくなった時代なのだなあという一抹の寂しさを感じます。

投稿: katoler | 2004.10.22 11:07

面白かったです。
カリスマだと自分自身を騙せる人と、カリスマだと持ち上げてぶら下がろうとする集団がいて、カリスマは成立するんでしょうね。

投稿: ぷれこ | 2004.10.23 22:40

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