２０１０年 映像・メディアビジネス 未来への旅（４） ～クオリアが提起するもの～

今年のシーテックは、デジタル家電やユビキタステクノロジーに対する期待を背景に大きな盛り上がりを見せた。家電メーカー各社は、大型の薄型テレビの新製品をこぞって出品し、画質はもちろんのこと、ネットワーク機能などユビキタス時代に向けた新機能を競い合った。

SONYは、トリニトロン方式で圧倒的な強さを誇ったブラウン管テレビに固執したために、プラズマ、液晶など現在の薄型テレビ市場の立ち上がりに決定的に乗り遅れてしまったといわれていたが、ハイビジョン液晶テレビの「QUALIA（クオリア）」を発表し、久しぶりに元気な姿を見せていた。
「QUALIA」は、SONYのブランドイメージ全体を牽引すべく構想された戦略的なブランドである。テレビだけではなく、ヘッドフォン、プロジェクターなどSONYのAV製品に冠せられたトップブランドで、従来の量産方式によらずにマイスター制度を導入、手作りに近い生産方式で、最高峰の画質や音質を提供することに徹底的にこだわっている。
シーテックで発表された液晶薄型テレビの「QUALIA」も画質、特に「色」こだわっていた。デモンストレーションでは、真っ赤なポルシェが画面に映し出され、他の薄型テレビの映像と比較されていたのだが、その違いは素人目にもはっきりとわかるほどだった。この商品のキャッチフレーズにうたわれているように、人の視覚に「記憶に残っている色」があるとすれば、確かにそこに見えていたのは、鮮烈なポルシェの赤であった。私はポルシェというクルマに特別の思い入れがあるわけでも、ましてやユーザーでもないのだが、「ああ確かにポルシェの赤色は、こうした赤であった」と実感させられる映像だった。コンパニオンの説明デモが終了すると、説明を聞いていた来場客たちがどっと「QUALIA」に近寄り、画面間近まで顔を寄せて、魔術の種明かしを求めるようにまじまじと見入っていた姿が印象的であった。

脳科学の中心問題となった「クオリア」

「QUALIA（クオリア）」という言葉は、単に製品ブランドであるだけでなく、言葉としての本来の意味と由来を持っている。それは、「意識の中で立ち上がる、数量化できない微妙な質感」のことをいうのだが、「QUALIA」シリーズのコンセプトメーカーであり、脳科学者の茂木健一郎氏がキーコンセプトとして提唱したものだ。茂木氏によれば、クオリアという言葉は、もともとは「質」を意味するラテン語だったが、1980年代にオーストラリアの哲学者が、人間の主観的な体験を作っているさまざまな質感（クオリア）は、これまでの科学の方法では説明できないのではないかという疑問を投げかけた。この論文は科学者に大きな影響を与え、クオリアという概念はやがて脳科学の中心的な問題と見なされるようになってきたという。

茂木氏はソニーコンピュータサイエンス研究所に籍をおき、研究者として脳と心の関係を探求する一方で、文芸や美術の分野で切れ味の良い評論を発表し注目を集めている俊英だ。この９月末には「脳と仮想」という新著を上梓し、クオリアからスタートした問題意識を現実社会との関わり、「仮想」という領域まで発展させ、鋭い文明論を展開している。
「QUALIA（クオリア）」とは何なのかについて彼は「世界は無数のクオリアに満ちている」という文章で以下のように述べている。

「今までの科学は、数にできるもの、量として計れるものばかりを対象にしてきました。ある物質の質量がいくらか、長さがいくらか、速さはいくらか、というような性質は、すべて、数で表せるものばかりです。ところが、私たちが感じている赤や緑といった色、水の冷たさ、バイオリンの音色、かぐわしいバラの香りといった『クオリア』は、どう考えても数値に置き換えることができません。そのため、今までの科学に用いられてきた、ものの性質を数字で表して、方程式の中で記述するという方法に当てはまらないのです」

脳科学者としての茂木氏は、この世の全ては、容積１リットルの「脳」という器官のなかで生じている「脳内現象」であると断言する。しかし、同時にその現象には、還元主義的な現代科学の認識論では捉えきれない、また原理的にも説明できない何か、脳神経細胞がスパークすることで生まれてくるような何か、すなわちクオリアが立ち現れてくると指摘する。
例えば、ワインとの出会い・・・そのクオリア体験を以下のように語っている。

「・・・二杯目を口に運んだとき、初めてシャトー・ラトゥールのクオリアの何たるかがわかりました。人生にそう何度もあることではありませんが、ものすごく魅力的な異性に出会ったときの感覚に似ていました。『うれしい』というのを越えて、心がはしゃいでしまう。長い冬が終わり、春が来て花が咲いて『ああ、どうしよう』と思うほど心が浮き立つ感覚。それが、その時の私にとってのシャトー・ラトゥールのクオリアだったのです」

仮に、熟成を重ねたシャトー・ラトゥールの旨味成分の化学組成や、それを舌が受容した際の神経シナプスの動きが実証できたとしても、それは心的現象そのものを説明したことにはならないだろう。ちょうど、炭素＋酸素＝二酸化炭素　という燃焼の化学式が、今、ここ、目の前で燃えさかっている「炎」それ自体を説明しているわけではないように。

だいぶ横道にそれてしまったが、話をもう一度、最初に戻そう。
茂木氏の「クオリア論」そしてその理論が現実化させたともいえる「QUALIA」に接したことで、私は、デジタルメディアの新しい可能性についてひとつの確信をいだくようになった。近い将来、到来する「ユビキタス世界」では、映像やテキストなどのコンテンツが、同質化されたメディアネットワークを通じてシームレスに媒介されることになるといわれている。私が抱いた確信とは、ユビキタス・ネットワークにおいては、単に既存のコンテンツがシームレスにつながるということではなく、コンテンツそれ自体またはコミュニケーションのあり方それ自体に劇的なイノベーションが伴うことになるだろうということだ。

テクノロジー（技術）とアート（芸術）の融合

現在のテレビで放映されている人気コンテンツが、携帯電話など他のデバイスでも見れるようになるというようなことを次世代の「ユビキタス世界」と呼ぶのでは、あまりに想像力に乏しい話だ。現在のメディアやそれが提供しているコンテンツの延長上に、ユビキタス世界のメディアの姿は描けるのではなく、未知なる驚き＜クオリア＞を媒介するものこそ「ユビキタス世界」のメディアと呼ぶに相応しい。

茂木氏の言葉を借りれば「赤や緑といった色、水の冷たさ、バイオリンの音色、かぐわしいバラの香り」そうした＜クオリア＞を媒介し、人々の心に感動を生み出していくことがメディアの新しい役割になるのではないかと考えている。デジタル機器もさらに進化するだろう。従来のデジタルの限界を超えて、フラクタル関数のように、限りなくアナログの世界をシミュレートするようになり、デジタルとアナログの壁が崩れるかもしれない。多少ＳＦじみた話になるが、そこでは、例えば、使いなれた道具のように、使い込むほどに進化するデジタル機器というものも登場することだろう。個人の嗜好や癖を学習して機能を進化させるプログラムを持つ掃除機や洗濯機なんていうのも製品化されるかもしれない。
既に気づかれていると思うが、クオリアとは、芸術的な感動に限りなく近い。したがって２０１０年のユビキタス世界では、クオリアを媒介するテクノロジー（技術）とは、限りなくアート（芸術）に近づくといっても良いだろう。テクノロジーとアートが合体した世界というのは、ルネサンス時代の人々が夢想した理念でもあった。平成日本のユビキタス世界には、新しいダ・ヴィンチが生まれてくるだろうか。

（カトラー）

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