ブログのパワーとは何なのか:幻獣リヴァイアサンvsうじ虫
私の利用しているココログには、アクセスカウンターが装備されていて、時間ごとの数字が棒グラフになって示されるのだが、昨日のアクセス件数が6949件に達しているのを見て、驚かされた。これは通常の10倍の数字である。
こうした数字になったのは、ひとつには、私のエントリー記事が「週刊!木村剛」とR30さんのブログで紹介されたからだ。加えて、検索エンジンを通じたアクセスが急増したことが大きい。「鹿内春雄」「鹿内家」「フジテレビ 鹿内」といった鹿内関連のキーワード検索によるアクセスが1000件を超えていた。というのも、この日、鹿内家が大和証券SMBCに対して、以前保有していたニッポン放送株をフジテレビに売却したのは、売買契約違反に相当すると買い戻しを求めたという、NHKのスクープが報じられたからである。このニュースが流れるや否や、検索エンジンに「鹿内」というキーワードを打ち込む人々が急増し、既にエントリー済みであった私の記事を多くの人たちが読んでくれることになったと推測している。
といっても、7000件程度のアクセス数で驚いているのは、カワイイものである。個人のブログで一般の商用サイトのアクセス数を大きく凌駕するようなサイトも続々と現れている。私の記事を紹介してくれた「週刊!木村剛」や「R30」さんのブログなども個人が主宰するパワーブログのひとつだろう。先日、伊藤穣一氏の話を聞く機会があったが、彼のJOI ITO Blogは、Googleでリンク数を調べると24700件を越えており、これは17800件のasahi.comを大きく上回る。
今回のライブドアvsフジテレビの問題、そして、この騒動ですっかり関心がそれ狂喜している思われるNHKvs朝日新聞の問題は、メディアが「第4の権力」であり、固有の権力構造を抱えていることをあからさまに露呈させた。こうしたメディア絡みの企業買収の問題を論じる上で、一般企業の買収問題と根本的に異なるのは、そこに権力の問題が絡む点だ。ライブドアがニッポン放送株のTOBを宣言したとき、「メディアは公器だから」という大義名分を掲げ、自民党を中心とした政治家がこぞってライブドアの動きに不快感を示した。こうしたことは一般企業の買収問題であれば考えられない行動だが、政治家が臆面もなくフジサンケイグループ擁護の行動に出たのは、ライブドアの行動が、彼らが拠って立っている権力構造そのものに抵触することを本能的に分かっていたからだ。
つまり、この問題を通じてわれわれが立ち会っているのは、単に企業買収の話ではなく、まぎれもなく権力闘争なのである。
話をもとに戻そう。ブログが新しいメディアあるいはメディアツールであるとしたら、ブログもこれまでのマス・メディアと同様、その無意識は「権力」をめざすのだろうか。確かにそうした志向を持ったブログも世の中には存在するが、私は違うブログの未来を想定している。この点について以前、エントリーした記事で紹介した、雑誌「選択」の元編集長、の言葉をあらためて紹介したい
「ブログ」の中のうじ虫<asahi.com 2002.5.11より>
・・・(前略) ブログはプライバシーや知的所有権といった概念とは相容れない。近代経済社会を構成する「個人」と「法人」を前提とした同心円は、私語のブラックホールを埋められないのだ。チーズのうじ虫が天動説の神学を覆したように、ブログのうじ虫も資本主義の神学を食い破りかねない。 資本主義の一端にすぎない商業マスメディアもその累を免れない。米国では、ライターと「ブロガー」の兼業まで登場した。広告収入減に苦しむ新聞などの公式サイトを尻目に、人気ブロガーのサイトは一日数十万のヒットを誇る。ブログでは奇説珍説が尊ばれるから、リベラルより「極右」に人気が集まる。「インターネットが民主主義の味方」なんて嘘(うそ)っぱちなのだ。
ブログをうじ虫というなら、マス・メディアは「幻獣リヴァイアサン」といえるかも知れない。リヴァイアサンとは、17世紀の哲学者トマス・ホッブスが「国家主権」のメタファー(暗喩)としてとりあげた旧約聖書の幻獣の名である。ホッブスは「万人の万人に対する戦いの世界」が現出しているような混乱の時代にあって、社会の自然状態から生まれる混乱と対立を解消するために「国家主権」というフィクションを設定し、それを旧約聖書に登場する幻獣リヴァイアサンになぞらえた。マス・メディアの起源も国民「国家」と同様、国民(大衆)の成立と表裏一体の関係にある。とすれば、大衆(マス)を拠り所にした「言論装置=幻獣リヴァイアサン」としてマスメディアを対置させることができるだろう。
もともと、うじ虫は幻獣リヴァイアサンにとって代わることなどできはしない。だから、平常時は、この両者は何の問題もなく共存することができるだろう。しかし、ひとたび、幻獣に腐臭が漂い、それを嗅ぎつけるや、うじ虫はその体の至る所にとりつき、胃壁を食い破る獅子身中の虫になりうる。うじ虫が問題なのではない。腐臭が漂うマスメディアばかりになってしまったことこそが問題の本質だ。
(カトラー)
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コメント
しかし、この選択のヒト、えらく極端な拒否反応ですね。宮沢賢治なら必ずブログに飛びついたと思うけど。ただ私は、ブログが権力を目指しても全然かまわないと思います。
投稿: soulnote | 2005.03.09 11:50
ブログのことをうじ虫と表現するのは、(まさかとは思いつつ)揶揄なのかなと思ってよみすすめましたが・・・最後はナルホドと思いました。
生命力たくましくどこにでもいて貪欲にくらいつくというのに適した表現だなぁと、最後は感心しましたです。
投稿: Tinkle | 2005.03.09 12:20
ちょっとずれているけど、私の好きな漫画の台詞を思い出しました。
「我々は神の庭に住む害虫だ。だが、そこが神の庭であるかどうかなんて、我々の知ったことか。」
私も題名を忘れちゃったんですが、佐藤史生の初期の短編ですわ。
全然違う話なのに、妙に共通している…不思議です。
投稿: わに庭 | 2005.03.09 14:30
コメントの書き込みをありがとうございます。
ブログをうじ虫になぞらえた阿部重夫氏は、元日経新聞の記者で、日経の中でも指折りの文章家といわれた人物です。この文章が書かれたのは、3年前で、ブログのことがまだ日本では全く話題にものぼっていない時代でしたが、その本質を鋭く見抜いていました。阿部氏が編集長の時代、雑誌「選択」は、権力に対する果敢な編集姿勢によって大いに紙価を高めましたが、選択の発行者が裏で総会屋的な動きをおこなっていたことを知るに至り、これを告発して編集長の職を辞しました。
投稿: katoler | 2005.03.10 15:14
カトラーさん、ども。ブログ=うじ虫かあ。阿部重さん、本当にすごいな。言い得て妙すぎる。あの人はやっぱり天才だ。もしジャーナリズムに天才というものが存在するならば。
しかしながら、阿部重さんが辞めてから選択は完全なクソ雑誌になり果てましたね。彼はどこにいったんだろう…。
投稿: R30 | 2005.03.11 02:28