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オウム事件から10年、映画「カナリア」が問いかけるもの

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“オウムの子”はるかな道…映画「カナリア」公開 2005年03月03日(木) 夕刊フジ

 95年3月20日のオウム真理教による地下鉄サリン事件から10年。その戦慄(せんりつ)と恐怖、悲しみは今なお消え去ることはない。そんな中、かつてカルト教団に属していた子供のその後の姿を描いた映画「カナリア」(塩田明彦監督)が12日公開(東京・渋谷アミューズCQNなど)される。

新設された渋谷アミューズCQNで「カナリア」(塩田明彦監督作品)を見た。

地下鉄サリン事件から10年が経過して、あらためてオウム真理教に関して様々な論評が加えられているが、この作品は、フィクションという装置を使って、オウムの問題の全体像に迫ろうとした初めての取り組みといえるだろう。塩田監督は「黄泉がえり」などの秀作で知られ、独特の緻密なフィクション世界を構築してみせる、見事な手腕を持った監督だが、この作品ではこれまで意識したことのない困難に直面しただろうと想像している。
というのも、事件から10年余りが経過した今でも、オウム真理教という存在自体がひとつのフィクション装置であり、信者たちにとっては強烈なファンタジーとして存在し続けているからだ。オウムの教義や信仰は、麻原彰晃こと松本智津夫が作り上げた荒唐無稽な「妄想」に過ぎないと斬り捨てることは簡単だ。実際、世のメディアや評論家たちの多くは、麻原を「詐欺師」のように描くことで糾弾してきたわけだが、それによって実は何も片づいたことにはならない。人間はフィクションやファンタジーなしでは生きていけない動物である。時に荒唐無稽な「妄想」であってもそのために喜んで命さえ投げ出す。命がけでファンタジー(妄想)を見ようとしていた人間達に「それは妄想だ、お前は騙されているのだ」と諭してみても無意味に響くだけだ。
映画監督や作家がフィクションという装置を用いて、物語世界を構築する作業は、ある種、観客に「妄想」を抱かせる詐術にも似ている。とすれば、オウムを題材に、もうひとつのフィクションを構築して見せる作業とは、オウム真理教が生み出した奇怪なファンタジーと正面から対峙することに等しい。

オウムを解体するのもフィクションの力

逮捕されたオウムの幹部で井上嘉浩という人物がいる。麻原の右腕として活動したが、逮捕後、麻原への信仰を捨て、罪を認めた。罪は認めたものの当初は、「被害者の苦しみを自分が引き受け、救済するために瞑想する」と宣言して拘置所の中でチベット仏教に傾注したという。そうした井上の姿を見て、被害者の遺族達は当惑し、憤った。回心したといいつつ、井上の行為はもうひとつの「オウム」、「麻原ぬきのオウム」を構築していることに他ならなかったからだ。こうした井上に対して彼の弁護士が粘り強く遺族の心情や井上が犯した罪について対話を続け、市井の人々の心情に気づいてほしいと池波正太郎や山本周五郎の小説を差し入れたという。井上はその物語を読んで号泣し、自分が犯した罪の大きさや、意味について考えはじめたという。
井上の心の中で、オウムによって構築された奇怪なファンタジーを解体し、無化させたのもやはりフィクションの力なのである。

映画に話を戻そう。
塩田監督がこの映画で描いたのは、オウム後の日常を生き抜くことをさだめられた人間の姿である。
オウム後の日常とは何か。それは、最後の拠り所にしていた「ファンタジー」を根本から否定された人間が、何も無い世界にあって、それでもなお生き続けていかなくてはならない、単調で果てのない過酷な毎日―といってもよいかも知れない。考えてみれば、それは現代に生きる私やあなたの毎日のことでもある。オウムの信者になった人々は、けっして特殊な人々ではなく、無意味に過ぎ去っていく、そうした耐え難い日常を「普通の人々」より憎む力を少しだけ多く持ち、修行によって自分を高めていこうという向上心が人一倍強かっただけである。
主人公の少年は、施設に収容された他の子供と違って教えを捨てることを拒否し、施設を脱走して、祖父に引き取られた妹を奪い返すために東京に向かう。妹を取り返し、幹部信者となって逃亡している母親といつか再会できる日がくれば、もう一度「家族」として一緒にくらすことができるという「回復」の物語を心に抱いて、少年は生きていくのだが、その物語も無惨に壊されてしまう。

その姿は、現代の私たちの日常に重なって映る。
井上嘉浩のように10年前、20代であった若者は、団塊世代の親を持つ団塊ジュニア層である。彼らの親は、戦後の民主主義教育のもとで育ち、既成価値に対する信頼や固執する態度が稀薄な分だけ自信がなく、子供の望むことなら何でも受け容れ、それが底なし沼のように子供の足を絡め取っていることに気づかない。「何をやってもいいんだよ、人の迷惑にさえならなければ」とだけ言われて育った団塊ジュニアたちは、際限のない自分探しの旅に出て、その結果が70万人にも達する「ニート」になってしまった。あえて、辛辣な言い方をすれば、あたかも自慰行為を際限なく繰り返すサルように、若者が自分のことだけを考えている不健全な社会は、この日本の他には、歴史上存在したことがなかっただろう。

人間にとって生きていくために「物語」は必要だが、「物語」の中だけで生きていくことはできない。そうした単純で当たり前なことが、理解できないとき、オウムが構築した奇怪なフィクション装置は強力な磁場を発生させてくるのだ。

(カトラー)

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