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屋上ペントハウスのバスタブから隅田川の夜景を眺める生活

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東京R不動産を主宰する馬場さんから、新しいプロジェクトの内覧会の通知をもらった。門前仲町にあるオフィスビルを住居に転換する「コンバージョン」を手がけることになり、そのビルをスケルトン状態で一般に公開する内覧会イベントを開催するという。

おひさしぶりです。
今日は、今進めているプロジェクト、門前仲町リノベーション物件のスケルトン内覧会へのお誘いです。
三井不動産が門前仲町の隅田川沿いに所有していたオフィスビルを、レジデンスに改造しています。
業界最大手がとうとうオフィスコンバージョン。数年前にはゲリラ的に動き始めた頃から考えると、
東京も大きく変わっていることを実感しています・・・・・

そのオフィスビルは、東西線、門前仲町の駅から隅田川に向かって7~8分ほど歩いた、永代橋の手前にあり、三井不動産がバブルの地価高騰期に地主との共同事業によってオフィスビルとして建設したものだった。

中小オフィスビルの再生手法「コンバージョン」

ここ数年の都心の高層オフィスビルの建設ラッシュによって、こうした中小ビルの需給バランスは完全に崩壊してしまった。都心のオフィスビルの賃料は、バブル時代のピーク時には、坪当たり10万円を超えることが珍しくなかったが、この10年でほぼ半分以下に下落し、現在では丸の内であっても古いビルなら3万円以下で借りられるケースも出ている。バブル時代の強気なオフィス需要予測を頼りに、門前仲町や月島といった都心の周辺部は、競ってオフィスビルが建設され、そうした物件は、2~3万円の賃料がとれることを前提に事業計画が組まれているケースが多い。この水準の賃料を出すなら、都心のビルを借りることができるのだから、苦戦するのも当然だ。2003年が都心のビル供給ラッシュの年といわれたが、そのしわ寄せは、結局中小ビルが負うことになった。しかも大型ビルの大量供給は今後も続くので、中期的に見ても中小オフィスビルの需給環境は、回復の見込みが立たないという状況だ。
そこで、オフィスビルとして建設された物件を住居に転換する「コンバージョン」が脚光を浴びることになった。オフィスとしての需要は厳しくなったとしても、都心に近いという立地を生かして住居として提供すれば、借り手がつくだろうという思惑からだ。しかし、もともとオフィスビルとして計画された建物を無理やり住居に転換するわけだから、ことはそんなに簡単ではない。間取りの制限を乗り越える工夫や、住居として使えるよう新たに設備を加えるなどのリノベーションが必要となる。

見たことのない空間を都市に創り出す

東京R不動産の馬場さんは、オフィスビルのコンバージョンが専門というわけではない。使い手のいない工場や倉庫の空間を活かしてオフィスや住居に転換するなど、もっと広い意味で、都市の中で見捨てられていたような空間に知恵とアイデアで命を吹き込み、誰もが驚くような形で再生させるプロジェクトを手がけてきた。不動産業というとブローカーというイメージが強いが、馬場さんの仕事はその対極にあり、まさにクリエイターの名にふさわしい。馬場さんは大学で建築を専攻し、某大手広告代理店でイベント・プロデュースなどを手がけた後、不動産業の世界に飛び込んだ。「誰も見たことのない空間を創り出すことが好き」という馬場さんが主宰する東京R不動産のホームページには、こうした視点に立って手がけられた再生プロジェクトや、住宅情報誌などでは決してお目にかかれない「特殊物件」が数多く紹介されていて、月間のアクセス数が10万件を越える人気サイトになっている。
この馬場さんが手がける「コンバージョン」プロジェクトなので、ユニークな取り組みが随所に見られた。
馬場さんは、まず、このどこにでもありそうな中小オフィスビルが、隠し持っていた住居としての潜在的価値に着目した。それは、ビルの北西側、隅田川に面した展望だ。月島、佃島の高層タワーマンション群が広がり(写真)、はっとさせられるような展望が目の前に現れる。

天井をぶち抜き、屋上にペントハウス

この風景に感動して、このビルの再生コンセプトがイメージできたという。驚いたことに馬場さんは、この風景を眺めることができるようにとバスタブを置いたペントハウスをビルの屋上に作ってしまう。最上階(10F)の部屋の屋根をぶち抜き、このペントハウスと螺旋階段で結ぶというプランだ。世にいくつか出回っているオフィスビルをコンバージョンしたマンションは、一般のマンションの間取りを無理やりオフィスビルに押し込んだという印象がどうしてもつきまとうのだが、ここまでやってしまうと、これはもう全く別物、オフィスビルの痕跡を全く残さない空間として生まれ変わる。
その他にも、あらかじめプロジェクターとスクリーンが設置されているシアタールームや壁面全体が書棚になっている部屋など、ユニークなコンセプトのルームが計画されている。しかも、これらを全て賃貸住宅として提供し、最上階のペントハウス付きルームなど、いくつかの部屋についてはオークション方式で借り手を決定し、賃貸住宅だけれども、借り手の意向を内装工事などに反映させていくつもりだという。

不動産のマーケットというのは、個々の物件が、×LDKというように規格化されているため、立地、建物の築年、賃料という軸にほとんどがプロットできるというのが常識となっている。しかし、この常識は、一見分かり易く便利なように見えるが、実は供給者側に立った論理であることに気がつく。人の暮らしとか人生は、×LDKという規格化された空間に押し込まれてしまうはずがないからだ。馬場さんのいう「空間を楽しむ」という言葉は、言い換えれば「人生を楽しむ」「自分の暮らし方を追求する」ということでもある。

屋上ペントハウスのバスタブに浸かり、高層マンション群が立ち並ぶ隅田川の夜景を眺めながらワインを楽しむ・・・・こんな暮らしが賃貸住宅で可能になるというのだから驚きだ。ほんとなら私がまず借り手として手をあげたい所だが、既に住宅ローンを抱えて、身動きができない。う~ん残念!

(カトラー)

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東アジアを覆うナショナリズムの影

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中国の反日デモが、とうとう上海にも波及した。
暴徒化した一部の中国人が、上海領事館や日本料理店などに投石などを行い、ガラス窓や看板が破損させられたことが報道されている。

気がつけば東アジア全体がナショナリズムの影に覆われはじめている。中国や韓国で広がっている反日の動きは、反作用となって日本にも伝わり、日本国内でもナショナリズム的なものが強まってくるだろう。
私はナショナリストではないが、こうした反日デモに関するニュースなどを聞くとやはり不快な気分にさせられる。夜郎自大で思い上がった中国政府高官のコメントや救いようもなく低脳な韓国大統領の発言を聞くと「フザケルナこの野郎!」とテレビ画面に向かってモノでも投げつけてやりたくなる。そうした自分自身の感情を発見して、ナショナリズム的な心情というのは、案外根深い所で成立しているのだなあと驚いてしまう。

ナショナリズムという感情の起源

ナショナリズムの起源を問うていくと、ネーション(民族)、ステート(国家)、キャピタリズム(資本制)が、相互補完的に成立した「近代」にたどり着く。文芸評論家で思想家の柄谷行人氏は、これらが三位一体のものとして機能しているのが「近代」の本質であり、ナショナリズムjという感情の基盤になっていると、次のように説明する。

「私はネーションの基盤に・・・解体されていった農業共同体があると思います。それまで自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性をネーション(民族)の中に想像的に回復するわけです」(柄谷行人著『日本精神分析・言語と国家』より)
ここで指摘されている「想像的に回復された共同性」こそが、高度成長時代に農村から都市を目ざした多くの日本人や現在の中国沿海都市部の人々が、まさに求めてやまなかったものではないか。日本の高度成長期、若者たちは農村から都会に出てサラリーマンになり、想像の共同体(=村)を「会社」の中に発見した。しかし、中国では、共同体の代替え物としての日本の「会社」のような存在がない分だけ、共同体的なものへの欲求は、もっと過激な「民族主義」として立ち現れてくる可能性がある。

反日を叫びながら、北京や上海の街をデモをしながら練り歩くテレビ画面に映し出された中国の人々の顔は、日本に対する憎しみに駆られているというよりは、どこかカタルシスを感じている表情が見受けられた。農村から都会に出てきて、独りぼっちの彼らは、デモに参加し、日本という見たことも行ったこともない想像上の共通の敵に向かって石を投げつけることで共犯意識に近い仲間意識を分かち合っていたのではないかと想像している。
もちろん、だからといって彼らの行動を大目に見ろといいたいのではない。今回の反日行動に駆り立てている民族感情といわれるものが、中国の都会に暮らす最下層の若者の孤立した心情という、案外、ナイーブなものを起源にしているということをいいたいだけだ。むしろ、そうしたナイーブな感情を政治的に利用している中国共産党政府は、厳しく糾弾されるべきだし、ナショナリズムを政治的に利用することの危険性を彼らはもっと知らなくてはならない。
中国共産党幹部は、日本の指導者の「歴史意識」を問題にする。そして、その「歴史」の名のもとで「反日」の投石が続いているわけだが、過去の「歴史」を根拠にして特定民族・国民を攻撃するとやり口は、実はナチがユダヤ人に対して行ったことと何ら変わらない。ナチはユダヤに対する迫害をただ独り狂信的に行ったのではない。ネーション(国民)の圧倒的な拍手喝采に後押しされて行ったことを忘れてはならない。

グローバル化がナショナリズムを強化する

もうひとつ見ておきたいのは、東アジアを覆うナショナリズムの背景には、明らかにグローバル化の影響があることだ。グローバリゼーションによってナショナリズムが無くなるというのは呑気な考えだ。逆にグローバル化によって、ネーション(民族)は否定されるのではなく、むしろ強化される。外の世界が目の前に立ち現れることは、反作用として内向きになる人々をナショナリズムに向かわせることになるからだ。この面からもナショナリズムの影はますます色濃くなっていくことだろう。

高度成長の時代の日本では、想像の共同体としての「会社」を発見したことが、今の中国の状況とは異なると述べたが、考えて見れば、今の日本は中国の状況とさほど大差がないといえるかもしれない。終身雇用制が崩れ、居心地が良かった、かつての共同体としての「会社」はどこかに消え失せた。かわりに、学校にも行かず、働いてもいない、共同体に帰属することを拒否し、孤立化した50万人を越える「ニート」と呼ばれる若者たちが出現している。彼らは、例えていえば、火をかければ、パッと燃え上がるカラカラに乾いた薪のようなものだ。全てを諦観したように今は無為に過ごしている彼らが、ある日突然「愛国」を叫び始め、中国大使館に向かって投石を始めないという保証はどこにもない。

(カトラー)

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立花隆はどうしてしまったのか

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私は立花隆の熱心な読者とは言えないが、それでも「臨死体験」や「宇宙」に関する彼の著作については興味を持って読み、その貪欲な好奇心のエネルギーに対して敬意さえ抱いてきた。しかし、立花が「nikkeibp.jp」で開始したに連載コラム「メディアソシオ・ポリティクス」における「ホリエモン」の金脈、人脈に関する記事のひどさには目を疑ってしまった。
立花隆が月刊文藝春秋で田中角栄の金脈問題を取り上げ、緻密な分析と論証の積み重ねによって時の宰相を退陣にまで追い込んだのが20余年前。以来、金脈追求は立花隆のオハコ分野なのかも知れないが、ホリエモンの金脈に関する限りその論評はあまりにお粗末であった。
この文章で立花はホリエモンについて色々述べ立てているのだが、発信しているのは唯一「ホリエモンは、あやしい奴だ」というメッセージだけだ。それは、時の宰相の身辺や金脈があやしいと指摘したこととは全く持つ意味が異なる。あえて異論を唱えさせてもらえば、ベンチャーがあやしいなんていうことは、どこの世界、どの時代をとっても至極当たり前のことに過ぎない。当たり前のことを今更メディア上で披瀝したところでそのことに何の価値があるというのか。しかも、その文章は、かつて田中金脈追求で、日本中を唸らせた立花隆その人が書いているものとはとても思えない内容だ。

憶測を呼んだ「記事取り下げ」

まず、読者は、くだくだとした言い訳につきあわされることになる。というのも立花がいったんアップした自分の文章をネット上から取り下げ、そのことが色々な憶測を呼んだからだ。立花によれば、記事を取り下げた理由とは、某裏サイトのホリエモンに関する記事を彼の原稿の中で紹介したのだが、そうしたことを引用すること自体も拡大解釈すれば、引用を通じて名誉毀損と受け止められる恐れがあると自主的に判断したからだという。そのことが「言論封殺の圧力を受けたからではないか」というようなあらぬ憶測を呼んでしまった。しかし、取り下げたこと自体に他意はなく、修正した原稿がその後もアップされなかったのは、編集者との単なる連絡ミスに起因している・・・と釈明している。

言い訳を聞かされるのは、まだ良いとしても、本題のホリエモンの金脈、人脈に関する論評は、素人の床屋談義の域を出ていない。その談義の相手役をさせられているのが、作家の石田衣良である。石田は、楽屋の裏話のような立花との会話の中で、立花の問いに対して、あくまで一般論としてかつてのネットベンチャーたちの多くが金にまみれ、結果として裏世界に取り込まれていったのを見てきたという経験を披瀝するのだが、驚いたことに立花はその説明を根拠にして、逆に堀江が「いつからか闇世界とつながっている」と、ほぼ断定してしまうのだ。こうした形で自分のコメントが文章に使われることを石田衣良は了承しているのかどうか知らないが、立花の強引な論旨を補強するダシにされてしまっている。

立花の文章の迷走は、これだけに止まらない。大西宏さんも批判していた「外資=リーマンブ・ラザース脅威論」を持ち出してきて、ライブドアの株価が上がっても下がっても100%儲かる仕組み(そんなものはありえないのだが)、立花が言うところの「巨大ブラック・ホール」理論に基づく投資手法で闇の世界の紳士たちも儲けているに違いないと推定する。さらに、立花は、だとすれば「彼らがやったことは、リーマン・ブラザーズがやったことと同じであり、本質において、両者にちがいはないではないか」と断定してしまうのだ。これは3段論法を通り越してほとんど言いがかりに近い。リーマン・ブラザーズにしてみれば、こうした低レベルの言いがかりに対してまともにつきあうかどうかは別にして、ヤクザ呼ばわりされる覚えは全くないだろう。

マネーに対する固定化した見方

こうした立花の目を覆いたくなるような議論のブレは何に起因しているかといえば、ひとつには、彼の「お金」に対するほとんど化石のように固定化した見方にあると考えられる。前回の私のエントリー記事でも指摘したように、ホリエモンにとって「お金」とは、ある種「聖性」を帯びていて「フェアネス(公正さ)」や「ルール」と同じように捉えられていることを立花氏は全く理解できていない。田中角栄が金にまみれたと同じ意味で堀江の金脈を問題にしている。
ホリエモンの金にまつわる逸話の中で、かつての恋人で創業仲間であった女性が、袖を分かって退社する際にその女性の親から出資してもらったお金(600万円)の持ち株相当分を買い戻すという話がある。その金額は当時の株の時価評価額にすると5億円にもなっていたのだが、その大金を工面するために死ぬ思いで借金して、その女性に返金したという。前回のエントリー記事でも述べたように、私はこの逸話に堀江の「マネー」に対する独特のこだわりを見たのに対して、立花隆は、ホリエモンは、その金の工面のために闇金に手を出したはずだという、およそトンデモない結論を導き出してしまう。

もうひとつ立花の議論をブレさせているのは、彼の議論のネタ場所の問題である。文章中では裏サイト「××××」という形で伏せ文字で登場してくるのだが、これは二階堂ドットコムのことを指している。ここは国粋主義者とおぼしき知識人が主宰するサイトで、立花からは裏サイトと紹介されているが、1日平均10万PVをカウントするような、裏情報を扱う有名サイトになっている。このサイトの主宰者、もしくはそのシンパが花田紀凱が編集長となっている「WILL」という雑誌に情報を提供し、ホリエモンの金脈&人脈相関図という記事になっている。「ブラックジャーナリズムの情報はガセネタが多いが、時として本物の玉もある」といいつつ、この二階堂ドットコムから情報をとって原稿をまとめたことを暗に肯定して見せるのだが、天下の立花隆とあろうものが「裏サイト」の情報を下敷きにして原稿を書いていたと表明しているのだから驚きである。実は、立花の連載がスタートした時点から、論点の多くが二階堂ドットコムのネタに似通っているなという印象を持っていた。

皮肉なことに二階堂ドットコムでは、これから立花隆を標的にすることが予告されている。

前衛的なジャーナリスト活動を行っている立花大センセイは、その名前を一躍広めた田中角栄本にあっても、データマンを多用し、その情報のほとんどを当時の政治団体のデータに頼っているという、すばらしい事実もわかりました。

ネット上では極右の言説が喝采を浴びる。人種差別的な言説をまき散らし、読む人の心に悪意や憎悪を増幅させるこのサイトの文章を見る限り、ここで披瀝されているのは、立花がいうように「裏世界」に属する情報だ。
その「裏サイト」で立花を標的にすることが宣言されているのを見ていると、立花と石田衣良の対談の中で言及されている、「裏世界」を利用したつもりが逆に「裏世界」に取り込まれることになってしまった、かつてのネットベンチャー経営者の姿に立花が重なって見えた(以上、敬称略)。

(カトラー)

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ホリエモンの拝金主義とは?

horiemon_kinkai新聞社を辞めたガ島通信さんが日経BP社のポータルサイト「nikkeibp.jp」で実名ブログをスタートさせ、ホリエモンのことを取り上げている。ニッポン放送の社員が「ホリエモンにはリスナーに対する愛がない」という声明を出したあたりから、ホリエモンに対して拝金主義のイメージがつきまとうようになったと指摘している。

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「今日も元気だタバコがうまい!」といえない時代

ikoi

前回のJT(日本たばこ産業)に関するエントリー記事

「最近の『禁煙ファシズム』『健康ファシズム』の蔓延はどう考えても行き過ぎだと考えており、天の邪鬼を自認するカトラーとしては、数年前からあえて『開煙』を宣言している」

と書いたところ、Domizさんから以下のようなコメントをいただいた。

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