オペレッタ狸御殿あるいは狸族の誕生
今や、アジアを代表する大女優になったチャン・ツィイーを招聘して、こともあろうにこれだけ無意味で荒唐無稽な物語を作ってしまうとは、鈴木清順は、主演のオダギリジョーが映画の記者会見で言っていたように、たいへんなタヌキじじいだ。
「狸御殿」とは、日本映画の黄金期と呼ばれた戦前から昭和30年代にかけて制作された、歌あり踊りありのエンタテイメント・レビュー映画のシリーズを起源にしている。日本ではミュージカル映画は受けないといわれているが、この狸御殿シリーズは例外的存在で、その時代の銀幕を飾った「大スタア」たちが勢揃いし、豪華絢爛さを売り物に幅広い国民的人気を得て大ヒットしたという。とはいえ、今の20代、30代の人々にとっては、過去の「狸御殿」シリーズ自体が全く馴染みの無いものであろう。私は中学生の頃、テレビで美空ひばりと雪村いづみが主演した「狸御殿」映画の再放送を見た記憶があるが、当時のスターが勢揃いしていて、今のヴァラエティー番組に対して感じる印象に近かった。
鈴木清順版「オペレッタ狸御殿」は、そうした日本映画の黄金期に生まれた一連の「狸御殿」シリーズのオマージュといっても良い作品だ。しかし、オダギリ ジョーをしてタヌキじじいといわしめた鈴木清順は、この作品でも見事な曲玉を投げている。
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「狸御殿」という映画にとって不可欠なのは、「大スタア」である。皆がほれぼれするような「大スタア」を中心に全ての映像美や物語が構成されるというのが、この映画の本質であり基本構造となる。その意味で清順版では中国からチャン・ツィイーを招聘したことが大変大きな意味を持っている。残念ながら、今の日本には「狸御殿」の主役を演じるスター性のある女優は見あたらない。かつての吉永小百合や原節子などがそうであったような、画面一杯にひろがるクローズアップに耐えうるような女優である。
日本には見あたらない国民的「大スタア」
国民的スターと呼ばれる女優や歌手のスター性というものは、実はその国の国民の無意識に支えられている。日本において国民的「大スタア」が存在したのは、ちょうど今の中国がそうであるように高度成長によって「大衆」が誕生した時代であった。その大衆が抱く無意識の欲望が「スタア」という記号によって一点に収斂されることで、スタアは燦然とオーラを放つことができる。逆にいえば、中流幻想が崩壊し、一億総国民がヲタク化して、フラグメント(断片)化してしまった現代日本の文化状況の中では「国民的スター」という言葉自体が死語になりつつある。
オペレッタ狸御殿で、チャン・ツィイーが扮する狸姫は、雨千代(オダギリ ジョー)の死を悲しんで、はらはらと涙を流す。その演技のクローズアップが数十秒も続くのだが、それは「泣く」という行為の原型を見せられるような、真っ直ぐな演技であった。こうしたけれん味のない素直な泣き方は今の日本の女優にはとてもできない表現だろう。鈴木清順監督は、この場面も含め、チャン・ツィイーに演技をさせようとしていない、むしろ意識的なものを排除させ、そのことでチャン・ツィイーの無意識そのものを画面に露出させようとしている。
中国のリアリズム至上主義の映画カルチャーのもとで育ったチャン・ツィイー自身は、プロ意識の高い女優で、「狸御殿」に主演することになって、彼女は鈴木清順監督に「狸がどういう動物なのか知らないので、見せてほしい」と頼んだそうだ。鈴木監督はそれに対して「実物を見る必要はない、あなたの想像の中で考えればよい」と切り返したそうだ。彼女とすれば肩すかしされたような気がしただろうが、鈴木清順のねらいは明らかだ。狸という見たことも聞いたこともない、異国の動物を演じるという状況に彼女を放り込むことで、演技するという行為そのものを断念させたのだ。
あえて演技をさせない
結果、画面に横溢するのは、成長する中国の大衆の無意識によって強く支えられたチャン・ツィイーという女優の無意識、スタア性そのものだ。チャン・ツィイーはやはり卓越した才能に恵まれた女優なのだろう、リアリズムという演技上の手がかりを全く与えられない状況に放り込まれたわけだが、そこに戸惑いのようなものは全くみられず、それどころか解放されたのびやかな表情の演技が実に印象的だった。こののびやかさこそが実は鈴木清順が狸姫にイメージしていたものに違いない。
そして、鈴木清順監督の作品をみたことのある者なら誰もが知っている映像美学が、この作品にも随所で展開されているが、秀逸なのは、チャン・ツィイーが演じる狸姫とオダギリ ジョーの雨千代のデュエット、「恋する炭酸水」を歌う場面である。不思議な郷愁を感じさせる映像で、大島ミチルの楽曲もこのうえなく美しく、日本のミュージカル映画史上に残る名曲、名場面だと思う。極論をすれば、このシーンを撮るために、この作品全体が存在したといってもよいだろう。
興行的成功のゆくえは?
気になるのは、こうした作品が日本の今の「大衆」にどのように受け容れられるのか、果たして興行的な成功をおさめられるのかという問題だ。既にこの映画の偏愛者を自認したカトラーとしては、ご老人に対しては「冥土の土産に美しいものを観ておきなさい」と、若きに対しては「カップルで観れば幸せな気分になれることうけあい」とあらゆる機会をとらえて推奨の辞を述べるつもりだ。しかし、平成ニッポンの観客は、かつての日本の「大衆」が、狸御殿映画にときめきをおぼえたのと同じ感性では、この映画を楽しめなくなっているというのも事実だ。
鈴木清順監督やこの映画のプロデューサーは、この映画に出資を決めたパトロンたちに対して、かつての国民的エンタテイメント映画「狸御殿」を現代に復活させるという趣旨の企画書を書いたのだろうと推察しているが、国民的エンタテイメントといえば、紅白歌合戦といい、巨人戦ナイターといいボロボロの状況だ。「国民的スタア」という言葉が死語になったのと同様に「国民的エンタテイメント」も不可能になりつつある。
もっとも、鈴木清順監督はそんな映画やエンタテイメントコンテンツを取り巻く状況については百も承知と答えるだろう。ひょっとすると、稀代のタヌキじじい「鈴木清順」は、この映画を、日本の「大衆(=ヒト)」に向けてではなく、実は狸族に向けて創ったのではないかと思い始めている。
中国、日本の分け隔て(国境)や、老人、若者の別もなく、のびやかにコミュニケーションができる感性、そうした感性を持ち合わせている種族を仮に「狸族」と呼ぶなら、その狸族こそががこの映画の未来の観客である。
(カトラー)
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投稿: 東日本橋 マンション | 2007.01.12 11:18