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ロンドン自爆テロ、テロリスト群像

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ロンドンの同時多発爆弾テロは、自爆テロによるものだった。
英国内で生まれ育ったパキスタン系の若者たちが実行犯となっていたことが明らかとなり暗い衝撃が走っている。

今回の自爆テロは、イスラムの地を蹂躙していると考えられている米国やイギリスの軍隊に向けてイラク国内で仕掛けられているテロとは、持っている意味が本質的に異なる。イスラム教に感化されていたとはいえ、英国内で育ち、英国籍をもつ18歳の少年や妻子を持つ青年、小学校の教諭が実行犯であり、その事自体が英国の市民社会、市民主義そのものに対する脅威として受け止められるからだ。
テロとは、歴史の表舞台には決して登場することはなく、世界の誰からも祝福される事のない行為だが、歴史というものが持っている、もうひとつの暗い素顔でもある。この世界は、9/11以降、突如としてテロリズムに覆われたのではなく、テロは歴史上のいつの時代をとっても存在した。イラクやアルカイダを名指ししてテロリストと非難している当のアメリカが、広島の街と人々を原爆で壊滅させ、ベトナムの罪も無い人々に対して無差別爆撃を行い、暗殺や謀略工作を繰り返してきた。アメリカこそ歴史上に存在した最も冷酷、非情な「テロリスト国家」であったというビンラディンの指摘は、この世界を今も支配しているのが、実は「暴力」と「恐怖」であるという意味において100%正しい。しかし、そうした認識から、「自爆テロ」こそが、アメリカを倒し、世界を変える「天国への道」であると説く教えは、2重の意味で暗い。

テロリストの論理と倫理

自爆テロを行うテロリストたちの行為を倫理的に根底で支えている強い心情は、その行為によって自分も死ぬという思いだ。殺人は罪だが、その罪を自分の死によって贖うという考えが、自らの行為を少なくとも自分自身に対して納得させる根拠になっている。そして、もうひとつ彼らの心情を特徴づけているのが、ある種の「ロマンティシズム」への傾倒である。イスラム原理主義者によるテロでは、それはイスラムへの帰依ということになるのだろうが、ロンドンのテロの場合、狂信的なイスラム主義によるものというより、「この世界を変えたい」、「崩壊させたい」という熱情あるいはニヒリズムが根底にあったのではないかと考えている。
私が彼らと同じ10代であった1970年代は「革命」という言葉にまだ手触り感のある時代だった。冷戦構造の中で世界は東西に分割され、ソ連の全体主義的な体制には大きな疑問符が付けられていたものの、マルクスやレーニンの革命理論の威光は衰えていなかった。しかし、ソ連が崩壊し、アメリカが独り勝ちした「歴史の終わり」の時代が到来すると、「革命」という言葉は急速に色褪せ、現実感を失った。「終わり無き日常」を生きるしかなくなった人々にとって「世界を変える」などという心情は、妄想に過ぎなくなり、寝言のほどの価値もなくなってしまったのだ。その結果、いつの時代にも若者が抱く、ナイーブな変革への思いの受け皿はとなったのは「イスラム原理主義」や「オウム真理教」のような宗教や「狂信的ナショナリズム」となった。

窪塚洋介の「自爆」

ロンドンのテロが自爆によるものという報道を耳にした時、唐突に聞こえるかもしれないが、窪塚洋介というタレントが自宅のマンションからベランダから空中に跳躍して落下した「事件」のことが思い出された。窪塚が、26mの高さのあるマンションの9階のベランダから落下した時、誤って落下したと当初は報じられたが、落ちた場所がマンションから9mも離れていたことがわかり、窪塚は落下したのではなく、「跳躍」したことが明らかになった。「事故」なのか「自殺」なのかと例によって日本の芸能マスコミは、朝から晩まで騒ぎ立てたが、結局、彼が何のために跳躍したのかがわからず、そのうち人々はこの話に関心を失った。この件に関して、私は当初から窪塚の「跳躍」は「自爆」行為ではないかと考えていた。
窪塚洋介は「GO」と「凶器の桜」という右翼の青年を映画に主演した後、国粋的な言動や奇矯とも見られる行動を繰り返すようになる。不思議なことには、その背景に誰かしらの思想的な影響や特定のイデオロギーに対する傾倒は無いことだ。こうした窪塚の国粋主義的言動について北田暁大氏が、その著書「嗤う日本の『ナショナリズム』」の中で的確な分析をしている。
北田氏は、窪塚を現代の若者の代表例として類型化はできないとも断りながらも、その背景に、現代の若者の意識が、孤立化していく一方で、自らの存在根拠を繋ぎ止める共同体世界をロマンティックな愛の対象としてアイロニカルに志向している構造が垣間見えると指摘している。

「しばしば若者論で指摘される、『この私』と『世界』の短絡。他に代替不可能な『この私』『自分らしさ』への執着と『国家』『世界』『正義』といった壮大でロマンティックな世界観の希求とが縫合不全も起こさず共存しているということだ。・・・(中略)・・・『国境線が地面に引かれているわけじゃない』という宇宙的視点と『俺ナイキ好きだし、アイスクリーム好きだし、それを否定したらこれまで23年間生きてきた俺が無くなっちゃう』という極私的なパースペクティブが無媒介に接続する。・・・(中略)・・・代替不能な『この私』のリアルを前にロマンティックな愛の対象=『国』は、アイロニカルに相対化されると同時に極限まで絶対化される・・・」(嗤う日本の「ナショナリズム」より)

孤立した個人意識、共同幻想へのロマンティックな愛

底が浅いといえば正にその通り、窪塚の国粋的感情とは、まとまった考えとして誰かに説明したり、他者がそれによって納得させられるような思想と呼べるしろものではない。日の丸は、窪塚にとってナイキやアイスクリームと同じ地平に並んでいる「萌え」の対象である。が、同時にそれは命にかえてでも守るべき対象でもある。市民社会的常識では、個人は家族や社会関係を媒介として「国家」や「世界」という存在と関わるのだが、彼の場合は巫女のように「国家」や「世界」と直接交わろうとする。窪塚のことばかり言及することになったが、実は、こうした心情は、深い政治的信条や配慮があるわけでもないのに靖国参拝を繰り返し、特攻隊員の遺書に男泣きする、小泉首相にまで通奏低音のように響いている「気分」なのだ。他者との成熟した関係性を築けない孤立した個人意識が、自己超越的な共同幻想に対してロマンティックな愛情を抱いている状況という言い方をしてもよい。誤解を恐れずにいえば、こうした自意識の構造はそのままテロリストが抱いている意識構造そのものでもある。

テロリストの心情

ロシア革命の時代を疾風のように駆け抜けたサヴィンコフというテロリストがいる。彼はロープシンのペンネームで「蒼さめた馬」という優れた文学作品も残しているが、その回想録「テロリスト群像」で以下のようにテロリストとしての自分自身の心情を語っている。

「私はといえば、すでに18歳で留置所に入ったし、若くしてテロへのよびかけに応じた。・・・これは何を意味するか?つまりガラス箱の中で暮らしたのだ。・・・私は大衆を知らず、民衆を知らず、農民も労働者も知らない。私は彼らを愛した。私は自分の命を投げ出す覚悟できたし、また投げ出してきた。しかし私は彼らの関心を、願望を彼らの真の願望を知ることができただろうか?私は名も家族も家もない。絶えず脅威にさらされたガラス箱の中で暮らしてきた」(サヴィンコフ「テロリスト群像」)

彼と世界の間は、常にガラス箱によって遮られ、暖かいリアルな血の通った現実世界の交流から疎外されている。ガラス箱は、彼を外部の脅威から守るシールド(守護者)であると同時に彼を世界から孤立させる疎外者でもある。この状況を変えるためには、ガラス箱を壊し、その向こうにあると信じている「人民の世界」に自らを同化させるしかない。サヴィンコフの場合は、それが自分の命と引き替えにテロ行為を続けることであった。
テロリストにとって「自爆行為」とは、政治目的を達成するための単なる「手段」ではない。誤解を恐れずに言えば、それは、自分と世界を一体化させるための「愛」の行為であり、それ自体が目的となりうる。

ロンドン自爆テロに対する様々な憶測

ロンドンのテロリストの自爆行為について、様々な憶測が生まれている。田中宇さんが、レポートしているが、4人のテロリストの一人に、妻子が居て、次の子供もお腹にいたということも判ってきて、彼らは爆薬をリュックに背負って運んだものの、自爆するつもりはなかったのではないと、自爆テロの可能性自体を疑う論調も出ているという。
市民主義的な観点からは、そうした見方の方がむしろ納得しやすいのだろう。けれども、これまで述べてきたテロリストの心情からは、家族がいるから、子供がいるからという心理的垣根は、窪塚洋介が家族と暮らすリビングから空中に向かって跳躍したように、比較的容易に越えうるものだということを指摘したい。
もちろんテロリスト的心情を抱くということと、実際のテロリストになるということには大きな隔たりがある。誤解ないように述べておくが、窪塚洋介は、ベランダから跳躍するという「自爆」行為を行ったが、戦争やテロには反対し、他者への無差別の暴力を否定しており、テロリストではない。その意味で本当のテロリストは、4人のテロリスト的心情を利用し、自爆に導いた黒幕の連中ということになるかも知れない。

一方で、サヴィンコフが回想して見せたように、自分と世界を隔てる「ガラス箱」のような存在を感じている、テロリスト的心情を持った人々は確実に増加している。彼らはふとしたきっかけで、家族の絆を断ち切り、爆薬を背負って地下鉄に乗り込むのだ。残念ながら私たちの市民主義は、そうした心情を抱いた若者たちを思いとどまらせるほどの大きな力や理想の形成力を失ってしまった。
テロリストとは何か特別の人間のことを指すのではない。同じ街に住み、昨日まで一緒に暮らした隣人が、ある日、爆薬を抱えて粉々に吹き飛んでしまう、そんな本当にやりきれない現実に私たちは立ち会うことになってしまった。

(カトラー)

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Comments

何となくモヤモヤと感じていたことが言語化されたようで少し気持ちいいです。

ただ、いわれてるような状況は文明的に未だ10,20年深化し続けるように思うので、そういう意味で世界は悪化しそうですね。

ロハスとかいうムーブメントは、加工次第でこれに対処できないでしょうかね?
でも恵まれた者だけがある種ファッションとして取り入れただけでは単なる消費形態で病気を進行させるだけでしょうね。

Posted by: トリル | 2005.07.21 at 08:30 PM

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