きみは電車女を見たか?
どの時刻のどの車両に乗れば、遭遇することになるか、あらかじめわかっていたわけだから、充分警戒しておくべきだったのに、不用意にも、その日も無意識のうちに同じ時刻、同じ車両に乗ってしまった。それでも車両が千駄木の駅にスルスルと滑り込む寸前に「まずい!」と気がつき、別の車両に乗り移ろうかと思ったのだが、時既に遅かった。いつものように電車女は、ドア近くにいた私の目の前に立つと、バックから白いチューブを取り出した。
年齢は30代半ばか、ひょっとすると40代に手が届いているかも知れない。もともと、目鼻立ちは整っていて、いわゆる「ブス」の部類に入る女性ではない。けれども、少しくたびれたスーツを身にまとった、その横顔には、日常生活の疲れがシミとなって陰を落としている。
電車女との遭遇を回避しようとしたのは、私の方で何か後ろめたいようなことがあるからではない、困るのは、満員電車の扉近くに立って、扉のガラスを鏡代わりにして、私の目の前で電車女が化粧をはじめることなのだ。バックから電車女が取り出した白いチューブとは、下地クリームである。女性が電車の中で化粧をしている姿は、最近では日常茶飯の珍しくもない光景になってしまったが、さすがに、下地クリームから始めて、ファンデーション、アイライン、口紅と化粧のフルコースを目の前で見せられることはまず無い。その状況で私としては本当に目の遣り場に困ってしまい、目を閉じて寝たふりをして、ただこの状況をやりすごすしか術がなくなる。
寝たふりをしながら、考えた。この居心地の悪さは何に由来するものだろう?同じように目の遣り場に困るにしても、向かいの席で女性が大股を広げて眠っているような光景に遭遇した場合と異なり、見ている私の方が羞恥心をおぼえるような居心地の悪さなのだ。
本来、化粧とは、そのプロセスを他人に見せるようなものではない、むしろ隠すものである。電車男だって、伊東美咲が扮するエルメスに化粧のプロセスを目の前で見せつけられたら百年の恋もさめてしまうだろう。
けれども、こうした私の感想は、無力なマイノリティの戯言にすぎぬようで、この国の実態はといえば、人前で臆面もなくコンパクトを広げ、ファンデーションやアイシャドウ塗りたくり、まつげカールに没入する「電車女」が蔓延している。ネットを調べていたら「平然と車内で化粧する脳」(扶桑社刊、澤口俊之 南伸坊著)という本まで刊行されていた。この本は、脳科学者の澤口俊之が南伸坊の疑問に答えるという形式で、最近の日本人で人前を気にしない「破廉恥な行動」が増えたのは、モンゴロイド日本人の「脳の進化」に逆らった生活と子育てが原因だったと、かなり過激な主張を展開している。
亡くなった天才編集者、安原顕氏とバロウズの翻訳家でネット上では辛口の批評で知られる山形浩生氏が、この本についてbk1に書評を寄せていて、全く対照的な見解が披瀝されている。
「電車内で携帯電話をかけまくる男女、平気で化粧をする女など、日本人は昨今、老いも若きも非常識を通り越し、気が狂ったとしか思えぬ人間が急増している。本書はその理由を探った本で、読めば読むほど驚くことが書かれている。・・・(中略)・・つまり、電車内で携帯電話をかけ、化粧をし、路上に座り込んで物を食うような人間らは、脳の発達障害者ゆえ、そのことを指摘されても「何が問題なのか」が理解できず、一生、改めることもない。ぼくに言わせれば昨今の10代の異常犯罪も、ひょっとするとこの「ネオテニー障害」から来ており、さらに言えば、大家族主義時代、個室など与えられなかった時代からもあったような気もする」(安原顕)
「なにが恥かは、社会や文化によってちがう。電車の中で化粧をする人は、いままでの日本社会とは恥の感覚はちがうけれど、でも恥はちゃんと知っている。電車にのっていった先で会う人たちの前だと、化粧してないと恥ずかしいと思うから化粧するわけだ。 それを著者は、生物学的に脳が未発達だから恥の感覚がないのだ、と決めつける。恥を知らないやつが化粧しますかいな。恥の現れ方がちがうだけだよ。ヒッピーやパンクスだって、それまでの社会常識からすれば恥知らずだけれど、別に恥という概念そのものを知らなかったわけじゃない。いまだって話は同じだ。」(山形浩生)
今の若い人たちが生物学的に恥知らずかといえば、論理的には山形氏の議論の方が筋が通っているといえるだろう。けれども、この国の人々の「恥」に対する感性や、何を恥ずかしく思うかということについて働いていた共通の「文法」、あるいは「文化」と言い換えても良いのかもしれないが、そうした共通基盤そのものが明らかに壊れてしまったと感じている。
何かを恥ずかしいこととして共有できるということは、その対極にある「誇り」や「プライド」に対する共通イメージも共有されているということ、そして、その共通イメージを共有している人々によって構成される「場」が存在することを意味している。
その共通基盤としての「場」そのものが壊れてしまった状況を如実に示しているのが、例えば、以下に示す写真のような光景だ。
<藤原新也氏の写真は、ご本人の意向をふまえ削除させていただきました>
これは、写真家の藤原新也氏が撮影し、自分のサイトで公開しているものだが、最近、発行された「メトロミニッツ」というフリーペーパーの藤原氏のコラムの中でも紹介され、話題を呼んでいる。藤原氏はこの写真について以下のようにサイト中の文章で言及している。
「私は世界の国々をおおかた見ているが、写真のように乙女年齢の子が自身をゴミ化するような状況は逆立ちしてもお目にかかることがないし、これはきわめて日本固有の一光景だ。おそらく他の国の人がこの写真を見ると驚愕するだろう」
ここで「自己ゴミ化」という鮮烈な言葉によって、写真中の女子高校生たちを評しているが、彼女たちに対して向ける藤原氏のまなざしは、その実、暖かい。「自己ゴミ化」していると言われた彼女たちは、管理されることを受け容れ、サイボーグのように生きる「よい子」たちに比べれば、はるかに「人間的」であり、考えようによっては「人間サイボーグ計画」から逃れ出た人種なのだと肯定的に解釈している。
羞恥とは、人間の根元的な感情である。旧約聖書にも知恵の実を食べたことでアダムとイブが互いの姿を恥ずかしく思い、楽園から追放されたという話があるように、人間の存在条件そのものを深いところで規定している。何を恥ずかしいと感じるかは、個人によって様々だし、時代に応じて移り変わるが、変わらぬ本質がある。それは、人にとって羞恥とは、実は「隠す」という行為自体によって生じるのではないかということだ。アダムとイブの例にならっていえば、互いの姿が恥ずかしかったから、木の葉で性器を隠したのではない、その逆だ。性器を隠すという行為によって、アダムとイブは、この世界には他者が存在すること、そして、そのまなざしのもとで生じる羞恥という感情をはじめて自覚したのだ。
藤原新也氏が、撮影した女子高校生たちに寄せているある種のシンパシーを私も理解できないではないが、この写真の中の彼女たちは、何か心に秘するものを持っているのだろうか?と疑問を感じてしまう。
けっして人目に晒されることのない処女地のように隠された心の場所、それは時として「抑圧(ストレス)」と呼ばれることもあるが、そうした秘するものがあってはじめて人の心には羞恥が生まれる。私としては、外形はどうであれ、この写真の女子高生たちにも、そうした処女地のような心の場所があってほしいと望んでいるが、仮にそれを望めないとしたらどうなるか。
心に秘するものがない、言い換えればあらゆる抑圧(ストレス)から逃亡した人間というのは、究極的にはドラッグ中毒者を思い浮かべればよい。それは、一種の妖怪、もしくは人格破綻者である。考えてみれば、小さい頃から欲しいものはナンデモ与えられて、親が先回りして抑圧を排し、腫れ物を触るように育てられてきた現代の子どもたちは、都市空間の中で妖怪に成長してしまう資質を育んでいるといったら言い過ぎだろうか。
これは私の強迫観念に近い妄想かも知れないが、電車女とは、そうした子どもたちのなれの果ての姿であって、満員電車の私の目の前にある日突然、今度はこの写真のように大勢で現れ、バックから下地クリームの入った白いチューブを取り出し、一斉に化粧を始めたらどうしようと本気で恐れている。
(カトラー)
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コメント
挿入の写真を見て、グレーな気持ちになりましたが、その後の、見方を変えれば人間的であるとの意見に、少し安堵?しました。
でも、人間的であることはどういうことなのか?またグレーになりました。
サイボーグでもなく規律を守って、人間らしく生きることは無理なのか。。。
あと20年もしたら、電車の中の風景というものはどのようなことになっているのか。。。
投稿: 電車おば | 2005.10.25 14:05
>大勢で現れ、バックから下地クリームの入った白いチューブを取り出し、一斉に化粧を始めたらどうしようと本気で恐れている。
笑った。
現在の散逸する現象に叙情的に反発するだけで決定的な反論ができない以上は残念ながら時代の流れとしてはそうなるだろうと思う。
対応策としての思想教育や法律による規制が良いとは思えない。
人間関係が密なところでは、公私の別はわきまわざる得ないのだから、現代社会の精神的な砂漠化を止めれば、この傾向も減少すると思う。
投稿: トリル | 2005.10.25 15:03
土曜日の,がらんとしてはいたものの昼間の西武新宿線で漂ってきたのはインスタントラーメンの香り。制服来た女子高生がカップラーメン(おそらく駅に近いコンビ二で購入)すすっていました。
電車の中で、お弁当食べてるのは見たことがあったけどカップラーメンは、お弁当よりもう一歩踏み込んでいるんではないかしらと思ったしだいです。
投稿: mamu | 2005.10.25 17:03
カトラーさん、コメントありがとうございました。
こちらのミスで、ココログ管理画面上から他の読者の方へコメントレスした際、再度トラックバックが送信されてしまったようです。
お手間を取らせて恐縮ですが、重複したトラックバックを削除していただけますよう、よろしくお願いいたします。_0_
投稿: fumi_o | 2005.10.26 16:24
鉄道車両の床が、薄汚れた公園のベンチよりも腰をおろしやすいほど清潔に保たれていることに世界の国々は驚くのではないですか。
失われた10年の日本の経済がどれほどの凋落振りか 世界の国々から学者やジャーナリスト達が嬉々として取材に訪れた時期がありましたが 電車の車内で携帯メールに夢中な無数の女子高生達を見て ガックリと肩を落として成田から飛び立っていったことがありました。 彼らは携帯に夢中な日本の子供達の退廃を嘆いたのでなく、経済不況の中にあるはずの日本経済の底力に改めて目を見張ったのです。この写真も同じ事とみる事が出来るのでは。
投稿: まい | 2005.10.27 02:51
1.もし自分の家の近所に住んでいる子、もしくは自分の子どもがやってたら一言いってやる、という人は、今の日本でどこらへんのポジションにいるか?
2.世の中監視カメラがどんどん設置されていくとして、危惧を抱いて反対の声を挙げる人達はこういう子達と連携出来るのか?
3.現実社会の空間を問題視する場合と電脳社会の罵詈雑言の有り様に眉をひそめている場合と比較して、
知らない人or知られていない場合なら構わない人と、知ってる人の前でも実名でもやる人とは一緒なのか別問題なのか。
他にもまだまだ論点は見つかりそうですね。
投稿: てんてけ | 2005.10.28 17:55
男の子たちの似たような姿もよく日常で見かける。
でも、それが画像としてさらされるのは、あまり見た事がない、、、
この手の写真はとても衝撃的。よくここまで、羞恥心なくすごいなーと思う。
でも、職員会議手帳を抱えたいい年のおじ様に無視され、かわりに「電車女」に座席を譲ってもらったこともある元妊婦としては複雑。
投稿: qima | 2005.10.30 02:53
↑
「職員会議手帳を抱えたおじ様」=教頭先生とわかるスーツの男性
投稿: qima(訂正) | 2005.10.30 02:58
電車やホームで平然と座り込む女子高生のことを「携帯を持つサル」という本の中で「外が家の延長になっている」と言っていました。読んでいて何となく納得してしまいました、家の延長なら周りに気を遣う必要ないわけですから。
投稿: TOMONE | 2005.11.11 18:42
カトラーさんも皆さんもご自身が若かった頃 大人たちになんと言われていたのか忘れてしまったのですか。歩きながら飲み食いするサル以下だと言われたのでは。それでも気にせずハンバーガーにかぶりついていたんでしょう?いまだに続けていらっしゃるかも。
投稿: まい | 2005.11.11 20:05
まいさんへ
たしかに動物が移動しながら餌を食べるとこあまり見た記憶ないですね。当時の大人達からすればサル以下の行為と見えても不思議ないかも。そんな人たちが「今の若い人たちは、、」なんて、笑い話?継続は力なりというか歴史を鏡とせよと言えばいいのか、なんか偽善的ですよね。
投稿: かなにょん | 2005.11.11 20:49