「子殺しの時代」を生きる ~坂東真砂子、子猫殺しの波紋~
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」という断りから始まる、その文章の中で、彼女は、「もし猫が言葉を話せるならば、避妊
手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」と述べ、「獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きること」なので「私は自分の育
ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」と書いている。
この人の本を読んだことがないのだが、ホラー小説を書
いていて「死国」「狗神」という作品は映画化もされているようだ。ホラー作家ということで、「死」のイメージを身にまといたいということもあるのだろう
か、この日経紙上のコラムでは、タヒチでの生活で日常的に目にする動物の「死」のシーンが、これまでも何度か登場していた。個人的には、悪趣味な文章だと
思っていたが、今回のコラムの内容は、自ら手をかけて、子猫を殺しているということだから、単に悪趣味ということだけでは片付けられない。
藤原新也の「死体写真」とは異なりメッセージ性が不在
写真家の藤原新也が、ガンジス川の河原で水葬死体を犬の群れが食べているのを撮影し、「人間は犬に食われるほど自由だ」という衝撃的なコピーととも
に発表して物議を醸したことがあった。現代社会では、「死」というものは忌むべきものとしてタブー視され隠蔽されてしまった。藤原は、死を隠蔽することで
造られた、のっぺりとした人工的なイメージ空間を、一枚の「死体写真」で粉々に打ち砕くことを確信犯的に意図し、それを見事に成し遂げた。死体写真を発表
することで、巻き起こった波紋も含めて、「作品」として意図されていたものといってよいだろう。
今回の「子猫殺し」を聞いた時に最初に思い出した
のは、この藤原新也の「死体写真」のことだったが、何度、彼女の文章を読み返しても、「子猫殺し」の汚名(どう考えても美名とはいえないだろう)を引き受
けてまで、結局、何をメッセージしたかったのかが、全く理解できない奇怪な文章であった。茶化すつもりはないが、彼女の行為とそれを公にした文章そのもの
が「ホラー」になってしまった。
カトラー家でも、猫を2匹飼っており(写真)、そのことについてこのブログでも紹介したことがある。ライフポート友の会というボランティア団体が自治体の処分施設から子猫や子犬を貰い受けてきて、インターネットを通じて無料で里親希望者を募っている。我が家のマメとコムギは、このライフポートから紹介された子猫だったが、里親になるには、去勢手術に同意することが条件になっている。
坂
東真砂子がいうように「避妊手術」が猫の「自然」に反していることは、承知しているが、野良猫として繁殖しても、結局は捕らえられ、処分されてしまう子猫
の運命を考えれば、いたしかたのない処置と考えている。それでもなお、去勢することが不憫で嫌だというなら、増えた子猫も引き受けて育てるか、そもそも猫
を飼わないというのが、普通の市民の「社会的責任」として正しい選択だろう。
何故、自分の子供を殺してはいけないのか
結局、何をメッセージしたかったのかが不明という奇怪さ、市民社会への責任というお門違いの論理を持ち出して「子猫殺し」を正当化する図々しさ、あ
るいは無神経さ。こうしたことが相まって坂東に対する猛烈なバッシングになっている。個人的には、こうした無神経な文章は嫌いなので、彼女を擁護するよう
な気持ちは、微塵もないことを予め断っておくが、一方で
「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」と
いう彼女の言い分を市民社会の側の価値観や倫理によっては否定しきれるものではないと思っている。仮に彼女が、自身を襲っているバッシングの嵐の中で「何
故、子猫を殺してはいけないのか」と反問したら、市民社会は一体、その反問に対してどのような答えを返すことができるだろうか。
唐突に聞こえるかもしれないが、私は、彼女の言葉に、秋田県能代市で起きた幼児殺害事件のことを連想した。坂東は意識していないかも知れないが、子 猫の話を書きながら、彼女が無意識に表現していたのは、「子殺し」の問題ではないかと考えている。「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び」と言ってい ることは、自分の生の充実を優先して、子を殺すことを選択してしまった、子殺しの母親の精神構造と正しく相似形を成している。秋田の事件を持ち出して坂東 が畠山容疑者のような人間だといいたいわけではない。畠山容疑者のような人間は、どこにでもいる。坂東の論理を借りれば、子種を殺すもできた子を殺すも大 した差はない。この国においては、自分の「生の充実」のために膨大な数の妊娠中絶が行われていて、それが、「市民社会の常識」として行われているとするな ら、坂東の行為をどんな理由で責めたてることができるというのか。秋田の事件の畠山容疑者から「何故、自分の子供を殺してはいけないのか」と反問された ら、我々は何と答えられるだろうか。
「子殺しの時代」とプリンセス雅子
自分の生の充実と子供を生んで育てることが、相反してしまう時代、いいかえれば「子殺しの時代」にいつから我々は生きることになってしまったのか。
このことを考えるとき、思うのは、皇太子妃、雅子のことである。来週、紀子さまが帝王切開を経て、皇位継承権のある男子を産み、そのニュースが日本中を駆
け巡り、ある種の憐憫をもってプリンセス雅子は見られることになるだろう。しかし、当の雅子さまは、「お世継ぎ懐妊」という下劣な役務から解放され、むし
ろ安堵しているのではないか。雅子さまが外務省のキャリア官僚から皇室に入る際には、「皇室外交」において大きな役割を果たすことを思い、そのことによっ
て自分自身の「生の充実」を期待していたに違いない。
しかし、実際に期待されたのは、世継ぎの男子を産む生殖マシーンのような役割であった。雅子皇太子妃は、深く失望し、意識的か無意識かわからないが、子供を産むことを拒否している。
こ
うした雅子さまの苦悩を象徴として、女性としてのキャリア形成・「生の充実」と「出産」が、この国では両立しえないという苦い思いが、同世代の女性達にも
広がっている。彼女たち「負け犬世代」が、雅子妃と同様、子供を産むことを意識的あるいは無意識に拒否していることが、出生率1.25を生み出していると
いっても過言ではない。
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである」(日経夕刊コラムより)
崖地にめがけて生まれたばかりの子猫を投げ捨てる「鬼畜」のようなババアにあえて自分を擬えることと引き換えに、何をメッセージしたかったのかが全 くわからない、奇怪(ホラー)な文章だと述べた。坂東のこうした行為も、それを正当化して公表する図々しさも大嫌いだという思いに変わりはないが、彼女に 作家的な良心というものがあったとすれば、自身を鬼畜に擬えても示したかったのは、「子殺しの時代」に生きているというわれわれの苦い現実だったのかも知 れない。
(カトラー)
関連記事:誰も知らないの絶望そして希望
日本経済新聞:夕刊コラム「プロムナード」より
こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。
もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
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コメント
>しかし、実際に期待されたのは、世継ぎの男子を産む生殖マシーンのような役割であった。雅子皇太子妃は、深く失望し、意識的か無意識かわからないが、子供を産むことを拒否している。
実際も何も、皇后に期待されているのが世継ぎだというのは古今東西の一般常識です。
そんなことも知らずに皇室外交を自分のキャリアに利用できると考えた雅子妃が無知だったというだけのことでしょう。
>「お世継ぎ懐妊」という下劣な役務
なぜ懐妊が下劣なのでしょうか。
世継ぎがいなくなれば皇室も無くなり、皇室外交も無くなります。
>女性としてのキャリア形成・「生の充実」と「出産」が、この国では両立しえないという苦い思いが
国の問題ではなく、様々なことがらを両立するにはそれなりの才能と運が必要でありるということを忘れた間抜けな女性がわがままを言っているだけです。
>彼女たち「負け犬世代」が、雅子妃と同様、子供を産むことを意識的あるいは無意識に拒否していることが、出生率1.25を生み出しているといっても過言ではない。
過言です。
婚姻数の変化を見れば、少子化の原因が女性の意識の変化ではなく、婚姻数の減少であるのは明らかです。
投稿: ほるほる | 2006.09.03 09:07
ほるほるさん、お久しぶりです。
雅子皇太子妃のような女性が、適応障害になってしまう、今の皇室の方に問題があるというのが基本的な私の理解の仕方です。
皇太子は、「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」と雅子皇太子妃を擁護する発言をして、宮内庁、宮廷との間で葛藤が存在することが公になりました。自分の伴侶を守るという立場に立って発言した皇太子の行動は、男として大変評価できると考えています。
誰が決めたか知りませんが、男子にのみ皇位継承権があるとしていることで、いくらそれを承知の上で、皇室に入ったとはいえ、生殖マシーンのように扱われる、皇太子妃の人権について、誰もはっきりといわないのは何故なのか不思議でしかたがありません。
個人の人格や人権を否定してまで、強いられる役務として、この場合、「下劣な役務」といったわけです。天皇に対する敬意も持っていますし、天皇制も否定しませんが、雅子皇太子妃を半病人にするような皇室であるなら、そちらを改めるべきでしょう。
プリンセス雅子は、本来、同世代のロールモデルになるべき存在でした。彼女が、たくさんの子供を産んで、皇室外交にも活躍していたら、この世代が抱えている閉塞感は払拭されていたに違いないと思います。
投稿: katoler | 2006.09.03 18:38
子猫は食べてしまえば良かったのに。
投稿: nattai | 2006.09.03 18:40
「お世継ぎ」の男の子がそんなに欲しいのなら、いっそ、16で即!子供生むようなバ○を妃にすればよかったんじゃないか?
奴らの生殖能力は半端じゃないよ。本当に。
男系って、ようするに「畑は関係ない。種だけが問題だ」って考え方なんだから、その場合、妃の格式って本質的にはあまり必要じゃないよな。
それを妃の格式だとか皇室外交だとか言って、明らかに育った環境と考え方が違いすぎる外務省のキャリア官僚引っ張ってくるから、引っ張ってきた嫁が適用障害起こしたり、兄一家さしおいて弟があてつけに子供作ったり、何かともめるわけで。
というわけで、側室復活で子作りに長けたプロフェッショナルを送り込むってのはどうですか?
投稿: 通りすがり | 2006.09.03 23:20
子猫殺しから世情を俯瞰する、カトラーロジックの鮮やかさに感嘆しております。
子猫を殺すか、親猫を人工的に石女にするか、これって結論を得ることは不可能です。
ヒットラーVS奴隷制度みたいに、地球っていう有限社会で、誰かに特別室を用意したら、どこかに矛盾が噴出します。少なくとも人間優先が、現代社会の最低限のコンセンサスですから、どちらにせよ猫は被害者的存在に変わりはありません。
でも、雅子さまが、日本の総意っていう訳のわからない圧力で、療養を強いられているのは、見るに耐えれません。エントリー記事には記述されていませんでしたが、カトラー氏は、雅子さまを国民の愛玩とし、加えて「生」を「性」問題へ翻訳する、媒体と国民への警鐘を鳴らしたいのではないのですか?
愛玩動物って事自体、人間の傲慢さの一種の表現形態なのかもしれませんが、人間同士には避けたいものです。
それは、「崖から捨てる」とか「手術をうけさせる」といった物理的な要素だけでなく、ヒトの最大の弱点である精神にも加虐してしまうからです。
これだけ人間が増えてしまうと、共食いが始まってしまうのでしょうか?共食いにはまだ救いがありますが、マイナーな存在や目障りな奴を殺してしまうのなら、人類はまた新しい歴史のページをめくってしまいそうです。
投稿: あたり前 | 2006.09.04 14:14
>獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
獣にとっては、人間も周辺の自然環境と同じようなものだと思うけど。
他の生物に対しての避妊や中絶の強制や子殺しは、人間以外の生物でも普遍的に行いますし。
>。自分の伴侶を守るという立場に立って発言した皇太子の行動は、男として大変評価できると考えています。
雅子妃のキャリアよいも、より多く子どもを作る方が今上陛下も国民も喜ぶということを理解できていないバカ皇子だと思いますけど。
投稿: 通りすがり | 2006.09.04 21:33
いつも楽しみにしています。
ただ、今回はめずらしく感情的な文章でちょっと驚きです。
「崖地にめがけて生まれたばかりの子猫を投げ捨てる」という行為がなぜいけないと感じているのかをもう少し分かるように書いてもらえるとうれしいです。
人はなぜ人を殺してはいけないか、人はなぜ生まれたばかりの子猫を殺してはいけないか。
私にはそんなに簡単に善悪の区別や答えがでるものとは思えません。
投稿: 通りすがり | 2006.09.04 23:51
コメントをありがとうございます。
当たり前さんがおっしゃるように、「子猫を殺すか、親猫を人工的に石女にするか、これって結論を得ることは不可能」なのであり、この問題は、もともと善悪の彼岸に存在しているのだと思います。
「動物愛護」の立場から、この女流作家を糾弾する声も上がっていますが、そうした糾弾も甘んじて受けると、最初から彼女は断っている確信犯であるわけですから、非難するのは勝手とはいえ、彼女自身は馬耳東風を決め込んでいるという所でしょうか。
通りすがりさんから、「めずらしく感情的」とご指摘いただきましたが、私はもともとかなり感情的な人間です。捨て猫を貰ってきて、かわいがっている身としては、こんなことをする奴は、本当は八つ裂きにしても足らない、腹の虫がおさまらないと思っています。
ただ、繰り返しますが、彼女の行為は、善悪という観点から云々できることではないと思います。彼女自身も積極的に良いことをしているとは思っていないでしょう。独りよがりな死生観を振り回して、子猫を殺すのなら、せめて他人に黙って殺れ、公のメディアに晒すようなことではないだろうというのが、個人的な私の言い分です。
こうした行為をあえてメディアで告白することで、一体、彼女は何を意図していたのか?というのが、今回のエントリー記事をまとめている時の唯一の関心でした。
彼女自身もそれが、何なのか本当はわかっていないように思えます。密かに自分の行為を何かに象徴させようと思っていたのではないかというのが、ここでの私なりの結論になります。
「子猫殺し」と「子殺し」を同じ線で結んで見ると、彼女の無意識や、その行為によって象徴させようとした時代の無意識が見えてきたような気がしました。
「人はなぜ人を殺してはけないか、人はなぜ生まれたばかりの子猫を殺してはいけないか」
という通りすがりさんの問に対しては、私はその答えをもっていないと応えるしかありません。
当たり前さんが書かれているように、共食いや加虐、殺し合いがこの地球上から絶えたことは、なかったし、これからも無くなることはないでしょう。ただ、殺し合いは、この世に際限の無い痛苦を生み出しますが、子殺しは、未来をも葬り去る行為であることだけは確かです。
投稿: katoler | 2006.09.05 14:42
I love you
投稿: mesubita | 2006.09.10 01:29
坂東氏の文章、
猫を例として、
(ペットを飼う/自らの従属物としての出産を行う)
ヒトのわがままが
「機会(権利)を葬り去る」か「機会の後の生の可能性を葬り去るか」という選択を迫るものとなっている、
という課題提起ではないか、と感じた次第です。
しかしこれはすなわち「人殺しの時代」を示唆しているわけではないと感じます。
焦点は"ヒトのわがままとは何か(どんな意義のものか)"ということかもしれませんし、"生の充実とは何か"ということかもしれません。
おそらくは、ある程度自己抑制or一定の社会ルールへ従う中で、最大限"わがまま""充実"を追求・享受できるのが(社会厚生の立場からは)ベストなのでしょうが、
その議論がなされていないこと/その議論のなされる土壌の弱いこと/その議論を避けたい自分がいること・・・
こういったところが渾然一体となっているのが、坂東氏の文章ではないか、と、私は感じた次第です。
お世継ぎの議論を見ても、あるべき皇后像/あるべき皇太子妃像 への議論が欠けぎみとみえるのはやや残念です。
機能・役割としての皇后・皇太子妃への議論が高まる中で、その1つとして、お世継ぎの議論もなされるべきなのではないか、とも感じています。。。
投稿: Chuck_UGOne | 2006.10.09 16:32
ちなみに日本で子殺しは激減してます。
子殺しは激減している。
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-baby.htm
既婚女性が最も気にする子供殺しは昭和50年には約500件だったのが現在は約100件に減少。
しかも現代の子殺しの犯人はほとんどが親や身内で他人が犯人のケースは年間10件程度です。
投稿: はねおか | 2008.01.09 18:11