世界は音楽に満ちている ~オープンソースとしての野村誠の音楽~
野村誠という作曲家をごぞんじだろうか。わたしは、このブログに何回か登場していただいている、にむらじゅんこさんから彼のことを教えてもらったのだが、一見、大学生風の青年で年齢は不詳。NHKの幼児向け番組で歌のおにいさんのようなこともやっているのだが、この人は紛れもなく天才である。
先日、早稲田大学で、野村誠氏を囲んだトークセミナーが開催された。早稲田大学の小沼純一教授がホスト役になって、野村氏と彼の音楽について語り合い、合間にピアノ演奏があるという内容だった。
凡庸な作曲家は、白紙の譜面とピアノを前にして、曲想をひねりだすのに何日も辛吟するのだが、天才、アマデウスの耳には、「音楽」が啓示のように降ってきて、それを譜面に書き留めるのも、もどかしいくらいだったという。このエピソードに倣えば、野村誠には、この世界のいたる所に神様が忘れた落し物のように「音楽」の欠片が見えているのだろう。しかし、彼に見えている「音楽」とは、これまでの音楽の概念から大きく逸脱している。
作曲を開くということ
小沼教授の言葉を借りれば、野村誠は、第一に「作曲というものを開いてしまった」。
野村は、子供や老人、身障者、時には動物とまでコラボレートして「音楽」を創り上げるワークショップ活動を実践してきた。彼らとのやりとりの中から生まれてくる身体リズムや旋律のインスピレーションをもとに「音楽」を創りあげてしまう。子供や老人相手にコミュニケーションすると聞いて、あたかも萩本欣一の素人イジリ芸のようなものを連想したとしたら、それは大間違いだ。野村には萩本のように権力的なところが全くない。
ところで、萩本欽一の芸がちっとも面白くなくてダメなのは、素人を相手に自分が指揮者になろうとしているからだ。別の言い方をすると、自分の芸を光らせるために手段として「素人」を使っている。初期の頃は、それでも素人の反応とキャッチボールする姿勢が見られたのだが、最近は、野球クラブチームを作って、監督などにおさまって、まるで長嶋気取りだ。先にクラブチームに所属している極楽トンボの山本がファンの少女に対して淫行事件を引き起こし、その責任をとって、萩本はクラブチームを解散すると言い出したが、ファンの「解散するな」という声に応えて、解散を思いとどまる、という反吐の出そうな、お寒い茶番劇を演じて見せた。計算高いことは、前からわかっていたが、根本的にこの人には、心のどこかで「大衆」を嫌悪している部分があると思う。
つい横道にそれたが、萩本欽一のことなどは、どうでもよい。野村誠のことに話を戻そう。彼の天才は、子供や老人に対して、萩本のような押し付けがましい権力的なポジションを決してとらないことだ。身についた自然さで、彼らが気づかぬうちに背後に回って、膝裏をカクンと突くようなコミュニケーションの通路を易々と開いてしまう。野村の言葉を借りれば「ちょっと意地悪をしてみる」という言い方になるのだが、意表を突いて、相手の生の心にまるごと飛び込んでしまうのだ。
他者との心の通路から流れてくるリズムと旋律
そして、奇跡のように開かれた他者との心の通路が開かれた瞬間、その通路から流れてくるリズム、旋律が、野村にとって「音楽」の始まりとなる。
「音楽」とは、そもそも誰のものなのだろうか?そうした問を投げかけてみると、作曲家が曲を作り、演奏家や歌手が楽譜に従って演奏したり歌ったりするというのは、たかだか、この数百年の間に出来上がってきた約束事に過ぎないことがわかる。音楽は、作曲家や演奏家や歌手が存在する遥か昔から存在していたのであり、たぶん、野村誠という音楽家は、そうした太古の音楽の姿を、独特の手法を通じて、この世界に取り戻そうと企んでいるのではないか。
野村にとって「作曲を開く」とは、ひとつには、音楽が他者との心の通路が開かれる場所から立ち現れてくることを意味するだろう。さらに「開く」ということについて、もうひとつ意味があるとすれば、それは、創作行為から、個人の名前が消えていくということだ。
トークセミナーでも紹介されていたが、野村は「しょうぎ作曲」という独特の共同作曲の手法をあみ出した。しょうぎ作曲とは、数人のグループで音楽づくりをするワークショップのことで、もともとは、2人で将棋を指すように始めたことからこの名称がついた。現在は、数人のグループ単位で進められることが多い。
例えば、グループの中に子供がいたとすると、その子がまず、紙に絵を書く。次の人が、その絵からインスピレーションを感じて旋律をつける。五線を引いて音符を書いてもいいし、文章を書いてもいい。そのフレーズを受けて、次の人がまたフレーズをつけるというように、あたかもバトンリレーのようにさまざまな人々が関わって、音楽が組み上げられていく。紙に余白が無くなりいっぱいになったら、しょうぎ作曲は終了となる。
(しょうぎ作曲の紙:写真)
しょうぎ作曲が創り出す究極の音楽
究極の音楽とは、この世界で、ただ一度しか聞くことのできない声であり調べだとすれば、「しょうぎ作曲」の共同作業で音楽を創り上げていく過程そのものが、二度と同じことを繰り返すことができない究極の「音楽」そのものといってよい。
こうした野村の取り組みは、コンピュータの世界のオープンソースに擬えることができるかもしれない。コンピュータプログラムのソースコードを公開して、誰もがプログラム・改良ができるような環境を提供したことでリナックスのような巨大なプログラムが無名者たちの創造物として誕生してきた。同じように、人々の心に「ソースコード」が存在するなら、それを開いていくことで野村は、誰にも帰属しない、そして一回限りの究極の音楽を創造しようとするのだ。
こうすることで、野村は、子供や老人、障害者や自閉症児、時には動物にまで、「音楽」を発見することができるようになった。「この世界は音楽に満ちている」と野村はメッセージを送りたかったのかも知れない。
この世界は音楽に満ちている。
そう、考えられることは、このろくでもない世界に生きる私たちにとって、とてつもなく大きな希望となるのだ。
(カトラー)
参考サイト: 野村誠 取手アートプロジェクト2006
*街中での鍵盤オルガンの演奏が見られます
野村誠 作品「INTERMEZZO」試聴、ダウンロード販売サイト
*試聴できる
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コメント
欽一?
投稿: | 2006.11.07 17:09
> 彼に見えている「音楽」とは、これまでの音楽の概念から大きく逸脱している。
>野村誠という音楽家は、そうした太古の音楽の姿を、独特の手法を通じて、この世界に取り戻そうと企んでいるのではないか。
野村誠がやっていることは芸術音楽の分野で少なくともここ30年行われてきたことの後追いというか、成果のコピーのようにおもいます。もちろん、コピー=模倣という悪い意味ではないですが、彼の作業が独特のものであるという認識は、ちょっと誤解のように思います。
投稿: | 2006.11.08 11:39
コメントへのお返事が遅れました。
・欽一が、うっかり「欣一」になっていましたので訂正させていただきました。ご指摘ありがとうございます。
・創造行為と模倣の問題はビミョーな話ですね。「30年行われてきたこと」といわれていますが、具体的に誰の成果なのか、わからないので何とも論評しようがありませんが、仮に野村氏の創造行為が他のアーティストが行ってきたことと親縁性、もしくは模倣といえるような部分があったとしても、そのこと自体をとらえてオリジナリティの問題を云々してみてもあまり意味がないと思います。表現活動に模倣はつきものですし、同じようなことをやっていながら、作品としては天と地の差があるというようなことはいくらでもありますね。
野村氏だけでなく、「作曲者」や「作家」という固定した枠組みを壊してしまう取り組みが、いろいろ行われてきましたが、それは、作品のオリジナリティそのものを疑って、括弧にいれてみようということですから、彼れらがやっていることのオリジナリティを問題にしてもそもそも意味がないように思えます。
音楽を開かれてものだと定義した上で、この野村誠というアーティストは、他者とのコミュニケーションの通路の開き方、自分自身の開き方について天性のものをもっているというのが私の考えです。彼は、音楽家として音楽を通じて人とコミュニケーションしているのですが、言語のコミュニケーションでも非凡なものがあると思いました。それは、参加者との質問のやりとりを見ていても感じられたことですが、相手のレベルや立ち位置に合わせて、答えを提供できる人ですね。
僕は見ていて、宗教者に近いものを感じました。野村さんという人は、坊さんか、何かの宗教の教祖にもなれると思いましたよ。
投稿: katoler | 2006.11.11 10:16
「即興は命の伝統」と、誰だかが言っていたが、野村氏のしているのは、そんな古代から続く即興演奏の、音楽が、音楽に限らない命の、また人の営みの、生まれ出るある過程の、ごく一側面にすぎない。
投稿: breakaleg | 2006.11.11 23:59
8日のコメントで言いたかったのは野村氏の創作行為に関することではなく、カトラー氏の認識が音楽の分野で行われてきたことに対する認識の少なさからズレがあるように思うと言うことでした。カトラー氏ご自身が偶然出会われた野村氏という事象(それは素晴らしいものであるわけですが)を見ただけで、彼(だけ)が独特の手法でこれまでの音楽の概念から大きく逸脱しているものを創造しているかのような認識(エントリからはそうのように受け取りました)は、多くの同様の芸術的・創作的行為についての知識や認識が乏しいからではないかと察しました。この事はご自身が「具体的に誰の成果なのか、わからないので何とも論評しようがありません」とコメントされました。例えばアルゴリズムによる作曲やその他芸術的創造行為について、検索エンジンを引くだけで様々な事が多くの人によってずっと昔から行われていることを知ることが出来ると思います。
コメントの意図は、このブログを読まれる方は音楽に深い興味を持っていない方が多いと思われるので、カトラー氏とは違う見方もあると言うことを提示したかったことで、野村氏やカトラー氏の活動や意見を事を批判するつもりはありませんので念のため…というか、ブログ空間とはこういうものですよね。
投稿: | 2006.11.12 14:24
コメントありがとうございます。ご趣旨はよく理解いたしました。
蛇足ながらいわせていただければ、アルゴリズムによる作曲などという頭でっかちな話と野村氏がやっていることは、全く別物だと思います。彼の場合は、目の前に存在している子供や障害者、自閉症児との間で「音楽」が成立しうるかどうかというギリギリの挑戦を体を張ってやっているのであって、それが彼の「音楽」の本質だと思います。私はもともと音楽の専門家ではありませんので、音楽史や音楽業界あるいは音楽オタク村で野村誠氏をどうポジショニングさせるかというようなことには、さらさら興味がありませんし、そうした趣旨で記事を書いたつもりもありません。ただ、野村氏がやっていることの本質に興味を持っているだけです。
投稿: katoler | 2006.11.13 00:52
breakalegさん、コメントをありがとうございます。
「音楽が、音楽に限らない命の、また人の営みの、生まれ出るある過程の、ごく一側面にすぎない」というご指摘はその通りだと思いますね。
ただ、「一側面」という言葉は「一瞬」という言葉に置き換えたい。音楽という言葉では表現しきれない、人の意識が交じり合うコミュニケーションの原点、あるいは、そこから音楽が立ち現れてくる原初的な場や時間を発掘するのが、野村氏がやっていることのように思えます。
投稿: katoler | 2006.11.13 01:05
>アルゴリズムによる作曲などという頭でっかちな話
これって私に対する批判的な意味合いなんですよね。なんだか残念です。ブログを汚して失礼しました。
投稿: | 2006.11.13 22:45
名無しのコメンテーターさま
うーん、批判的な意味合いは、全くないですね。その点、ご理解ください。そうではなくて、むしろ趣味の問題です。
アルゴリズムによる作曲にもたぶん立派な仕事があるのでしょうが、そうした数理的、理論的、観念的な世界とは全く別物の、身体性に裏打ちされた音楽世界を構築しようとしているのが、野村氏の仕事だろうと考え、対比の意味で「頭でっかち」という表現を使っただけですね。わたしにとっては、野村氏がやっている世界の方が親しみ易いという意味に過ぎません。
breakalegさんが指摘されているように、それは音楽以前の世界かも知れませんが、そこまで立ち戻って音楽とは何かを見つめ直している野村氏の姿勢を評価しているからです。
世界が音楽に満ちるということは、音楽を開くということであり、CDやコンサートホールやアルゴリズムの中に閉じこもるのではなく、音楽は、この世界のどこにでも偏在するというように考え、実践するほうが、風通しが良くなると思うのです。
私事になりますが、下町育ちなもので、音楽とは、私にとっても常に太鼓や鈴の音のようなものとして存在しました。とりすました感じのものはどうも苦手です。言葉もついつい乱暴になりがちなので、気を悪くされたようならお詫びします。
今後ともよろしく。
投稿: katoler | 2006.11.14 01:04
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