美しい国の国際標準:日本料理って何?
フランス料理はどのように定義されたか
歴史上、自国料理の定義を厳密に行ってきたのは、フランスである。フランス料理は、中華料理と並んで、世界の2大料理といわれるが、中華料理が世界中に広められたのは、華僑の貢献が大きい。世界中に散らばってコミュニティを形成した華僑の人々が、異国の地で中華料理を作り、日本のラーメンなどに代表されるように、現地化も含めて世界中に中華料理を普及させたのだ。
ところが、フランス料理の場合は、中華と違って、華僑のような伝道者の存在があったわけではない。それが、なせ、世界中を席捲する「世界料理」になりえたのかというと、実は、フランスが近代においてフランス料理の体系化と標準化を行ったことが大きい。
現在のフランス料理と呼ばれる料理の基礎を作ったのは、オーギュスト・エスコフィエという人物だ。彼自身も料理人であったが、当時のフランスに存在した様々な料理を超人的な努力で編纂して1903年に「料理指南」(Le Guide Culinaire)というレシピ集にまとめあげた。
これは、貴族社会に伝わっていた宮廷料理、フランス各地に存在した郷土料理などを取り込み、その上で食材や調理法を標準化して、体系化させたものだ。この膨大な本の中でエクリチュール化(テキスト化)されたレシピは5千種類にも及ぶ。それまで、料理人の頭の中に遍在し、暗黙知としてしか存在しなかった、フランスの料理の知識、情報がエスコフィエによって、初めて「体系、見える化」されたのだ。こうした努力によって「フランス料理」というものが、定義され、フランス人たちは、エスコフィエが定義した料理を以降「フランス料理」として認知し、それに対して誇りを感じていくようになる。エスコフィエが編纂した料理書は、現在に至るまでフランス料理のバイブルとして、料理人たちに用いられている。
フランス料理をソフト・パワーとして利用
また、エスコフィエが調理法の標準化を行ったことは、若い料理人の教育・育成や分業の考え方を料理の現場に導入することに大きく役立った。さらに、「フランス料理」という文化システムを軸にして、食材の供給、流通という分野で産業を創出することにも貢献した。
当時の世界は、列強による植民地争奪が活発化していた時代だが、軍事・経済力で劣るフランスは、文化パワーでフランスの存在感を示そうとした。そうした、国家戦略にも「フランス料理」は利用され、外交や国際舞台の標準となり、フランスの文化力を世界にアッピールする道具になっていく。
フランス料理というとルイ王朝の時代から綿々として継承されてきたものというイメージを持つが、現在、われわれが「フランス料理」と呼んでいるものの原型は、エスコフィエが、たかだか100年前に創造した「標準化と体系化」の産物であることがわかる。
ベネディクト・アンダーソンが、「想像の共同体」という著書の中で、新聞、小説の誕生に代表される近代のテキスト文化の誕生が、国民国家の誕生と一対のものであること、また、その担い手になっていたのが当時の新興ブルジョワジーであったことを指摘しているが、同じように、近代フランス料理の誕生を根底で支えたのも、国民国家の成立の主役となったブルジョワジーだった。フランス料理を食べ、小説や新聞を読むことでフランス人たちは「フランス国民」として自分たちを意識するようになったのであり、フランス料理もそうした「想像の共同体」を裏打ちする装置として機能したのだ。
日本料理を定義できるか
さて、話を日本料理のことに戻そう。
「フランス料理」の成立過程を見ていくと、日本料理の定義とやらを恣意的に繰り返していても意味がないことがわかるだろう。ましてや松岡利勝のような人物の思いつきに乗っかって「日本料理とは・・・」と不毛な議論してみても、単なる言葉遊びに過ぎず、最初から時間の無駄としか思えない。そんなに、「日本料理」を自慢したいのなら、100年前にエスコフィエがやったことと同じことを、できるものならやってみろというだけだ。
ちなみに、フランス料理界にもフランス料理の純血性を主張する伝統派は存在する。しかし、彼らの場合は、フランス文化の純血性を主張しているわけではなく、フランス料理の定義(レシピ集)をあらかじめ持った上で、その定義に照らし合わせて異議を申し立てている点が、大きな違いである。
エスコフィエが100年前に行った超人的な作業を、できるものならやってみろとけしかけた形になったが、現代においては、日本だけでなく、どの国においてもこうしたことは不可能なことだろう。厳密な定義と文法を持つフランス料理でさえ、ベトナム料理との融合(フレンチ・ベトナミーズ)、アフリカのクスクスとの融合(フレンチ・クスクス)といった形で、自らの世界を開くことで、あらたな料理世界を創造している。
エスコフィエは、近代フランス料理の父といわれているが、当時存在した貴族社会の料理やロシア宮廷料理のスタイル、はてはフランスの郷土料理までを取り込んだように、エスコフィエが生きた時代には、彼は最も先鋭かつ革新的な料理人だった。今でいえば、ヌーヴェル・キュイジーヌ(新料理)の料理人だった。
もし、彼が料理人として生きていたら、どんな料理をこの世界で創り出したことだろう。
私は、もし彼が生きていたら、イスラムとユダヤの食文化を融合させ、両者が共にテーブルを囲んで「おいしい」と言い合える料理をきっと創りあげてくれるのではないかと夢想している。
(カトラー)
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コメント
玄倉川です。たびたびお邪魔して申し訳ありません。
オーマイニュースでもカトラーさんのお考えに似た記事が出てました。
本当の日本食とは○○だ」は意味がない 食の文化は「現地化」するものだから
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000004939
コメント欄では記事の趣旨に反論する意見がほとんどです。
カトラーさんにとっては意外かもしれませんが「日本料理とは何か定義できない」と考えるインテリよりも「日本料理とそうでないものは区別できる」と実感する人のほうがずっと多いようです。私自身も後者のほうが常識的で信頼できる普通の意見だと思います。
2ちゃんねるのスレッドでも「海外における日本料理店認証制度」に反対する意見はわずかです。
【論説】 「ウソ日本食蔓延で、認証制度?…日本政府、センス悪すぎ。友達づくり、ヘタなんですねえ」…東京新聞★5
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1170521547/
確固とした反対意見をお持ちのカトラーさんを賛成に変えられるとは思いませんが、「認証制度を歓迎する意見が多いこと」「賛成意見の多くはイデオロギーではなく実感に基づいていること」を理解していただきたいと思います。
投稿: 玄倉川 | 2007.02.05 00:48
玄倉川さん、コメントありがとうございます。
文章を良く読んでいただければ、「日本料理が定義できない」ということを問題にしたいのではないことは、おわかりになると思いますが・・・。フランス料理のことを引き合いにして述べたかったことは、フランス人が、フランス料理の規格化、標準化を大変な努力によって成し遂げ、それによって、フランス料理を文化として世界中に広げることに成功したということであり、それに比べれば、あまりにお手軽に「日本料理」という概念を自明のものとして振り回しているのではありませんか?ということです。
こうした私の考え方のどこがイデオロギー的といえるのでしょうか。個人的なことになりますが、党派的な思考を排して、現実に即して自分の頭で考えることをモットーにしており、私のブログを読んでいただければ、そのことは少なくともわかっていただけるはずと信じています。特定イデオロギーを流布するためなら、こんなブログをそもそも始めることもなかったでしょう。
それと、オーマイニュースや2ちゃんねるにコメントしている人々が「一般人」の実感を代表する声であるとするのは相当強引な話だと思いますね。玄倉川さんも含めて、ネット上で書き込みなどをしている皆さんは、りっぱなインテリですよ。
ところで、この世界を支えているのは、サイレントマジョリティといわれる、声無き庶民だと考えています。毎日の仕事をきちんとこなし、愚にもつかないことは考えずに市民生活を淡々とまじめにまっとうしているというのが、「一般人」であり「普通の人々」であると私なりに定義しています。そして、そうした「普通の人々」のことを私は心から尊敬しています。ブログや2ちゃんねるに書き込みをするような人たちは、私や玄倉川さんも含め、そうした「一般人」とはかけ離れた存在だと言っておきましょう。
だから、ある時は、インテリのように自説を主張し、別の局面では、一般人面するというのは、あまり褒められた態度とはいえません。
玄倉川さんがおっしゃるように、一般人の実感というのは、物事の本質をズバリとつかむ強さがあり、理屈を捏ね回すインテリや政治家の言うことよりも的を得ているという考え方には賛成です。
私がいつも行く近所の下町の床屋のおやじは、安倍首相が「美しい国」と連呼するのをラジオで聞きながら、「政治家も2世のぼっちゃんになってキレイゴトばかり並べるようになりやがった」とブツブツ文句をいってました。私は安倍普三という人物が別に大嫌いでも何でもなく、あえていえば関心が無いというのが適当ですが、床屋のオヤジがいっているのは、当たっていると思います。だからあんた(安倍普三)はダメなんだとはいってやりたいですね。
投稿: katoler | 2007.02.09 00:46
一般人の代表である床屋のご主人が日本食について何を語るのかとほんの一瞬期待してしまった。
ただ、インテリとは何と素直な人種なのかと感心もした。床屋の主人が客の前で特定のプロ野球チームや政党、政権を批判してしまうようではサービス業失格ではないだろうか、そうでなければ常連客の嗜好に合わせたサ-ビスのひとつだと受け止める方が自然なのではないかと、軽口の一つもたたきたくなる。
それにしても安倍批判のために、三代目のおぼっちゃま作戦で攻撃にうって出るとは その勇気には心底 恐れ入り奉る。
投稿: かかし | 2007.02.09 17:39
「日本」という響きに異常反応する、自称気高き戦士たちの幼児性に、カトラー氏のため息が聞こえる
投稿: モイス | 2007.02.09 19:53
モイスさん
日本と言う響きに異常反応を引き起こしているのが、カトラーさんだということにどうして気付こうとしないのか。再考を願う。
投稿: かかし | 2007.02.09 20:25
かかしさん、毎回、キーワードに反応いただきありがとうございます。
美しい国とか安倍おぼっちゃんとか、特定ワードに反応するだけでなく、できれば、論旨をふまえてコメントしていただければ、もっとうれしいです。今回の私のコメントにもきっと反応していただけると思っていましたよ。今後もよろしく。
投稿: katoler | 2007.02.10 01:15
こうでなければならないというのは日本的ではないですね
受容力が大きいからこそ日本文化がグローバルに広がってるわけで
まだ意識的にやらなくてもいい気がします
漫画も結局それで広まったわけですから
投稿: fff | 2007.02.11 00:51
かかしさん
再考しました。結果、かかしさんを抱きしめたくなりました。
投稿: モイス | 2007.02.11 19:43
実は前のコメントの書き出しは「お呼びでしょうか、ご主人様」とくだけて入ろうとした。最後の一本締めにまたもや安倍批判を持ち出す不自然さに、やはり釣りだったのかと納得した。
あなたの真正面からの安倍批判が記事になるまでこちらにおじゃまするつもりはなかった。
私には何の感心もない、おフランスの料理にからめた安倍批判で呼び出されたところで、記事の論旨「フランス料理と日本料理」「日本料理に対する一般人の実感」「一般人の定義」などからはずれたコメントしか寄せようがない。そもそも私は、記事の論旨と安倍批判のキーワードはまるで関係がないと一貫してコメントしていたはず。そのキーワードに反応したことが論旨をふまえていないとのご指摘に 戸惑うばかりである。
私がパクリと食いつくそのキーワードがあなたの記事の論旨と別物であるとお認めになったのならば喜ばしいかぎりだが。
モイスさん、あなたが女性であれば素直に喜びたいところ。男性でも好意の抱擁なら受け入れる覚悟はできている、と思う。
抱きしめたい理由が落ちになっているのなら、その披露は大喜利で。
投稿: かかし | 2007.02.12 03:11
上海のインテリの方々に海外に日本料理の認定の話をしたところ
「上海で売られているブランドのカバンなどのコピー商品の購買者の多くが日本人なのですが、そういうものを買い漁る行為をまずやめていただきたい。そのあとに、偽日本料理店をやめてほしいというのならば、論理的ですが」という意見がありました。
投稿: jq | 2007.02.12 20:11
jqさま
上海のインテリの皆様にお伝えください。
郵便ポストが赤いのも 空飛ぶカラスが黒いのもみんな日本人が悪いのです。
投稿: 通りすがり | 2007.02.13 00:35
カトラーさん、はじめましてこんにちは。大変面白く読ませて頂きました。私は、「日本料理の定義などあいまいでいいじゃん、でもやれるのならやっていただいてもOK、その際には参考にさせて頂きます~」ぐらいの感覚です。最近暇つぶしに料理を少ししますが、面白いのは、日本人の知人からは、よく「これ何(どこの国の)料理?」と聞かれるのですが、欧州の人は、せいぜいヨーロピアンかアジアンぐらいの区別しかしない。パエリアみたいにいかにも「スペイン」というのもありますが、肉や魚料理に関しては、食卓を前に、あまり国境で定義しようとしても意味はない、という感じです。
投稿: リオ | 2007.02.14 16:17
リオさん、はじめまして、こんばんは
おっしゃることに賛成です。日本料理の定義などを考えながら寿司や天ぷらを食すなど、そもそも愚の骨頂ですな。日本料理の名において変なメニューが登場しようが、ご愛嬌のようなもんで、「美しい日本」が傷つけられたなどと思う方が、下町的にいうと「料簡が狭い」ダサイ奴ということになります。日本もたいそうな国になったのですから、ギャアギャア目くじらたてず、鷹揚に構えたらよろしいのではというのが、この問題に対する基本的なスタンスです。要は、食い物なので、自分にとってうまいか、まずいかが問題です。私の友人は納豆のケチャップあえが好きで、ナットーナポリタンと名付けて悦に入っていますが、「美しい国」の名において彼の嗜好を糾弾しようとは思いません。
投稿: katoler | 2007.02.15 02:35
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投稿: mbayk fnisgxjby | 2007.08.13 22:12