あたり前の家づくり運動とコモン・センス
当時は、建物の外観イメージでは南仏風、イタリア風というのが人気で、地元の足立区でも、景観とのマッチング全く無視するような「南仏」「イタリア」風の家があちこちに出没し始めていた。「お客様のニーズの多様化に応じて、様々なタイプの商品をご用意いたしました」ハウスメーカーのマーケティング屋のこんな小賢しいセリフが聞こえてくるようだが、逆に、それは、この国の住宅というものが「基本」を見失ってしまったことの証左のようにも思えた。
あたり前の家が建てられない?
現在の日本の住宅産業では、あたり前の家があたり前に建てられていないのではないか?
こういう問題意識のもと、「あたり前の家」を考えていこうという運動をはじめた「あたり前の家ネットワーク」という工務店のグループがある。
あたり前の家とは、何か。彼らの説明では、それは以下のようなことだ。
· 「あたり前」の予算で建てられて、
· 「あたり前」に長もちして、
· 「あたり前」に安全で、
· 「あたり前」に環境にやさしく、
· 「あたり前」に暮らしやすい家のことです。
どれもが至極もっともな、それこそ「あたり前」のことばかりである。現在の住宅産業では、こんなあたり前のことが実現されていないことになるのだろうか。あたり前の家ネットワークとその事務局を担当する建築知識の編集長、大菅力氏らが発行した本「あたり前の家がなぜつくれないのか?」を読むと、日本の家造りの現状が抱えている様々問題や、そうした問題が生み出されてきた歴史的経緯というものが良くわかる。
あたり前=コモン・センス(common sense)
ここでいわれている「あたり前」という言葉は、コモン・センス(common sense)と言い換えるのが適当ではないかと考えている。
コモン・センスという英語には、「常識」という日本語が訳語としてあてられているが、中村雄二郎氏の「共通感覚論」によれば、英国でコモン・センス(common sense)が「社会的常識」という意味で使われるようになったのは、18世紀からだという。コモン・センス(common sense)というのは、なかなか由緒正しき言葉のようで、それ以前に遡ると「共通感覚」という意味を持った言葉としてアリストレスの中にも登場してくる。
哲学的な話をすると、コモン・センス(共通感覚)の存在は、人間が完全に孤立した存在ではなく、コミュニケーションする存在(間主観的実在)であることの根拠になる。統合失調症(精神分裂病)など他者との交流が不能になる精神疾患は、このコモン・センス、すなわち、自己と他者の間にある「あたり前」の領域が失われた状態であり、これに倣えば、日本の住宅とは、正に精神分裂状態にあるといってもよいのかもしれない。
それに対して、ヨーロッパや北米など海外の都市の街並みが、日本のように分裂病的であったり、住宅の工法、デザインが脈絡無く、かくも乱立しているという話はついぞ聞いたことがない。この違いはどこで生まれ、日本の住宅はどうして「あたり前(コモン・センス)」を失ってしまったのだろう。
米国の家造りの本質は標準化
日本以外に目を向け、例えば米国の場合を見てみると、一般住宅については、ほぼ100%、ツーバイフォー工法によって建築されている。専ら地域ビルダーが、住宅建設に従事しており、日本のようなハウスメーカー自体が存在しない。これは、米国政府が採った住宅政策に起因している。すなわち、米国政府は、戦地から還った兵士たちに良質で廉価な住宅を供給することを国家目標として掲げ、ツーバイフォーを米国の住宅の標準工法として定め、工法のマニュアル化、部材の規格化などを積極的に推し進めた。米国の一般書店でも販売されていて、誰でも購入できるツーバイフォー住宅の施工マニュアルを見ると驚かされるのは、ツーバイフォー住宅の施工方法が、材料の加工方法にはじまり、釘の打ち方など現場作業の方法、さらには、効率的な材木の持ち方に至るまで、事細かに決められていることだ。あたかも兵士を教育するように、家造りをマニュアル化、標準化した点が、米国流家造りの本質だ。こうした標準化の推進の結果、米国ではプロ、アマの区別の無い、オープンな住宅市場が形成された。
ところで、標準化とコモン・センスは、一見似ているように見えるが別物で、むしろ対極関係にある。標準化は、ルール化を意味するが、コモン・センスがカバーするのは、ルール化されない暗黙知の部分である。飲酒運転をしないことは、ルール(法律)だが、仕事中に酒を飲まないのはコモン・センス(常識)に属する。さまざまな人種、価値観の坩堝であるアメリカ社会には、コモン・センスがそもそも希薄で、だからこそ「標準化」が必要とされた。グローバル化が進む今の世の中では、米国流の「標準化」が大流行りだが、日本やヨーロッパが志向すべきなのは、米国流とは異なるコモン・センスに裏打ちされた家造りであろう。
「あたり前の家」はブランドではなく運動
「あたり前の家」ネットワークの仕掛け人、塩地さんは、「『あたり前の家』の定義を工法や部材など、物理的な仕様レベルで標準化することはしない」と考えている。私もその考えに賛成だ。「あたり前の家」という言葉が、商品としての物理的仕様・スペックに結びついたとたん、それは、「運動」ではなくて、単なる「ブランド」になってしまうだろう。住宅をブランド化してマーケティングすることは、ハウスメーカーの連中によってやり尽くされてきており、正直もうウンザリだ。私などがそう言う前に、そうした手法に対して当の消費者のほうが、とっくに飽き飽きしている。大切なことは、日本の住宅が失ってしまったコモン・センス(共通感覚)を取り戻すことだろう。
それでは、失われた「あたり前(コモン・センス)」とは何であり、それは、どうすれば取り戻すことができるのだろうか。冒頭に紹介した「あたり前の家ネットワーク」のように、原則を立てて、その方向性に向かって運動していくというのもひとつの方法だろう。皆が共有できる「あたり前(コモンズ)」が存在することをまず意識することによって、はじめて先が見えてくる。
「コモンズ」とは、もともとは共有地を意味して、コミュニティの中で、個人の所有権の及ばない領域のことを指す。歴史的にいえば、山や森林、漁業における漁場(漁業権)、灌漑用の溜め池、地域の伝承技術などが、このコモンズとされてきた。別の言い方をすれば、地域の人々が共有する、こうしたコモンズの存在があったからこそ、コミュニティが機能していたともいえるだろう。
住宅にとって、このコモンズとは一体何なのかを考えることが、「あたり前(コモン・センス)」を回復するための第一歩になるのではないか。環境、景観、子供達の未来など「あたり前」の家づくり運動の中から既にコモンズとして見えてきたものもある。アトム化した個人や家族が、シェルターのように住まう家ではなく、もっと開かれた場所で成立するのが、コモンズとしての「あたり前の家」になるのではないかと個人的には想像している。
独立運動を導いたトーマス・ペインの「コモン・センス」
コモン・センス(common sense)という言葉に絡んで、もう一つ重要な逸話がある。それは、米国の独立運動をリードしたといわれるトーマス・ペインの「コモン・センス」のことだ。
トーマス・ペインは18世紀に活躍したパンフレット作家だが、彼らは自分たちの政治的主張を5~6ページの小冊子にまとめて販売するという啓蒙活動に携わっていた。
トーマス・ペインが発行した「コモン・センス」は、英国の植民地支配を受けていた当時のアメリカ人に対して、独立と共和制のすばらしさを説き、英国の支配から独立することがコモン(共有)すべきことなのであり、それこそが「コモン・センス」であると呼び掛けたのだ。この主張は大きな反響を巻き起こし、当時のアメリカは、240万人ほどの人口だったが、その5%に相当する12万部を販売する大ベストセラーになり、米国の独立運動の気運が、この一冊のパンフレットの発行によって燎原を走る火のように広がっていった。当時のアメリカ人たちにとって、英国から独立することなど思いもよらぬことだったのだが、それを「コモン・センス」と表現したことで、彼らの心に火がついたのだ。
日本の住宅産業は、量的拡大の時代が決定的に終わりを告げ、少子高齢化の波の中で、大淘汰時代を迎えたといわれている。しかし、日本の家の質的向上や「コモン・センス」づくりは、未だ緒についたばかりである。住宅産業は、今や誰が見ても成長は難しい衰退産業と捉えられがちだが、だからこそ、思いもよらぬ新しい「コモン・センス」を創造するパラダイム・シフトが生まれる可能性がある。そのためには、トーマス・ペインのような啓蒙家も必要だが、何よりも求められることは、家造りに対して高い志を持ったプロ、そして施主の双方が、共通の価値観を共有し、新しいコモン・センスを形成することだと思う。
この世界で、あたり前なことほど非凡なことはない。あたり前のことを、あたり前にやり遂げる者が、大きな変革を成し遂げてきたことを歴史は教えている。
(カトラー)
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コメント
「あたり前の家がなぜつくれないのか?」の企画をした塩地です。企画者より適格な批評、感謝申し上げます。
住宅は商業ビルといった建築物と異なり、何も生産しません。
強いて言えば、それは子供という次世代であり、家族という愛情です。何も生産しない住宅が、戦後の経済復興の中心的役割を担ってきました。住宅は純粋の個人の所有物であり、個人の人生観の表現です。産業政策とはそろそろ分離しなくてはならないと考え、企画しました。
当初より「あたり前の家」を定義せよとのご批判、ご意見を頂戴しましたが、今後ともその定義を行うつもりはありません。少子高齢化、消費税・金利引き上げといった要因で、急速に住宅「産業」は冷却します。この急速冷却をいかに時の力として、産業を脱し、競う合う様に乱立する町並みを憂う、それらの有志が集合するきっかけを作りたいだけです。その結果、コモンセンスが再確認され、更に上位概念である「倫理」が構築された後、「あたり前の家」は定義されるでしょう。
投稿: 塩地博文 | 2007.05.14 10:19
はじめまして。前に雑誌でチラッと見た「田舎建築事務所」(rural studio)の話を思い出しました。
アメリカ南部の極貧地域の一つブラックベルトと呼ばれる一帯で、貧しい地域住民が住むための住宅の設計から施行までする活動。最初は建築科の実験的授業の場として立ち上がったらしいです。いまもその活動は続いていて学生による実習プロジェクトという感じになってるみたい、と。
記事にはそれぞれの住民に合わせて作られた個性的かつ創造的な家の写真が並んでいました。
こんな感じ
http://www.ruralstudio.com/completehouses.htm
以下、記事(ビッグイシュー.vol54)より一部引用です。
『 「家」は生きていく上で欠かせない心と身体の安らぎの場であり、人間としての尊厳を維持するものでもある。住まいを設計する建築家という仕事の本質とはいった何なんだろう?マクビーはこう語っている。
「建築家の仕事とは紙の上での作業に終わらず、現場で実際に作業をして初めて完結するもの」であり、「特に建築を学ぶものにとっては現場で出会う人々との作業を通してこそ本来の使命、モラル、現実認識、美的センスを学ぶことができる」と。』
ちなみに、ルーラルスタジオの創設者であるAuburn大学建築科教授マクビーは2000年にアメリカ版草の根ノーベル賞「天才賞」を受賞。残念ながら翌年12月30日、白血病で他界したらしいです。
投稿: m_um_u | 2007.05.20 17:47
muse-A-museさん、はじめまして。コメントありがとうございます。
アフリカの家づくり運動、面白いですねえ。ビッグイシューは見かけると必ず買っているのですが、この特集は知りませんでした。
10年ほど前に実家を二世帯住宅にしたのですが、某ハウスメーカーに依頼して、とんだ目に遭いました。その時の教訓は、サラリーマンなんかに家を造らせたから駄目なんだということ。といっても、連中が実際に家を建てるわけではなく、下請けの工務店に丸投げで、さやを取るという、ゼネコンビジネスモデルになっているのですが、ホントに何の役にも立たない連中でした。経済的に許せば、もう一度、家を建ててみたいと思っていますが、自分で建てるくらいの覚悟がないと「あたり前の家」を手にいれるのは、難しいのかもしれません。
耐震偽装の事件がきっかけで、建築基準法が改悪され、自分が納得できる家をつくることは、ますます難しくなっているようです。
「家は人間として生きていくのに欠かせない・・・人間としての尊厳を維持するものでもある」良い言葉ですね
投稿: katoler | 2007.05.22 19:05