映画BABELと9.11をつなぐ世界共時視線
映画は、モロッコ、日本、メキシコ、アメリカ、四つの国を舞台に、それぞれ無関係に見える4つの物語が、不協和音を響かせながら進行し始める。
壊れかけた夫婦の関係を修復するためにモロッコへの旅に出たアメリカ人夫婦。その旅行に出かけた両親の帰りを待つ幼い兄妹とその子守りのメキシコ人中年女性。母親が自殺したことで、父親との関係もぎくしゃくして、満たされない日々を送っている聾唖の東京の女子高校生(菊池凛子役)。そして、モロッコの山間で山羊を追って暮らしているモロッコ人親子の幼い兄弟。それぞれが何の脈絡もないように見える地球上の4点としてまず提示される。これらのバラバラの点が結ばれて、どんな隠されていた地上絵が浮かび上がってくるのか、という疑問が、観客を捉えるのだが、その答えは与えられず宙吊り状態にさせられたまま物語は流れていく。
「BABEL」という映画の題名が、旧約聖書の創世記11章の「バベルの塔」に由来し、その創世譚が持っていた本来のメッセージを知っている人なら、BABELの物語のこうした始まり方をひょっとしたら予感できたかもしれない。
ディス・コミュニケーションの起源としてのバベル
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 彼らは『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう』主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。
主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(旧約聖書創世記第11章)
この聖書の話は、人間の傲慢さを見て神が罰を下したという教訓的な話として、後世に伝えられていくが、もともとは、人間同士が、なぜ通じ合えなくなってしまったのかを説いている人類のディス・コミュニケーションの起源譚に他ならない。ここで描かれている互いに通じ合う術を失った人間の姿は、黙示録のように現代の人々の姿に重なる。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督がこの映画の冒頭で登場させたのは、ひとつの言葉を失ってバラバラにさせられたバベルの塔の子孫としての現代人といってよいだろう。
そのバラバラになった絆が浮遊する世界を、一発の銃弾が切り裂く。
モロッコ人親子が、山羊を襲うジャッカルを退治するために、日本人ハンターが託していったという猟銃をモロッコ人ガイドから手に入れる。幼い兄弟が、その銃で遊び半分で観光バスに向けて撃った銃弾が、バスに乗り合わせていたアメリカ人夫婦の妻の肩を射抜いてしまう。上海の蝶の羽ばたきが、アメリカでハリケーンを引き起こすというカオス理論の例えのように、一発の銃弾が引き起こした波紋が、4つの地点の人々に混乱(バベル)と絶望をもたらしながら広がっていく、共時的な世界が描かれる。
銃撃を受けた夫婦が、アメリカに残してきた子供たちは、メキシコに帰郷した子守りのメキシコ人女性とともに、国境でのトラブルに巻き込まれ、灼熱の砂漠を放浪する。東京の聾唖の少女は、孤独な魂の重みに耐えかねて街をさまよい、さらに深く傷ついていく。銃の持ち主だったモロッコ人の親子は、現地の警察に追いつめられ、パレスチナのモハメド親子のように銃撃を浴びて立ち往生してしまう。
「私は悪い人間ではないの、ただ、愚かなことをしただけ」
自らがまねいた災禍に幼い兄妹巻き添えにして、砂漠を彷徨うことになってしまったメキシコ人の子守りは、絶望の中で子供たちに向かってそうつぶやく。メキシコ人の子守りだけではない、この映画の登場人物は皆、せつないくらい愚かで、英雄と呼べるような人物はひとりもいない。愚かな人間達は、自らが招いた災禍かどうかもわからない出来事に翻弄されて、ただ悲嘆と絶望にくれるのだ。
9.11とBABELに内在する「世界共時視線」
今、この時も世界の各所で共時的に進行する混乱と絶望、そうした世界の真実が、この映画では4つの地の物語として象徴的に映像化されている。この映画に内在化されているのと同じ眼差しを以前にも感じたことを思い出した。それは、ニューヨークを襲った9.11の映像だ。バベルの塔のような世界貿易センタービルが崩落し、ペンタゴンが炎上するテレビ映像が切り替わると、テロの成功を喜ぶパレスチナの子供たちの映像が重なる。それはアメリカ人が蒙った最も深いトラウマ映像となった。
9.11の映像がなぜ人々の心を深く傷つけたのかといえば、そこには、物語の結末をハッピーエンドに導いてくれるハリウッド映画の「英雄」は存在せず、果てしない相対価値の地獄が広がっていたからだ。崩落するビルの中で死んでいく肉親のことを思い嘆き叫ぶ人々の絶望と、アメリカ的なものに虐げられたパレスチナの人々の絶望。誰もその絶望に優劣などつけられず、絶望同士が正面からぶつかりあうイメージが9.11の映像だった。その映像をもたらした眼差しを「世界共時視線」と名づけるなら、このBABELLという映画にも同じ眼差しが内在化されており、9.11から6年を経て、あの時の映像体験を初めて作品世界の中に取り込み、内在化させることに成功した映画ということができるだろう。
9.11のトラウマを乗り越えた初めての映像作品
以前このブログでは、9.11テロを題材にしたハリウッド映画「ワールド・トレードセンター」(オリバー・ストーン監督作品)について評したことがあったが、こちらの方は、9.11を題材にしながら、ありきたりのヒューマンドラマをでっち上げただけのどうしようもない作品だった。それに対して、このBABELLこそ、9.11以降、その絶望を真の意味で引き受け、その果てにしか見えてこないかすかな希望を描くことができた、初めての映像作品と評価することができる。
映画の後半では、人々に混乱(バベル)と絶望をもたらした銃弾が、無関係に見えていた4つの物語と人々の心を、1本の糸で紡いでいく。それは、自らの愚かさを思い知った者だけにしか見えてこない救済への糸口でもある。
「助けて!私はここにいる」
4つの地の愚かな人間たちが、天を仰いで渾身の力をふり絞って声を上げる。映画作品としては、それぞれの役者の存在感そのものがほとばしる印象的な場面だ。
特に、東京の聾唖の高校生「チエコ」を演じ、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされた菊池凛子の演技は、評判通り素晴らしいものだった。映画のラストで、高層マンションのベランダに全裸となったチエコが立つ。愚かではあるけれど、心まで裸になった無垢な人間の姿が、そこにあった。
バベルによって、神は、ひとつの言葉を壊して、人々をバラバラにさせた。しかし、そのことは、ひょっとすると、失われた絆を再び繋ぐ試練を人間に与えたということなのかも知れない。この映画のラストは、愚かな人間たちに捧げられた奇跡の物語であり、そんな祈りにも似た深い感情を呼び起こさせる。
(カトラー)
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