ALWAYS 続・三丁目の夕日と昭和レトロブームの行方
昭和という時代のへのレクイエム
前作を見た時、私は、この映画は、昭和という時代に対するレクイエム(鎮魂歌)であると思った。映画の中で「鈴木オート」という自動車修理工場の女房役を好演している薬師丸ヒロ子が、インタビューに答えて、登場人物たちが、「まるで幽霊のように思えた」と語っていたが、この映画を見ると、昭和という時代が、もう戻ることのできない彼岸の世界になってしまったことがわかる。彼岸の世界に生きている死者たちの物語だからこそ、この映画の登場人物たちは、皆、生き生きとしている。
その幽霊たちが、2007年の現代において、人々の関心の中心にせり上がってきてしまった。このことは、いったい何を意味するのだろうか。
前作を私は3回見て、そのうちの1回を娘と一緒に見たのだが、平成の世で育った現代っ子が、こうした映画をどう評価するのか気になった。映画を見ている間、隣に座っている娘の表情を時々チラチラと横目でうかがっていたのだが、気がつくとボロボロと涙を流していた。モノクロのテレビ、手回しローラーで脱水する洗濯機、おもちゃのようなダイハツミゼット、彼女にとってそれらは初めて見るものばかりだったが、今の生活のルーツに出会ったような新鮮さと懐かしさを感じていたようだ。昭和世代だけでなく、私の娘も含めて平成生まれの若者まで引きつけたことが、この映画を大ヒットさせ、現在の昭和レトロブームを引き起こした要因になっている。
昭和30年代に成立した日本人の家族イメージ
東京の空に東京タワーが立ち上がっていった昭和30年代、地方から大量の人々が東京に流れ込み、それぞれに家庭をつくり、核家族化が進行した。父、母、子供2人といった現在の「家族」のイメージが確立され、家庭生活を基礎とした暮らしの原型が形成された時代でもあった。例えば、日本のTVのファミリードラマでは、一家団らんの食事シーンが定番となっているが、家族がそろって食卓を囲み、白いご飯にみそ汁とおかずという普通の食事ができるようになったのは、実は昭和30年代からだった。米の消費量の推移を調べると、戦後の復興期から急伸するが、それがピークを打ったのは昭和31年だ。意外なことだが、その後は、日本人の米の消費量は右肩下がりで減少を続ける。というのも、食生活の多様化が進み、パンや麺類など米以外のものでお腹を満たすようになったからだ。この映画の舞台となった東京タワーが完成した昭和33年は、インスタントラーメン「チキンラーメン」が誕生した年でもあった。
米の消費量を見ていて、ふと思ったことがある。この数値は、ひょっとすると日本人の「幸せ感」を表しているのではないかということだ。
戦争が終わり、空襲の恐れが無くなった農村では、安心して米の増産が図られた。豊かに実った稲穂の波をあとにして、都会に出てきた田舎の青年たちは、故郷を思いながらも、生きるために無我夢中で働き、とにかく腹いっぱいの「ごはん」が食べられるようになったのが、この昭和30年代の初めだった。
昭和31年の経済白書では「もはや戦後ではない」と日本人が飢えから解放されたことが宣言され、ひとびとの意識が、戦争や国家から、ささやかな「家庭の幸せ」へと向かいはじめた。この映画で描かれたように、大きく広がった東京の空に向かって東京タワーが立ち上がっていく姿は、その頃の日本人が抱いていた達成感や幸福感を象徴していたといえるだろう。
半世紀を経て幸せの形が見えなくなった日本
しかし、それから半世紀を経て、この国の人々には幸せの形が見えなくなってしまったようだ。
米の消費量が、日本人の「幸せ感」を表している・・・と述べたが、こころみに、昭和35年を起点に米の消費量のグラフと自殺死亡者数・自殺率のグラフを重ね合わせて見た。すると、驚いたことに、その数値は、米の消費量の減少にぴったり呼応するように増加していることがわかる。
もちろん、このことから、米を食べなくなったことが原因で自殺が増えたなどという結論を引き出すつもりはない。しかし、米の消費が減っていくという現象の底部で日本社会の何かが変質し、そのことが、世界第9位の自殺率、先進国の中では類例を見ないほど多くの自殺者を出す「自殺大国日本」を生み出してしまったのだろうと推測できる。
では、その変質とは何なのか。結論からいうと、それは、家族神話のおわりという問題に行き着くのではないかと考えている。そのことをもう少しこの映画に即して見ていこう。
家族の記憶としてのライスカレー
映画の中では、前作、続編を通じて、ライスカレー(カレーライスではなくライスカレー)が重要な役割を担って登場してくる。
駄菓子屋を営みながら作家になることを夢見ている茶川竜之介のもとに、身寄りの無い少年、淳之介が転がり込んでくる。夕日3丁目で飲み屋を開いているヒロミが、昔の水商売仲間から預かった少年を、茶川に押しつけたことがきっかけとなり、3人の擬似「家族生活」が始まるのだが、ヒロミは、いつしか竜之介、淳之介と一緒に暮らすことを夢みるようになり、ある日、2人のためにライスカレーをつくる。その思い出が、「家族の記憶」として、3人の心に刻みこまれていく。続編でも、そのライスカレーに託された「家族の記憶」がリフレインされ、観客の涙を誘うのだが、前作と違うのは、このライスカレーに託された「家族の記憶」というメッセージをどこかで見たことがあるな、というデジャブ感に襲われるかもしれないことだ。 そう感じたヒトは、ハウス食品の、たぶんこのCMを見ていたであろう。
CMの中で使われている「食卓へ、帰ろう」というコピーは、なかなかよく考えられたメッセージだ。現代は個食の時代といわれ、コンビニエンスストアに行けば、一人暮らしのフリーターやニート、独居老人や単身赴任者、塾通いの子供や家事を放棄して包丁も持たない主婦のための弁当・惣菜やらレトルト食品が、げんなりするほど並べられている。もちろんハウスのレトルト食品などもその中の定番商品だ。
ところで、個食化のターゲットになっている彼らにとって、ハウス食品がメッセージしているところの「帰るべき食卓」とは、一体どこにあるのだろうか。いうまでもなく、そんな場所は、もうどこにも存在していない。
個食化によって示される家族神話の終わり
もっと直裁にいうなら、個食化とは、家族神話の終わりと同義のものととらえるべきだ。誤解なきようにいっておきたいが、この問題を考えるときに、家族が制度的に成立しているか、あるいは現実に家族が営まれているかどうかは関係ない。重要なことは、この映画によって美しく描かれている家族の絆、戦後の日本に典型的に成立した家族(核家族)というものの終わりに、われわれが立ち会っていることを認識することだと思う。
なぜ、家族は終わるのかといえば、答えは単純で、そのことを資本が求めているからだ。思えば、戦後、成立した「家族(核家族化)」も資本システムの求めたものだった。この映画で描かれているように、当時の日本人は、一家に一台、テレビや冷蔵庫や洗濯機を買い、いずれはクルマを買うことを夢見た。私たちは、それを自分たちが夢見たものと思い込んでいたが、本当は資本システムから要求されていたことだった。その神話を信じ込むことができたおかげで、日本は奇跡の復興を遂げ、世界2位の経済大国へと登りつめることができた。そして、今、超高齢化と少子化の時代を迎え、資本システムはこれまでの成長を支えた「家族神話」を終わらせ、新たな神話を創成することを求めている。
つまり、この映画は、昭和という時代に対するレクイエム(鎮魂歌)であるのと同時に、昭和という時代が育んだ家族(核家族)神話の終わりを示唆するレクイエムでもある。
ヒロミは竜之介と淳之介のために再びライスカレーをつくるために茶川商店に戻ってくる。映画の中では、一家団らんの食卓シーンが回復されるのだ。しかし、現実には、こうした一家団らんのシーンは、Always 3丁目~のような映画やTVの世界、あるいは人々の思い出の中など、この世とは別の「彼岸」の存在となりつつある。
ハウス食品の昭和レトロ・マーケティング
帰るべき食卓など無くなった現代日本において、それでは、なぜハウス食品は、「食卓へ、帰ろう」というメッセージをこの期に及んで流すのだろうか。それは至極簡単だ、喪われた「食卓」や「家族」を懐かしむために、今度はハウスの「ライスカレー」(写真)を食べてくださいというのが、実はこのコピーに仕込まれたもうひとつのメッセージなのである。だからこそ、復刻版の昔の「即席ハウスカレー(顆粒)」に加えて個食向けレトルトパックの「昭和のライスカレー」という「新製品」まで発売している。映画を見て、家族団らんの食卓が懐かしくなった寂しい人々は、このレトルトパックのカレーを食べて、ノスタルジーに浸ってくださいというわけだ。
別の言い方をすれば、私たちの高度な資本主義社会は、「家族の記憶」まで、マーケティングして製品化する術を心得てしまった。「続・Always 3丁目の夕日」を見て、何の予見もなく涙しながら見た前作とは違って、一抹の割り切れ無さが残るのは、そうした仕組まれた「昭和レトロブーム」の本質を垣間見てしまったせいかも知れない。
(カトラー)
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コメント
カトラーさんの分析に驚きました。
僕もこの映画を先週、見たのですが、その後で、テレビでこうした宣伝をやったり、セブンイレブンで復刻版お菓子を売っている姑息なPR法を見て、なんとなく騙された気分になりました。
映画のスポンサーの方々、映画の広告宣伝係の方々!
どうか、昭和の記憶を、マーケティングという「手垢」で汚さないでください。お願いします!!!
投稿: 白山でマラソン | 2007.11.18 22:32
この映画のCMを日テレがたくさんCM放映してますが、これってパブリシティ?それとも広告?もし、あれだけのスポットCMを買って宣伝しているとすれば、相当広告予算を割いていることでしょうね。それでリクープできる映画って、すごいと思います。もし、広告ではなく、パブリシティだとしたら、テレビ局が公共の電波を使って、自らがメンバーとなっている製作委員会の映画を宣伝するのっていかがなものでしょうか?協賛各社も同じテイストのCMを作って・・・これって、いわゆる洗脳? この辺の事情がよくわかっていないので、的外れなことを書いていたら、ごめんなさい。素人の素朴な疑問でした。
投稿: kazuco | 2007.11.19 18:44
どう話をまとめるのだろうと読み進めると、そう来ましたかw
そりゃ企業メセナ風に後背に座して「よっしゃ、よっしゃ」と銭だけ出してくれるだけなのが一番でしょうが、株主訴訟を気にせずそれが出来るのはオーナー企業だけだし、それはそれで下々には嫌味なんですけどね。
タイアップや協賛ぐらい別にいいじゃん。
ブースカ文句言うより観衆が賢くなる方がいいよ。
んで、皆が個食とかね。大人は良いよ、分かってやってんだから。買い食いするぐらいの金も持っているし。
大人が忙しくなった分、子供の周辺で相手をする年長者も少なくなってるような気がする。
忙しくして金の掛かる生活も大概にしないと駄目だな。
投稿: とりる | 2007.11.19 22:51
植民地的なまなざしのオリエンタリズムを、空間軸ではなく時間軸で表したものが、ノスタルジアです。「昭和」という彼岸への憧憬と、「素朴な生活」「食卓」という欲望の対象:資本が過去に破壊させた、こうしたものをノスタルジアをもって憧憬・欲望させるというあの広告には、おもわず半畳を入れたくなりました。
確かに、日本人は過ぎ去った過去が大好きです。レトロを語るのは別に悪いとは思いませんが、それが、あそこまで見え透いていたら、映画の魅力は半減以下ですね。
ハウスに限らず、あれら一連の広告は、聴衆・消費者を、馬鹿にしています。
投稿: 曳舟 | 2007.11.20 01:15
みなさん、コメントありがとうございます。
僕も映画を見たあとに、セブンイレブンで、この映画にキャンペーン連動した棚が作られていて、駄菓子やら、復刻商品やらが売られているのを見て、ちょっと複雑な心境になりました(ちなみにペコちゃんのミルキー復刻版を買ってしまいました)。大企業が投資するこうしたコンテンツ作品に、「手垢」のつかない感動を求めるのは、もともと無理というものなのでしょう。
トリルさんがいうように、基本的にはこっちのリテラシーを高めておくことしか、できることはないですねえ。
作品として見たばあいは、前作の方が数段良くできていたと思います。キャンペーンがらみになったことが影響しているとは思いませんが・・・
投稿: katoler | 2007.11.23 20:05