吉兆の蹉跌 ~ブランドと「のれん」のはざまで~
東京サミットでは、日本料理を各国の元首に供する大役を担うなど、吉兆は、正に日本料理界の最高峰の名をほしいままにしてきた。その吉兆の名が地に墜ちつつある。
あまり知られていないことだが、「吉兆」という料亭は、創始者の湯木貞一氏が、1930年に大阪で鯛茶所として開店し、一代で創り上げたもので、百年以上続く老舗料亭、日本料理店が、数多く存在する日本にあって、その歴史はたかだか70余年でしかない。
その吉兆が、これほどまでの名声をどうして築くことができたのか?それは、ひとえに湯木貞一という創始者の非凡さによっている。大正~昭和の料理人で湯木と並び称されるのが、北大路魯山人だが、魯山人は正真正銘の天才であり、料理を魯山人という個性が創り出す「芸術作品」にまで高めた。湯木貞一も天賦の才能を持った料理人ではあったが、魯山人とは対照的に、「日本料理」というジャンルそのものを構築した。湯木は、魯山人のようなクリエイターというよりは、エディターとしての才能に秀でた人物であったといえるだろう。
日本料理というジャンルを確立した吉兆の創始者、湯木貞一
湯木や魯山人が現れるまでは、日本料理とは、宮廷料理の流れをくむ有識料理、武家料理の伝統を引き継ぐ本膳料理、地方の郷土料理などが、雑多に混在するものでしかなかった。
湯木貞一は、そこに茶懐石の伝統を接合して、素材と季節感を軸にした、現在の「日本料理」の基本型を確立した。茶懐石とは、もともと茶事の前に供される引き立て役としての料理でしかなかったが、その理念を軸に、雑多な日本の料理をひとつの統合したイメージをもった「日本料理」として編集したのだ。
素材と季節感を大切にし、器や空間にまで心配りをするという考え方は、魯山人が料理の世界に持ち込んだものといえるが、その料理思想を受け継ぎながら、湯木はそこに「日本料理」という概念の枠組みを用意したといえるだろう。その意味で、近代日本料理の祖型は、魯山人と湯木の二人三脚によって創り上げられたといっても過言ではなく、その功績は、近代フランス料理の父といわれるオーギュスト・エスコフィエにも比肩するといってよいだろう。つまり、吉兆とは、もともと「モダン(近代)」にその誕生の母胎があったということだ。
湯木が吉兆の創立を通じて成し遂げたことは、何だったのだろうか。私は、それは、現在の言葉で表現するならば、「ブランディング」だったのではないかと考えている。
湯木は「日本料理」というジャンルそのものを創り上げる一方で、そこに「吉兆」の名を刻印した。そのことが、吉兆が何百年も続く「のれん」を誇る老舗料亭に伍して、一代にして名声を確立できた最大の理由である。
「のれん」と「ブランド」は似て非なるもの
ところで、「のれん」という言葉は「ブランド」と同一視される面があるが、実は似て非なるものである。「ブランド」とは、牛に焼き鏝(こて)で刻印を押して、その牛が自分の所有物であることを明示したことがそもそもの起源になっているように、自他を区別し、自らの所有権を主張する契機が、その根底にある。ブランドが「知財」といわれるのも、もともとそれが財産・資産と同じものと見なされるからだ。
一方、「のれん」とはバトンリレーのように永遠に受け継がれるものであり、究極的には、それは誰のものであるかを問わない無名の価値にまで収斂する。「のれん」の価値とは、未来永劫受け継がれていく、その事自体から生まれてくる。
今回の吉兆の偽装問題は、この「ブランド」と「のれん」の間において生じたことではないかと考えると少し違った角度で問題が見えてくる。
「のれん」を重視する企業は、成長よりも市場の継続性を重視する。例えばその日作った饅頭が売り切れれば、「売り切れ」として店を閉めてしまうのが「のれん」を優先する老舗の流儀だ。一時の需要に合わせて増産すれば、未来の市場を食いつぶしてしまうという知恵が、長年の間に身についている。黒豆プリンの賞味期限を改ざんしていた吉兆にしろ、返品された商品を使い回していた赤福なども、売り切れるだけのモノしか作らなければ、そもそも今日のような偽装問題は起こらなかった。
「のれん」にとって次に求められるのは、ヒトの継続性だ。技術の伝承はもちろんのこと、そこで働く従業員や顧客との関係が濃密でなければ、バトンはリレーされていかない。「のれん」を守るという意識のもとで、“幻想の共同体”が成立している様は、ブランドの世界とは対照的だ。ブランドは、モノに刻印されるのであり、モノの流通とともに際限なく、広がっていくが、モノが傷つけばブランドも崩壊する。赤福はお伊勢参り全盛の時代から脈々と300年も続く老舗だが、いつしか「ブランド化」した。赤福という「のれん」とヒトとの関係は希薄になり、ついに関係者からの内部告発によって、数々の偽装が明るみに出てしまった。
吉兆、赤福の不祥事は、いずれも食品の偽装に関わる問題だが、吉兆の場合は、ブランドから「のれん」を志向した過程の中で生じ、赤福の場合は「のれん」がブランド化していく過程で生じた問題と位置づけることができる(図)。
パート従業員に責任を転嫁する船場吉兆
そして、吉兆の場合は、さらに問題が先鋭に現れている。
賞味期限の改ざんや牛肉の産地偽装などの問題を引き起こした船場吉兆の湯木尚治取締役は、こともあろうに、その責任をパートの主婦においかぶせようとした。そうしたトカゲの尻尾きりにも似た行為に反発したパートの主婦たちが、弁護士を立てて記者会見を行い、「湯木尚治取締役から直接、改ざんの指示を受けた」とあらためて告発するという前代未聞の事態にまで発展した。その後もこの取締役は、マスコミにも顔を出して、「自分も含め経営層は改ざんの事実を知らなかった」という強弁を押し通そうとしているが、愚かなことに肝心なことを理解していない。
この人物は、必死に吉兆の「ブランド」を守るつもりでこうした行動に出ていたのかも知れないが、全ては裏目に出るだろう。なぜなら、この時点で守るべきは吉兆の「のれん」でなければならないからだ。どんなに高度な品質管理を行ったとしても、商品を扱う以上、どこかで瑕疵や事故が発生する。その時点で商品ブランドは地に墜ちることになるが、消費者が本当に見ているのは、実はその先だ。
幻想の共同体を繋いだ山一証券、野澤元社長
山一証券が経営破綻した時、当時の山一証券の野澤正平社長は、感極まって、泣きながら「みんな私たちが悪いんであって、社員は悪くありませんから! 善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います」と釈明した。そんなセンチメンタルな釈明が会社の経営や冷徹な企業間競争の中で何の足しになるか、だから山一は駄目になるのだと、当時のマスコミレベルでの評判は芳しくなかったが、山一の元社員たちにいわせると、あの言葉によって多くの社員が精神的に救われ、また、野澤社長の泣きながらの会見が全国的に有名になったおかげで、元山一証券マンに対する目が変わり、その後の転職活動にもプラスに働いたという。山一証券は潰れたが、山一マンたちの“幻想の共同体”は、野澤社長の一言によって、リレーされたのだ。山一の破綻劇のこの一瞬に浮かび上がった“幻想の共同体”は正しく「のれん」とよべるものだった。
吉兆の創始者、湯木貞一は、本当は、「のれん」というものに強烈な羨望を持っていたのではないか。それを物語るように、吉兆が料亭としての名声をほしいままにして、全国展開を進めていく過程で、1991年に親族(一男四女)に「のれん分け」をするような形で吉兆を分社の連合体にしていった。親族をそれぞれの分社組織のトップに据えて、吉兆の“幻想の共同体”をしっかりと支えることで、確かな「のれん」を創り上げていこうとしたのだ。
ズタズタになった吉兆の「のれん」
しかし、湯木の思いとは裏腹に、吉兆の「のれん」は、いつのまにか変質し、人々の思いの連鎖は断ち切られ、ズタズタになってしまった。
ブランドは常に唯一無二の存在になることを目指す「王様」のような存在だ。船場吉兆の湯木取締役に教えてやりたいのは、王には必ず「王殺し」が伴うということだ。王の力が衰えを見せると、たちまちに王の首がすげ替えられる「王殺し」が始まる。ブランドも同じことで、永遠に君臨するブランドというものはありえない。吉兆が、今直面しているのはこの「王殺し」である。
そして、「王殺し」にあった吉兆が為すべきことは、ひとつしかない。余すところ無くきちんと殺されることである。吉兆グループとしては、今回の不祥事は船場吉兆がやったことだからというような形で逃げを打つことは、いささかも許されないし、もしそれをやれば、再生の機会を永遠に失うことになるだろう。
パート従業員に責任を転嫁しようとした船場吉兆の湯木取締役の去就が、当面の試金石になる。吉兆グループが、この人物をこのまま居座らせるようなら、吉兆の「のれん」にも未来はない。
昨日、11月22日は、同じ食品の偽装問題で販売を自粛していた石屋製菓の「白い恋人」の販売が3ヶ月ぶりに再開された。不祥事が発覚した直後は、北海道ブランドに泥を塗った行為として、激しい糾弾を受けたが、一方で、北海道が培ったブランドとして再生を望む声が、むしろ外野から高まった。「のれん」の再生は、企業の枠を越えたヒトの繋がりの中からしか生まれてこない。
(カトラー)
関連記事:美しい国の国際標準:日本料理って何?
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
のれん、ブランド、ほんとうに目からウロコでした。ありがとうございました。
投稿: 北村隆男 | 2007.11.23 19:18
「のれん」と「ブランド」の違いで描いてみせるのは面白かった。
ところでこの伝でブログ主としては、「吉兆」はそれが「のれん」であろうと「ブランド」であろうと船場に限らず名前を変えて再スタートするしかない、という結論でしょうか?
投稿: トリル | 2007.11.24 00:17
コメントをありがとうございます。
パート従業員が、反乱を起こして、記者会見を開いたというニュースを聞いた時、「吉兆」は、もう駄目だなと思いました。湯木貞一のような料理人は、50年に一度しか現れないので、跡を継いだ凡人たちは、吉兆を「老舗」にしていくことをめざすべきでした。パート主婦たちから声が上がった後も、船場吉兆の湯木取締役は、広報対策のつもりだったのか、NHKの独占インタビューなどを受けて、自分は関与していないと強弁していました。良くいえば、ブランドを守るためにやった行為かもしれませんが、私には自己保身のために強弁しているとしか思えません。その証拠に、その直後に産地の偽装に会社として関わっていたことが明るみになりました。
吉兆の再生については、私個人としては、実は全然興味が無いのですが、「のれん」の再生には、吉兆をサポートする人々(従業員も含め)の心をつなぎ、ひとつにしていくことが何よりも先決でしょう。トカゲの尻尾きりや保身に走る輩がトップでは、誰もついていかないでしょうね。
投稿: katoler | 2007.11.25 10:06
カトラーさんには珍しく論理に破綻があるような気がする。
> パート従業員が、反乱を起こして、記者会見を開いたというニュースを聞いた時、「吉兆」は、もう駄目だなと思いました。
氷山の一角という言い方もできますが、駄目なのが明らかになったのは船場吉兆のみです。
そのことが、直接他の吉兆すべてが駄目だには繋がらないハズ。
> 「ミシュランガイド東京2008」...(中略)...「吉兆」の名は影も形もなかった。
ミシュランもあくまで料理屋の評価基準のひとつに過ぎない。
それに彼らはフランス、イタリア料理などの評価はお手の物であっても、日本料理について正確な評価を下すには、まだ経験も知識も足りないと思う。
カトラーさんをアルファブロガーに投票しました。
投稿: マルセル | 2007.11.27 20:44
マルセルさん、お久しぶりです。ご投票いただいたということで、ありがとうございました。
船場吉兆からは、その後、何のメッセージも出てきませんね。マルセルさんがおっしゃるように、船場吉兆と他の吉兆は別物という捉え方もできますが、腐ったリンゴは他のリンゴも腐らせてしまうという例えもありますね。自浄作用が果たして働くものかどうか、もう少し見ていく必要がありますね。
個人的にはミシュランなんて、全然なんとも思っていないのですが、ブランド主義者の船場吉兆の湯木取締役は、さぞかし悔しがっているだろうと思って書いたまでです。まあ、今回の不祥事とその後の対応の悪さで10年は、載るのは無理でしょう。
投稿: katoler | 2007.12.03 19:04