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世界中が日本を真似はじめた?③ ファインアートの終わりと吉行耕平

Yoshiyuki_kouhei 漫画、アニメ、フィギュアといった日本のサブカルチャーが世界を席巻している。
先回のエントリー記事で、ポップカルチャーとしてのオタク文化をファインアート(純粋芸術)の世界に翻訳することで成功したアーティスト、村上隆の戦略を見てきた。漫画やアニメだけではない、日本のサブカルチャーがファインアートの領分を浸食して、広がる現象は他の分野にも見られる。

吉行耕平というカメラマンをごぞんじだろうか。今年の9月、ニューヨークの「Yossi Millo Gallary 」で吉行氏の作品を集めた「the Park」(公園)というタイトルの個展が開催され、大評判になっている。

ニューヨークタイムスをはじめ地元のマスコミ、批評家は、この展覧会を絶賛しているが、(Press記事PDF)日本では全く報道されていない。

New York Times の紹介サイト→  Layers of Voyeurism (主要作品が見られる)

吉行耕平は、1970年代の新宿の中央公園でセックスをしているアベック(もはや死語になったが)を赤外線暗視カメラで「盗撮」したグラビア写真を当時の週刊新潮に連載して、センセーショナルな話題を提供したカメラマンだ。その写真がユニークだったのは、公園の暗闇の中で男女の営みに精を出すアベックだけでなく、その情事を木陰の中から覗く、デバガメ(ノゾキ屋)たちまでも吉行氏のファインダーがしっかり捉えていたことだ。
この写真を撮るために、吉行氏は、半年間、毎日、新宿中央公園に通い、そこを根城にするノゾキ屋たちと顔見知りになり、ノソキのイロハの手ほどきを受けたという。

Yoshiyuki_kouhei2 週刊新潮に連載後、ノゾキ屋との交流や撮影の顛末を書いた「ミッドナイトフォーカス」(トクマブックス1989年発行)という本にまとめ、それに先立つ80年には、今回の展覧会のネタ元になった写真集「ドキュメント・公園」を出版している。この写真集や本は、ネットオークションなどで高値で取引されているが、吉行耕平氏のファンだという青舐(あおなめ)さんという女子大生から、彼女がオークションで1万5千円で競り落としたという「ミッドナイトフォーカス」という本を見せてもらった。

サブカル本に初出した吉行氏の写真作品

写真はもちろんのこと、吉行氏の文章も大変面白いのだが、お世辞にも「芸術」とはいえない内容だ。赤外線撮影用のビデオ機器のガイドなども掲載されており、「盗撮のすすめ」という趣もある。今ではとても出版したり、版を重ねたりできない本で、そのためもあり、オークションで、高値がついている。
せっかくだから内容の一部を紹介しよう。この部分では、“道路工事”という名前で呼ばれているノゾキ屋が、アベックの情事を覗くだけでは飽きたらず、彼らに近寄って自分もその営みに参加してしまい、その情景を他のノゾキ屋たちが注視しているという信じ難い状況が描かれている。

Yoshiyuki_kouhei3 「“道路工事”の二本の指が下着の透き間からすべり込んだ。“道路工事”の指の動きに女が反応する。人だかりはもう20人余りに膨れ上がり、あたりは異様な雰囲気になっていた。道路工事の指の動きに女は体をのけそらして応え、喘ぐような歓びの声がもれた。
・・(中略)・・・じつに不思議である。女の体を相手の男の手と、第三者のノゾキの手が這い回る。しかし、女は何も気づかずに悶え続けている。」(吉行耕平著『ミッドナイトフォーカス』より)

見る者と見られる者が連鎖するノゾキの共犯構造

吉行氏が、セックスに耽るアベックの写真だけを撮っていたのなら、単なる盗撮写真としての意味しか持たなかっただろうが、ノゾキ屋たちをも画面に捉えたことで、その写真世界が持つ意味が、全く違ったものになった。アベックを覗く、ノゾキ屋たち、そして、そのノゾキ屋を覗く視点にこの写真を見る者たちが置かれることで、この世界それ自体が、覗く者と覗かれる者が永遠と連鎖する「ノゾキの共犯構造」によって実は成立していることが暴かれてしまうのだ。そして、その真実が分かった瞬間、ふと、誰もが自分の背後に何者かの視線があるのではないかと気になりだす・・・。写真を撮るという表現行為そのものが、もともと写真を見るモノとのノゾキの共犯関係によってい成立しているものではないのか。吉行氏の作品は、その共犯構造を見事に暴いているという意味で、「これこそ写真の中の写真である」(荒木経惟)という評価も生まれてくるのだ。

Midnight_focus もっとも、このような解説は、この写真をあらかじめ「ゲージュツ」と措定した上で、理屈を後付けしているに過ぎないのではないかという指摘を受けそうだ。確かにそうした指摘には説得力がある。というのも、89年に刊行されたサブカル本「ミッドナイトフォーカス」で紹介されている写真と、今年の9月、ニューヨークのギャラリーに飾られていた吉行氏の写真は、全く同じもので、何ら変わるところがないからである。芸術至上主義者にいわせれば、サブカル本に掲載された吉行氏の写真作品には、もともと「芸術的価値」が存在したのであり、それを現代の目利きたちが、あらためて「発見」したのだと主張するだろう。そういう理解の仕方にしておく方が、世の中は平穏なのかも知れないが、私の考えは、逆だ。すなわち、吉行耕平氏の芸術的成功は、そのまま、「ファインアート(芸術)」という神話が崩壊しているということを物語っている。

芸術とサブカルの違いは顧客の差異だけ

サブカルの芸術性、あるいは芸術のサブカル性と言い換えてみても、実は同じことをいっているに過ぎない。異なるのは、「市場」、すなわち顧客の違いだけである。
つまり、ニューヨークの画廊で吉行氏の作品を1000万円で買っていく、金持ちコレクターや美術館のような客もいれば、ネットオークションで吉行氏の写真集を6万円で買っていく、サブカル好きな女子大生のような客もいるということで、ただ、それだけの差異である。

サブカルチャーがファインアートの形成に影響したということは、過去のジャポニズムにおいても当てはまる。印象派の画家たちに対して大きな影響を与えたといわれた歌麿や広重、北斎は、当時の文化的正統からみれば、本流からは外れた、いわばサブカルの絵師でしかなかった。ちょうどその頃のヨーロッパでは、新興ブルジョアジーというパトロンの誕生によって「ファインアート(純粋芸術)」が成立しつつあったが、印象派の画家たちは、極東の小国、日本のサブカルチャーを取り込みつつ、それを触媒としながら新しいファインアートの様式を創りあげていったのだ。

では、今日、日本のサブカルチャーが世界を席巻している状況は、一体何を意味し、何をもたらすことになるのか。

日本発のサブカルチャーが変化の触媒になっているという構造は、印象派の時代と変わらないが、過去と違うのは、現代のサブカルは、ファインアート(純粋芸術)の領分を侵し、その枠組みや輪郭それ自体を溶解させ、芸術の定義自体を変えつつある点だ。

サブカルがアートの輪郭を溶解させる

「芸術」の世界は、つい最近まで、一部の目利きが、少数の価値ある作品を独占するという、希少性に基づく原則に支配されていた。ナチスドイツが、名画、名品を全世界から略奪、収集したのは、そのことによって、芸術を支配し、美の司祭として人々の心までも支配しようと考えたからだ。「美」というものには、本来的に純化をめざし、異質なものを排除する契機が存在する。
現在、進行しているのは、ちょうどそれとは正反対のプロセスだ。すなわち、もはや美の司祭はどこにもいなくなり、構築的な美の基準は崩壊した。代わって人々の心を動かしているのは「Kawaiiカワイイ」、「クール」という言葉によって表現される、フラットで相対的な美意識だ。

構築的な美の基準というものを信じている人々にとっては、村上隆の創るフィギュアや吉行耕平のノゾキ写真が「芸術」や「美」を標榜することは、我慢がならないことかもしれない。しかし、ピカソやマチスの作品も、その時代の美意識からは、かけ離れた、世間からは糾弾される対象だった。ファインアート(純粋芸術)の成立とは、別の見方をすれば、貴族から、新興ブルジョアジーたちが美を取り戻す奪還運動であったともいえる。

となれば、現在の日本発のサブカルブームは、美や芸術をオタクや一般の人々の手元に取り返すための反乱とはいえないか。

「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」

とは、関東大震災の動乱の最中に虐殺されたアナーキスト大杉栄の有名な言葉だ。
吉行耕平の写真作品に、これほど似合う言葉を他に知らない。

(カトラー)

関連記事:世界が日本を真似はじめた?①ジャポニズムの再来とオタク文化
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Comments

たしかに、純粋芸術はもう彼岸な感じです。階級意識を培ってきたものが壊れていますね。学歴とか、習い事とか。ブランドも、女子高生のアイテムに成り下がっています。

吉行氏の写真もそうですが、カメラが女の子たちのあいだで流行っているのも、写真というものが、階級といったものを壊していく文化装置だからではないかなあー。

19世紀、南米のラプラタ河の河口でうまれた、アルゼンチン・タンゴは卑猥なポルノ歌詞だったそうです。踊るひとたちももっぱら売春婦だったということですが、それは年月をかけて意味を変えていき、今では国の代名詞です。
人の移動、文化の移動が生じるところには、こうした思いもよらないバリューが応じたりするものですね。

Posted by: 青舐 | 2007.12.12 at 12:07 PM

青舐さんの言うとおりです。
バレリーナも昔はパトロンあっての存在だったし、出雲の阿国も本当はかなりエッチだったといわれている。
最近放映されたNHKの出雲の阿国がつまらなかったのは歌舞伎を生み出した阿国を最初から神格化しているからだ。
それに主演は菊川怜じゃなく東大出なら楠城華子でしょう。いやこのエントリー記事の趣旨に沿うなら及川奈央か。
出雲の阿国を及川奈央主演でNHKがボカシ無しで『Sex in the Park(副題)』として放映したら、大騒ぎになるでしょう。
ただ、日本の株は少し上昇するかも知れない。
まあ。無理でしょうが。

Posted by: はまり役 | 2007.12.12 at 01:49 PM

>ただ、日本の株は少し上昇するかも知れない。

ただ、日本の株は少し勃起するかも知れない。

Posted by: 訂正 | 2007.12.12 at 01:58 PM

定期的にブログ拝見しています。

本文8-9行目。

>村井隆の戦略を見てきた。

↑村上隆、では!?

ついつい誤植が気になったもので、恐縮ながらコメントさせて頂きました。

Posted by: 李言徳 | 2007.12.16 at 11:29 AM

李さん、誤字の指摘ありがとうございました。修正しました。
はまり役さん、コメントありがとうございます。及川奈央さん主演の出雲の阿国というのはイケてますね。
文化というものは、もともと禍々しきものの中から生まれてくるもの。今は、文化を語る連中が最も禍々しいという状況になっていますね。

Posted by: katoler | 2007.12.20 at 08:15 AM

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