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世界が日本を真似はじめた?④ ジャポニスムの戦略

Japonism_2 このブログを読んでくれている女子大生の青舐(あおなめ)さんという方から、ジャポニスム学会というのがあることを教えられて、先日、高輪台の畠山記念館で開催された学会のシンポジウムにもぐりこんだ。

ジャポニスム学会とは、元世田谷美術館館長で「ジャポニスム―印象派と浮世絵の周辺」などの著作で知られる碩学、大島秀次氏らが発起人となり、1979年に発足した学会である。

人文系の学会というものに参加したのは、初めての経験だったが、とても刺激的な内容であった(青舐さんありがとう!)。折りしも、ジャポニスムの再来がいわれ、日本文化の海外での受容の問題に関心が高まっていることを背景に、シンポジウムでは大変活発に議論が交わされ、さまざまな問題が提出された。

全体を通じて、印象的だったのは、ジャポニスム学会の方々が、文化というものをとても丁寧に見つめているということだった。そのことに大変好感が持てた。
これは、大島秀次氏など、この学会の創設メンバーの見識によるところが大きい。残念ながら大島氏は先ごろ他界されたとのことだが、ジャポニスムに関するその著書「ジャポニスム―印象派と浮世絵の周辺」は、この分野の議論をする上でバイブル的な書物になっている。大島氏が心を配ったのは、ジャポニスムの研究をする上で、ナショナリズム的観点とは一線を画し、できるだけイデオロギーに束縛されない立場からこの問題を眺めることであった。

文化に優劣はなく、互いに混じり合うもの

その方法論は、そもそも文化に優劣はなく、人間同士が交わるところでは、国力や経済力の優劣とは関わりなく、文化というものは相互に影響しあっていくものであるという信念に基づいたものだと思う。大島氏の著書では、浮世絵がフランスの印象派に与えた影響などについて検証しているが、「影響」という言葉さえも使うことに慎重で、印象派の画家たちが、「浮世絵に影響された」とはいわずに、「選択的に受容した」と表現していたという。それほど慎ましく考えなくても良いのではないかと、私などは思うくらいだが、一方で、前々回のエントリー記事でとりあげた、政治家の尻馬にのって、声高に日本文化の優位性を言い立てるような浜野保樹のような御用学者が跋扈するような現代にあっては、こうした身の律し方には、一種の清清しさえ感じられる。

パネルディスカッションにゲストスピーカーとして参加した川本皓嗣氏(大手前大学学長)は、こうした大島氏の態度に共鳴しながらも、ひとつの文化が他の文化に与える「影響」を「対話」と読み換えても良いのではないかと提案していた。ただし、その「対話」とは、お手軽に成立するものではなく、川本氏は「バフチン的対話」という言葉を引きながら、永遠に重なり合うことが不可能でありながら、それでもなお、交わり続ける意志を持ち続けることによって、はじめて成立しうる「対話」であると述べていた。そうなのだ、どちらか一方が他方を圧倒するような権力的な関係や、お手軽に相手のことがわかりましたと、すぐ相槌を打つような関係の中からは、本当の意味での文化的な創造は生まれてこない。

永遠に重なり合うことが不可能なのに、対話を続ける意志・・・といえば、野坂昭如のこんな歌があったことを思い出した。

男と女の間には深くて暗い川がある
誰も渡れぬ川なれど
エンヤコラ今夜も舟を漕ぐ
Row and Row  Row and Row
振り返るなRow

(野坂昭如、黒の舟歌)

昔、酔っぱらってよく歌った歌だが、どうやら最近のカラオケに入っていないようだ。この歌は、品格あるジャポニスム学会に必ずしもふさわしいとは思えないけれど、コミュニケーションというものの本質を表している。男と女、西欧と東洋、イスラエルとパレスチナ、なんでもいい、永遠に重なり合うことのない両者が、そのことに絶望した上で、それでも、なお話しつづけるということを、真のコミュニケーションというのだろうし、そうした絶望の上にしか本当の希望も生まれてこない。その意味では、異なる文化間の対話とは、それ自体が絶望であり、希望なのだ。

ジャポニスムを戦略的に構築する

もうひとつ、印象に残った議論は、シンポジウムの聴衆の一人として参加していたお茶の水女子大学、鈴木禎宏准教授の指摘だ。鈴木氏は、バーナード・リーチの研究でサントリー学芸賞などを受賞している俊英だが、「ジャポニスム」といった途端、日本という国をめぐるイデオロギー性や政治性からは逃れられなくなるという点を指摘していた。そして、その上で「ジャポニスムという言葉や概念を戦略的に構築すべき」という提案を行っていた。こうした主張は、ここのところ私が考えていた問題意識に最も近い。

鈴木氏は、岡倉天心を例にとり、天心は「東洋の理想The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan」「茶の本THE BOOK OF TEA」などを欧米向けに著したが、その背景には、日本文化を東洋の代表選手に仕立て上げるというしたたかな戦略が働いていたという。当時の国粋主義者の間では、英語で日本文化を語ることなど唾棄すべきことと受け止められていたようだが、岡倉天心は、あえて日本文化を世界に向かって開いたのである。そのことによって、日本文化や東洋が世界と対峙され、欧米諸国の視野に入ってきた。

日本文化を世界に向かって開いて見せた岡倉天心

その時代とは違い、現代では、さすがに中国抜きに「東洋を代表」するなどと言明することは不可能だが、日本、中国、韓国など東アジア圏で成立しているフラット化した市場をベースに、共通の文化言語を世界に対して発信していくことは可能だろう。
以前、このブログでも取り上げた話題だが、ナントカ還元水で自殺した松岡農相が「正しく、美しい日本料理」を広めるために、日本料理のルールをつくり、海外の日本料理店をその基準に照らして評価するという、税金の無駄使いプロジェクトを発表したところ、「寿司ポリスがやってくる」と海外のメディアからさんざん揶揄され、バカにされた。
食・料理というフュージョンの世界に、純血主義を持ち込むことの愚かしさと馬鹿さ加減をこのブログでも指摘し、逆に「ブラジルやきそば」など、混血料理のおもしろさなどについて紹介した。
混じり合いながら、いかに創造的なものをつくりだしていくかという問題意識を持つ方が
「日本は真似されている!」と優越意識と被害者意識(あるいは劣等感の裏返し)をない交ぜにしながら、目くじらを立てることより、よほど生産的だろう。

日本の基準の押しつける国際漫画賞

世界を席巻しつつあるといわれるアニメ・漫画文化、オタク文化にしても、要は、偉そうにしないことが基本戦略になるはずだ。麻生太郎とその御用学者、浜野保樹が立ち上げた国際漫画賞というものがあるが、これが醜悪なのは、日本の漫画のルール、価値観に沿ったものしか評価していない点である。漫画やアニメは、どこまでいってもサブ・カルチャーである。日本的価値観を押しつけたり、日本の基準で権威づけても、他文化の人々にとって面白くなければ、その漫画は読まれないし、結果として何の価値も権威も生み出すことができない。そんなことも分からない戦略性の無い頭の弱い連中が偉そうにしているから、日本は、相変わらす戦略なき自慰行為に耽るイエローモンキーにしか見られない。

結局、文化の純血主義は、いずれ煮つまるし、出口がない。文化とは、バフチン的対話の産物であり、最後までわかりあうことなどできない者同士が、絶望しながらも、その深くて暗い川を渡るために営々と舟を漕ぎ続けるような、優れて人間的な行為である。

かつて岡倉天心が腐心したように、ジャポニスムを開くことが、ジャポニスムにとって最適の戦略となる。

(カトラー)

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Comments

ジャポニスムや、日本の文化の影響を語るときは、当然ながら、日本のこと以上に、それを受容している国の文化・歴史・経済事情に詳しくないといけません。

浜野氏は、
「フランスの印象派は、新・浮世絵といってもいいだろう」と主張しているようですが、印象派のことをどれだけ知っているのか、甚だ疑問です。ご著書を拝見した限りでは、大学一年生程度の知識しかないとお見受けします。

カトラーさんの主張はまったく的を得ているとおもいます。ジャポニズムの「イズム」を超えて対話していこうというというのが、ジャポニスム学会の趣旨であるとしたら、まったく逆のことを麻生氏たちはやっているのですね。

税金の無駄遣い、やめてほしいものです。

Posted by: 緑玉 | 2007.12.20 at 12:27 PM

政治家や官僚の規制がないから日本のアニメやサブカルが進化してきたのであって、政治化してしまったら世界最強の「日本の漫画」も間違いなく衰退していくでしょうね。ネットによって、価値あるものや面白いものに世界中のファンがすぐ反応するという現象は当分続きそうで、これは未来の世界を垣間見るようで期待できそうです。結局人生は短いのだから一人一人がどういう生活を選択するかということと重なっているようでもあります。せめて文化くらいは「なんとか賞」という権威にひれ伏すのではなく自分の感性を優先していきたいですね。

ところで「日展」の作品て本当につまらないのですがいい加減に誰かが引導を渡してあげないと作家たちが気の毒なのでは?王様が裸であることに関係者は誰も気がついていないのでしょうか?
まだまだ日本にはこういう「ダサイのに本人たちは無自覚」というものがいっぱいあります。


Posted by: まだある日展 | 2007.12.22 at 03:26 PM

緑玉さん、まだある日展さん、コメントをありがとうございます。日展にいったのは、30余年以上前の中学生の頃だった記憶していますが、コメントをいただき、日展なんてものが、まだこの世にあったけと気づかされて、ネットで出品作品を見て、いやはや驚きました。中学生の頃に見た作品と、雰囲気も何もかも全く変わっていませんね。いやしくも創造活動の場である展覧会が、全てが昔日の如しというのは、これはこれでスゴイことだと思いました。
日展は「Always3丁目の夕日展」とでも改名した方がよろしいようです。
フランス印象派のことを新・浮世絵と呼べと主張するようなインチキ国粋主義者が、この国の最高学府の教授として、「文化戦略」なんてことを口走り、日本美術を代表する日展が、この体たらくでは、この人たちに日本文化などという
言葉を語らせるのは、犯罪的あるいは国辱行為かも知れません。

Posted by: katoler | 2007.12.23 at 12:13 AM

日展は伝統文化や技術を滅ぼさせないためにあると思うんですよ。相撲・歌舞伎と同じ括り。
ただ権威ずくのは気持ち悪いけどね。
日本農業とか一時の効率追及で消えてしまうのもどうだろうかとも思うでしょ?
アレと一緒。

Posted by: トリル | 2007.12.23 at 12:38 AM

文科省推薦「ゴルゴ13」なんて誰が読むか!また共産党推薦「なにわ金融道」なんていうのも間違っている。権力者は勿論だが特定団体の圧力を背景にした作品なんか絶対はやらないと思う。そういう意味では最近の日本のテレビは何だか気色悪い。たけし・タモリ・みの・さんま・細木・所など全部オーラの泉みたく特定の人間に極端に依存する構造になっている。彼らは金持ちだろうけど正直そんなに偉い人間とは思えない。今度大阪府知事に橋本弁護士がなるかも知れないが何か完全にバカテレビに日本が乗っ取られてしまった感じがしますな。

Posted by: 団塊小僧 | 2007.12.28 at 01:54 PM

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