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品格ブームの本質 ~品格本はなぜバカ売れするのか~

Photo 正月の日経新聞に「会社の品格」という本の全面広告が掲載されていた。広告には、この本が発売以来、7刷され、ベストセラーになっているというコピーが躍っていたが、「国家の品格」「女性の品格」に続いて、3匹目のドジョウを狙うというスケベ心がミエミエで、品のないこと甚だしい。いつから、日本では、こうまで「品格」の大安売りをするようになってしまったのか。

「国家の品格」にしろ「女性の品格」にしろ、いわゆる品格本のどれにも共通しているのは、パラパラと15分も立ち読みすれば、書いてあることが理解できてしまうほど、内容空疎であることだ。書かれていることは、ある種のノスタルジーに満ちた伝統的な世界観の表明であり、新しいことは何も書かれていない。要するに、買って読むまでの本ではないのだが、「国家の品格」にしろ「女性の品格」にしろ、200万部をこえる大ベストセラーになっている。「国家の品格」について、以前、このブログで取り上げた時にも、この本の内容についてとやかく言うよりも、こうした本が200万部売れる世相の方に驚きを感じるという趣旨のことを書いた。

品格本がバカ売れする世相とは?

「品格」とは一体何を意味していて、何故、ここまで世間の人々の関心を引きつける言葉になっているのか。
品格ということに関連して、昨年、マスコミを大きく騒がせたのが、朝青龍の「横綱の品格」問題である。朝青龍の土俵上の所作や後輩に対する指導面で粗暴な態度が目立ち、横綱としての品格に欠けると横綱審議委員会で問題になったのだ。さらに、体調不良を理由に巡業を休んで帰郷したモンゴルで、子供たちと草サッカーに興じる姿がメディアにすっぱ抜かれるに及んで、日本のメディアは、朝青龍に対するバッシングの嵐、一色になった。なかでも批判の急先鋒に立っていたのが、横綱審議委員のひとりでもある内舘牧子という人物だ。
内舘は、かねてから朝青龍の品格についてあれこれと苦言を呈していたが、詐病問題が発覚してからは、公然と「朝青龍は責任をとり、引退すべき」と発言してきた。
しかし、内舘の言う「品格」なるものをトレースして中味を検証してみると、とても文筆を生業としている人間とは思えないような支離滅裂な内容である。

横綱の品格を巡る支離滅裂な議論

内舘の横綱の品格を巡る迷言には色々あるが、例えば、懸賞金をもらう際に、左利きの朝青龍が左手で手刀を切って受け取った行為をとらえ、「右手で手刀を切るのが大相撲の伝統」といちゃもんをつけた。ところが、相撲の取り組みに懸賞金を出すこと自体が、戦後になって定着したことであり、たかだか半世紀しか経ていない。従って、懸賞金を受け取る際に右手で所作を行うということは、大相撲古来の伝統とは何の関係もないのであり、内舘の言っていることは、姑の小言、嫁いびりのようなもので、言いがかりに近い。
また、2006年の九州場所、8日目の取り組みで、朝青龍が「けたぐり」で、稀勢の里(東小結)を破ったのだが、この技が「横綱らしくない」と批判を浴びた。内館牧子も「けたぐりという言葉からして下品。あの品格のなさは何なんだと思う」と激怒したという。内舘のいうように「けたぐり」自体が、そもそも「下品」というなら、さっさと禁じ手にすべきではないのか。正式な決まり手としてルール化しておきながら、「横綱の品格」という意味不明な言葉に照らして力士を非難するのは、ダブルスタンダードに他ならない。「けたぐり」という技の品格を云々する以前に、ルール以外の基準を恣意的に持ち出すアンフェア(不公正)な姿勢の方こそ批判されるべきであろう。

今回のエントリー記事は、内舘牧子や相撲協会を批判することが目的ではないので、これ以上、言及しないが、ここで紹介した朝青龍の品格問題を見れば、「品格」という言葉が、どのように使われているか明らかだろう。
すなわち、「品格」とは、もともと定義することが不可能な内容空疎な言葉であり、しばしば恣意的に使われる。そして、恣意的に使われる事を通じて、品格あり(上品)、品格なし(下品)を線引きし、差別する言葉として機能している。何が品格であり、あるいは逆に下品なのか、その区分けは判然とせず、ルール化されていないので、「品格がない」といわれた者にとっては異議申し立てをする手だてもない。朝青龍のように左手で懸賞金を取ることは品格がないといわれて、右手に直してみても、次には別の恣意的な基準が押しつけられ、“品格”は逃げ水のように永遠に目の前から遠ざかっていく。朝青龍の詐病問題などについていえば、事の発端となった非は、確かに朝青龍にあったといえるが、横綱の品格の名においてなされたバッシングは度をこしており、明らかに外国人差別だったといえる。もし、内舘や横綱審議委員会やメディアの関係者が、朝青龍に対する、品格あるいは人格非難が、外国人差別ではないというなら、「品格」とは何なのか、何を達成すれば「品格」を獲得できるのかについて、どんな文化的な背景をもった人間に対しても理解できる方法で説明する義務がある(そんなことはできないし、する気もないだろうが・・・)。

品格という言葉は一種の差別用語

有り体にいえば、品格という言葉は、一種の差別用語であり、そもそも品の良い言葉ではないと考えるべきだ。そして、こうした言葉が蔓延すること自体が、この国が言い知れぬ閉塞感に覆われていることの現れに他ならない。品格という言葉を支持し、「国家の品格」や「女性の品格」に書かれているノスタルジアに耽っている人々は、そこに書かれている伝統的な世界観が、これからも守られることを強く望みながら、同時に、それが不可能であることに気づき始めている。
振り返れば、日本人は、戦後の高度経済成長時代を、品格のない「エコノミックアニマル」と海外からは揶揄されながらも、なりふり構わず働き、その結果、「人並み」と呼べる生活を手にいれることができた。バブル経済が崩壊する90年代までは、国民の大半が、自分は「人並み」(中流)であると表現する、世界史上でも希有な“超安定・平等社会”をつくりあげた。しかし、ふと足下を見れば、堅固に見えた、その安定・平等社会には、黒々とした亀裂が走っている。

Photo_2 Gooリサーチが、一昨年実施した「日本人の品格・道徳観」に関する調査によれば、日本人が元々持っていて、失われつつある徳目は「謙虚さ」「礼儀正しさ」であり、逆に日本人が取り入れるべきでないものは「個人主義」「競争社会」であると考えられている。
この調査結果にも示されているように、「品格」とは、この国から失われつつある「平等主義=アンチ競争主義」の密かな表明なのであり、そこには、自分たちを「人並み」「中流」と表現した人々の倫理、道徳意識が色濃く投影されている。
そして「品格」という言葉に、ノスタルジアがつきまとうとすれば、それは、高度経済成長がもたらした安定・平等社会の終焉に立ち会い、私たちが、その後ろ姿を見送っているからに他ならない。それは、また同時に、安定・平等社会との決別という、苛酷な現実からしばし目をそらすための、最期の「ファンタジー」なのかも知れない。

苛酷な現実を覆い隠す言葉としての「品格」

相撲のことでいえば、「横綱の品格」とは、誰もその実体を言い当てたり、示したりできない蜃気楼のようなものだ。そもそも大相撲という国技自体の存続が危ぶまれる状況に陥っているのであり、日本人の子弟からは、新弟子もまともに採れないので、東欧やモンゴル等、世界中の貧しい国から、成功に飢えた青年たちを掻き集めなくてはならないのが現実だ。そして、そうした青年の中から誕生した、飛び切りの成功者が朝青龍なのだ。相撲のグローバル化といえば、聞こえはいいが、学習塾の鞄を背負って、ゲーム機に熱中する小利口で「品のいい」子供ばかりになった日本からは、苛酷な修練に耐えるハングリー精神を持った子供が消え失せてしまった。そして、今や国技たる大相撲を支えているのは、なりふり構わず生き延びることに必死な「品のない」外国人だということを、誰もが承知している。その現実を覆い隠すために「横綱の品格」なる言葉は生み出されたのである。

転じて、日本の現実に目を向ければ、少子高齢化とグローバル化に伴って押し寄せる外国人、いくら働いても正社員にもなれないワーキングプアの増大、なりふり構わず、必死にならなければ生きていけず、「品格」という言葉とは無縁に生きる人々が、身のまわりに増えている。そうした人々が抱えている苦境と、自分たちが得た「安定・平等社会」とは別物だということを確認したくて、この国の人々は「品格」という言葉にどうしようもなく惹かれるのであり、品格ブームとは、戦後の日本人が築き上げてきた「安定・平等社会」が消え去っていく過程で立ち現れる最期の輝きのようなものだ。

ここまで、書いて、29年前に「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と書いた詩人、中桐雅夫の言葉を思い出した。

老い先が短くなると気も短くなる
このごろはすぐ腹が立つようになってきた
腕時計のバンドもゆるくなってしまった
おれの心がやせた証拠かもしれぬ

酒がやたらにあまくなった
学問にも商売にも品がなくなってきた
昔は資本家が労働者の首をしめたが
今はめいめいが自分の首をしめている

おのれだけが正しいと思っている若者が多い
学生に色目をつかう芸者のような教授が多い
美しいイメジを作っているだけの詩人でも
二流の批評家がせっせとほめてくれる

戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は
おれは絶対風雅の道をゆかぬ

           「やせた心」(中桐雅夫)

透徹した詩人の目は、この詩が書かれた29年前に、この国の閉塞した未来を正確に見切っていた。日本人の品格を賛美し、我彼の違いを言い立てることは、この詩人の言葉をかりれば「めいめいが自分の首をしめている」姿に重なる。品格をいいながら、われわれの心は救いようもなく、やせているのではないか。

「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と書いた詩人の姿にこそ、人間としての本物の品格を見るのは、私だけだろうか。

(カトラー)

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Comments

品格って、サッカーでいう「レッドカード」や「イエローカード」だと思います。一方的に「カード」を突き立てる「快感」を味わいたいのではないでしょうか。日本人の中に、「誰から言われてやる」ことの不快感が、おりの様に、たまりにたまったのでしょう。アメリカから、先生から、親から、上司から、メディアから、毎日毎日何かを言われて行動することの、復讐行為ではないですか。「それって品がねえな~」と、一撃で「レッドカード」を抜き放って、関係を遮断したいのだと思われます。
でもその復讐行為って、結局ふがいない自分自身への「レッドカード」に帰着しますけどね。

Posted by: あたり前 | 2008.01.06 at 09:19 PM

「品格」は、「伝統」同様に、実態のない架空の捏造概念です。

ですから、「品格」なんて言い始めたら、もう何も残っていないことを自ら暴露しているようなものでしょう。

あたり前さんがおっしゃるように、「品格がない」ということは、他者との対話の拒絶です。それは、後ろ向きな、自己中心主義の極み。
そんな自己中心主義を、日本の美しさ・上品さとすり替えているような今の日本は、もう切り札といっているのと同じことです。

少子化、不況、格差、就職難、家族の崩壊・・・・。「品格」という言葉が好きな人は、日本の没落に焦っているのだと思いますが、くだらない見栄にこだわらず、もっとオープンに開いていったほうが、得策だとおもいます。

Posted by: うぐうぐ | 2008.01.06 at 11:11 PM

朝青龍バッシングが外国人差別なら曙や武蔵丸や白鵬も叩かれてないとおかしいでしょう。
右手で手刀を切るのは「右手は清浄、左手は不浄」という信仰からくるもので、「不浄な」女性(個人的には失礼極まりない話だと思いますが)を頑なに土俵に上げない角界ですからそれを指導するのは当然のこと。
巡業をサボってサッカーしてたなんてのは一般社会なら懲戒免職モノじゃないかと思いますが。

お話全体としては賛成ですが、引き合いに出した物の筋が悪すぎて説得力が減ってます。

Posted by: シャイロック | 2008.01.07 at 05:53 AM

別に朝青龍は人を殺したわけじゃありませんし。
「人殺しの品格」の話はどうなったんですか?
相撲協会とその関係者は品格以前に人倫を問うべきではないでしょうか。

Posted by: くろろ | 2008.01.07 at 04:06 PM

 社会的存在である人類には時代を超えて民族を超えて、そして宗教をも超えた共有する真理が存在する。その真理は美意識と言い換えてもよいだろうし、良心といってもよい。映画を鑑賞していて、言語・文化の別なく同じ場面で泣き、笑うことを想えば解り易かろう。これらを直接の基盤とする品格と独自の文明・文化伝統をろ過装置として現れるもの、それと似て非なる全く固有の価値観から出現する儀式的品格もある。異文化を理解する基本的な視点のひとつである。品格と言ってもいろいろだ。
 
あなたは、品格本に新しいことは何も書かれていないと主張しているが品格といい美意識といい、良心も、それらは知識ではない。生活の態度であり姿勢である。いいふるされた単純なことほど実行に移すことは難しい。だから繰り返し語られる。
 シャイロックさんが看破しているように筋の悪い外国人差別を持ち出すことで「品格」そのものを全否定するかのような論説に説得力のあろうはずがない。横綱審議委員会などにこだわって品格の意味するところを狭めて、「品格とはなんぞや」との思索をはしょってしまってあなたはどこへ行こうとしているのか。
 「偏狭なナショナリズム」とやらへの突拍子もない飛躍、ジャンプ力を溜めるための準備運動に過ぎないのではないのか。それにしても悪い癖である。

Posted by: かかし | 2008.01.07 at 04:12 PM

皆様、あけましておめでとうございます。
私は残念ながら、品格とは縁のない人間ですが、このごろの品格ブームの薄気味悪さに、今回のようなエントリー記事をあげてみたわけです。
記事にも書きましたが、大ベストセラーとなった品格本に書かれている内容を批判したり(論評に値しない)、品格というもの自体を否定したつもりはありません。世の中には、本当に品格のある方がいるもので、そうした方と接する機会があると、我が身の下品さに絶望し、どこかに身を隠してしまいたくなります。
品格という言葉は、あたり前さんが、指摘されているように、誰によって、どのような意図を持って発せられているかということが問題です。
数百万部の品格本が売れている現実は、出版業界の人間にとっては、ありがたいことかも知れませんが、これは誰が見ても異常な現象でしょう。うぐうぐさんが、指摘されているように、「品格」なんて連呼し始めたことが、実は終わりの始まりなんですね。
「品格」と連呼するほどに、心がやせていくように感じます。本当に品のある人は、「品格」なんて言い立てたりしないで、静かにしているものですね。
その意味では、「横綱の品格」などということを声高に議論すること自体虚しいことだと思います。「横綱の品格」を偉そうに云々する人たちに、はたして品格はあるのか?くろろさんが、いみじくも指摘されているようにリンチ殺人を起こしてしまうような世界に相撲界が成り下がってしまっているのなら、品格以前の問題で、国技の看板も下ろすべきでしょう。シャイロックさんが言われるように、朝青龍に品格があるなどとは思っておりませんが、あのパグ顔をしてキャンキャン吠える内舘のおばちゃんも、私と同様に品格とは無縁な人間と思われます。
かかしさん、お久しぶりです。今年も何卒よろしく。まあ、お互い無理だとおもいますが、せいぜい品格高くいきましょう。

Posted by: katoler | 2008.01.08 at 12:52 AM

別に過酷な現実でも品のあるひといる気がしますが…。戦前の女性のように。これも偏見ですが。

Posted by: ななし | 2008.01.08 at 02:28 AM

ここでカトラーさんが問題にしている「品格」というお題目の実体は、実力の無い人たち、ひいては実力が無くなってきた日本のいいわけでしょう。

とりあえずは愚見の披露まで。

Posted by: Yute | 2008.01.08 at 01:03 PM

 世の中を斜(はす)に眺めるのも結構だが、斜にしか眺められなくなることの終わりの始まりを考えてみるべきだろう。
 箸が転んだ音にも「国粋主義」の足音を聞いてしまう自身の偏りが、人々の素直な心情を傷つけてはいまいかと考える謙虚さを持てないものか。
 わが身の下品さに絶望してみせる暇があるのなら。

Posted by: かかし | 2008.01.09 at 12:19 AM

ななしさん、Yuteさん、コメントありがとうございます。
苛酷な現実とは関係なく、品格をもっている方がいるというのは、その通りです。そういう方は、その現実をきちんと受け容れ、なおかつブレずに前向きに対応しようとしているから、品があるんですね。
品格と声高に叫んで、目の前の現実から目をそらす人々とは根本的に異なります。内舘のおばちゃんが、品が無いのは、朝青龍に対してはいちゃもんをつけますが、リンチ殺人が起きるような相撲界の現実や体質については、何の発言もしていないからです。仮病の朝青龍より、人殺しを糾弾する方が先決と指摘されている、くろろさんの言うとおりです。Yuteさんの指摘の通り、彼女も本当の現実から目をそらしているひ弱なご都合主義者だから、品格という言葉を持ち出すのでしょう。
それと、品格本を買っている品格好きな人々は、国粋主義とは、何の関係もありません。自分を中流と見なしていた人々が、中流から品格に転向したから、これだけ品格本が売れているんだというのが、今回のエントリー記事の趣旨です。かかしさんとやら、書いてあることをきちんと読んでくださいね。私も自分の書いたことを、あらためて解説するなんていうかったるいことをいつもやっているほど、暇ではないので。私の言っていることをあえて曲解しているのなら、そういうのは下品を通り越して、悪質といいいますね。

Posted by: katoler | 2008.01.09 at 01:46 AM

 追加です。
 不正義に対して堂々と「ノー」と言おうと思ったら、真に人間らしく生きようと思ったら、「上品」ではいられないんじゃないでしょうか。
 相撲協会に巣食う「人殺し」体質を暴き出したのは『週刊現代』という「半ポルノ雑誌」です。しかもその際、親御さんの承諾を得て、死体の絵を掲載するというとびっきり「下品」な手段を用いました。その泥まみれの刃が、上品なマスメディアが決して触れることのなかった相撲協会の闇…ひいては、体育会系社会自体が根本的に内在している欠陥を白日の下に引きずり出したのです。
 そもそも、公民権運動やベトナム反戦運動でも、反植民地闘争でも、不正義に対し「ノー」といった人で「上品」だった者は稀です。
 というか「品格」というもの自体が、現状の不正義を正当化し、その内実の空疎さを取り繕うような性質を、内在的に持っているようにすら思えるのです。

 坂口安吾の随筆には、「枯淡の風格」とか「風流」とかいう、退嬰的な日本的美意識の欺瞞を積極的に告発したものがよくありますが、戦後の一時期が過ぎると急速に忘れ去られました。恐るべし品格、恐るべし日本人ってところでしょうか。

Posted by: くろろ | 2008.01.09 at 11:53 PM

「品格」とは権威付けですよね。立ち居振る舞いが美しくあるべきというなら日本は国家として怪しからんとなるんでしょう。ソフト・ファシズム。
急速に失われているというような縋り付きたい気持ちの顕れ。他人に厳しく自分に甘く。

Posted by: katute | 2008.01.10 at 10:39 AM

くろろさん、Katsuteさんに賛成。

品格は、英語や仏語では「dignity/dignite」つまり、「人間のしての尊厳」として訳されます。

「品」に上下をつけている場合ではない気がします。
なんか、品格本は、次元を間違えている感じ。

Posted by: うぐうぐ | 2008.01.10 at 06:23 PM

 あなたが自分の書いたものを改めて解説するような人物でないことは承知している。ならば何故解説を繰り返すのか。最も痛いところを突かれたからであろう。それにしてもこのコメント欄にはブログ管理人に同調する不思議ちゃんがよく揃う。それはそれでおもしろいのだが、おもしろがってばかりはいられないようだ。品格、品格と大騒ぎしているのは何を隠そう横綱審議委員会とワイドショー、スポーツ紙の一面、女性の裸が売りの週刊誌、それに類する媒体だけである。それとあなた達。そのワイドショーとスポーツ新聞、週刊誌などの熱心な利用者が品格本購入者(中流から品格への転向者???)のコアだと本気でお考えなのか。横綱に外国人を頂く日本人力士のふがいなさ・実力の無さから逃避するために品格を振り回して外国人差別を仕掛ける日本人相撲ファン、そやつらこそが薄気味悪い品格本購入者数百万の正体だとでもいうのか。
 500%、日本で革命が成就する見込みのなくなった29年前、革命を夢見た騒乱の時代へのノスタルジアとデモひとつ起きない安定した現状を呪った愚痴をうたった、風雅に未練たっぷりの詩人に品格を見るのなら 日本人の品格を賛美するノスタルジアに日本の終わりの始まりを妄想することもなかろう。

 
 

Posted by: かかし | 2008.01.11 at 12:54 AM

かかしさん、前にも申し上げましたが、ここは私のブログであることをお忘れ無く、最低限の礼儀と「品格」を示してください。コメント欄に意見を書き込んでくる方々を揶揄するような発言は許しません。今後、この種の発言をされる場合は即刻、削除いたします。

Posted by: katoler | 2008.01.11 at 02:39 AM

 今回はお見逃し下されるとのご配慮、痛み入るべきや。恐れ入れと迫られても「恐れ入らん」と申し上げる他はない。「さっさと削除せよ。」と言いたい。
 反論を続ける私からすれば「不思議な感性」としか言いようのない「日本国の終わりの始まり論者」が不思議な存在であることに変更を加える余地など全くありはしない。それがご不満ならば品格を振り回す前に、真正面からの反論をしてみたらどうか。言いっぱなし、垂れ流しで品の良い子供のテレビゲームよろしくリセットすれば済むようなことではなかろう。お忙しい身の上ならば正々堂々と無視されよ。

Posted by: かかし | 2008.01.11 at 08:43 PM

品格ブームの真相はわかりませんが、
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』など読むと、
130年前の日本の農村がいかにも美しく、
また人々も高潔で堂々としていたか、よくわかります。
今の日本は過疎化と高齢化が進み、衰退と荒廃が進んでいます。
こうした現状を「何とかしないといけないなあ」心根だけでも修正しようとしている、
そういった部分もあるのではないかと思います。
かつての先祖の残滓のようなものがまだ今の日本人の深層にも残っていると思うのです。

Posted by: 真相と深層 | 2008.01.13 at 05:59 PM

 そう、品格ブームの真相は解らない。何という謙虚さか。成熟した日本社会がもう一段成熟するための模索、変革期を乗り切るためのサインと捉えることもできるのだ。終わりの始まりとほくそ笑む下品さを全否定するつもりはないが、下品を通り越した冷血に疑いをさし挟む余地もない。革命を退けた日本人民に 何らかの鉄槌が下されんことを望まずにはいられない倒錯、その心の闇こそを日本の良心は まず最初に駆逐しなければならないのである。

Posted by: かかし | 2008.01.14 at 12:13 AM

かかしさん、「日本の良心」ってなんですか? 

Posted by: きりん | 2008.01.15 at 09:20 AM

私は37歳ですが、海外に行くと自国のことを何も知らなくて今さらながら愕然とします。
国家の品格というより、伝統文化など幼少期から強制的でも学習する必要ってあるような気がします。
例えば私の娘(小学校)の音楽の教科書には、J-POPSやファイナルファンタジー(ゲームの曲)が入ってます。
私の子供の時にもビートルズとか井上陽水とかありましたが、これらは義務教育時には不要でしょう。
むしろ謡などの日本の伝統音楽などを教わっていた方が、大人になってから得をする気がします。
わたしの祖父は職人でしたが、仕事をしながら謡いを口ずさむ様が本当に粋でカッコが良く、学歴は無くても
私より古典の教養もありました。
日本の古いものを全部消してしまうのはもったいない気がするのです。

Posted by: 謡を口ずさみながら | 2008.01.15 at 10:55 AM

新しいものが受け入れられない国は滅びますよ。
日本の最大の長所、ここまで発展してきた理由は、古代には半島の、平安以降は大陸の、明治以降は欧州の、戦後はアメリカの、進んだ国の進んだ文物を好き放題に都合よく取り入れまくってきたから。
それでいて、型落ちして「伝統芸能」に成ってしまったもの(今の伝統芸能だってできた当時は爺から白い目で見られた最先端だったんですよ!)はどっかの誰かがちゃんと受け継いで、(映画音楽とかで)必要になればちゃんと引っ張り出してこれたりするわけです。
新しい文化を積極的な受け入れつつ、古びたものも少数人がフリーズドライしておく、これが日本の「良き伝統」というもの。そんなに古典文化がが大事なら、日本の伝統に反する反動的妄想を無責任に語るより、「伝統芸能を守る少数人」を具体的に支援することを考えたらどうですか?

Posted by: くろろ | 2008.01.15 at 11:24 AM

私は今の64歳の親父が嫌いでね。80歳で死んだ祖父の方がずっと好きだった。親父は古典を何も知らず西洋かぶれ反体制気取りで酒に酔うとかまやつひろしや拓郎を歌い出す典型的全共闘団塊ジジイだ。今のままだと私も含め今の中高年の末路はもっと悲惨というか次世代から疎まれる気がする。
娘の音楽の教科書もきっと親父達の世代が作っているのだろうが、これからは自国の古典くらい他の普通の国の常識程度には勉強して知っている大人の方が子供から尊敬されるし、また今はそういう行動をとる方が反動的で感覚が新しいのではないか?アニメやJPOPいいよ等と娘と話を合わせている親の方が多いのだから。

Posted by: 謡を口ずさみながら | 2008.01.15 at 01:43 PM

謡を口ずさみながらさんへ。
私も、個人的には、伝統芸能など、かっこいいと思っています。
しかし、「伝統」とは何かと考えると、実に怪しい言葉だと思うのです。例えば、「伝統工芸」という言葉がありますが、この言葉、明治政府が西洋との商業取引のマーケティング用語だったんです。いわば、確信犯だったんですね。「日本美術の伝統」なんて言えば、美術史をやったことのある方ならば、つい苦笑してしまうはずです。

過去の世襲・文化財産は大切ですし、リスペクトすべきだとおもいます。ただし、社会の価値が変わる中で、「伝統」の意味も変化しています。第一、「謡」だって室町と、安土桃山と、江戸時代では全然同じ受け止められ方をしていなかったのではないでしょうか。

国や地方での文化の多様さも大事だとおもいますが、それを「伝統」という言葉で保守すると、政治力が働いてしまうような気がします。というのは、「伝統」は、「多様性」を常に認めてきたとは言えないからです。
たとえば、相撲界は、「伝統」の名のもとに「異種」を排除したがる傾向があるとおもうのです。

それに、全共闘団塊ジジイのおとうさま、素敵じゃないですか! 今の時代が彼をかっこわるく見せているのかもしれませんが、外国人たちは、「伝統文化」についてより、真摯に闘っていたお父さまの逸話などを聞いてみたいとおもっていると思いますよ。

Posted by: junq | 2008.01.15 at 05:32 PM

品格:

確固とした定義はなく、「品格のない者」を排除し、排除されざる者たちが「あいつってさあ」と共感しあうための理由付けのひとつ。

・主導者、傍観者(消極的加害者)、ターゲットがある
・風向きが変われば誰でもターゲットになりうる
・ターゲットになった場合は一挙手一投足が批判の理由になる

といった構造を持つ。同様の構造に「イジメ」「KY」「バッシング」などがある。

(民明書房「最新用語の基礎知識」より抜粋)

Posted by: 通りすがり | 2008.01.15 at 06:14 PM

日本の良心。 難しく考えることはない。人類の良心と同義である。自身の意地や面目玉、プライドから人様の不幸や困難を喜ぶ様。その下劣さに品の無さを感じる感性だと思えば解りやすいのではないだろうか。こんなこと私には子供の頃から耳タコである。あなたにとっては初耳なのか、きりんさん。

Posted by: かかし | 2008.01.15 at 08:19 PM

>日本の良心。 難しく考えることはない。人類の良心と同義である

じゃあ、日本の良心じゃないじゃないですか。

Posted by: きりん | 2008.01.16 at 08:54 AM

「伝統を守る」といった時に、いったい何を本当に守っているのかが、問題なのだと思います。伝統とは、何かモノのような実体として存在するものではなく、人々がリレーしていくものである限り、人々と共になければ、存在理由を喪っていきます。
私も、謡いを習っていたことがあり、今でも風呂に入った時など、気が向くと湯船でうなったりするのですが、能楽は残念ながら、現代ではすっかり化石のような存在になってしまいました。金沢や岐阜など一部の地方都市では、生活文化として、まだ人々の中に根付いていますが、武家の式楽としての道を選んだために、能は、とりすました感じの芸能となり、人々の生活文化から遊離してしまいました。このごろは結婚式などで「高砂」を謡うことも、ほとんど見なくなりましたね。
結局、能の世界には、落語の世界の立川談志、歌舞伎の世界の市川猿之助、将棋の世界の羽生善治のような、伝統の革新者が現れていないことが一番の問題です。伝統とは、伝統を否定することによってしかリレーされていかないという構造があることを忘れてはいけないと思います。
能の世界で、革新者が現れないのは、何故でしょう。それは、近世以降、武家の保護を受けたことによって、能が人々と共にあることをやめ、今風にいうなら「市場原理」を失ったからだと思います。武家は、能を何故、人々から切り離し、武家の芸能としたのでしょうか。それは、自分たちの権威を高めるために、武家の「品格」や「格式」を示す手段にしたからです。
芸能や工芸の世界で実際に伝統を受け継いでいる人々に対しては、心から敬意をもち、私自身もそうした人々の理解者であると自認しているつもりですが、偉そうに「伝統だ!品格を守れ!」と言い立てる連中を見ると反吐が出そうです。結局、こうした輩は「伝統」を言いながら、実は別の意図をもっているだけなのであり、本当は、彼らこそ伝統文化を窒息させる破壊者なのです。

Posted by: katoler | 2008.01.16 at 08:14 PM

うーん。そんなに難しいことではないのですが。出張先の外国の取引先の奥さんから着物の着付けについて質問を受けた時、私も妻も着物なんか着たこと無い、と言ったら驚かれたワケで。その時「学校で着物のこととか日本の事について習わないのですか?」と聞かれたワケです。そしてたまたま音楽の話になって「日本の琴は素晴らしい」とか言われても何も知らんわけですよ。そういえば娘の音楽の教科書にファイナルファンタジーがあったけど、と言ったら相手から変な顔をされたので私も違和感を感じたといった経験があったわけです。私は祖父の思い出があったので謡は知ってましたがある程度の日本の基礎知識は初等教育で必要と思うわけですよ。「我が師の恩」というセリフが右寄りだと理由で「蛍の光」が卒業式から消えてしまいましたが「奈良京都」といった修学旅行も無くなり今修学旅行は東京ディズニーランドですがこのままだと私ら以上に若い世代は困るんじゃないかと思った次第です。

Posted by: 謡を口ずさみながら | 2008.01.17 at 11:58 AM

 はじめまして。お邪魔させていただきました。
 品格本を買っていること自体、品格がない証拠なのではないのでしょうか。
 みんな、心の中ではわかっているのだと思います。
どこかで、伝統のようなものがなくなってしまう危機感を、謡を口ずさみながらさんのように感じているからこそ、品格というものに惹かれてしまうのではないでしょうか。そういう古きよき時代のよさを、本にしろなんにしろ再認識したいのではないでしょうか。
 
私も、他国の人に日本のよさを伝えることができませんでした。日本人自体が、日本のよさを1番理解できていないのでしょうね。悲しい気もしますが。

品格ブームのそもそもの始まりは、安部さんの美しき国へのような気もするのですが。

Posted by: さらら | 2008.01.21 at 01:43 AM

>謡を口ずさみながらさんへ
「我が師の恩」は「仰げば尊し」です。「蛍の光」ではありません。
私は教師ですが「我が師の恩」なんて子供に強制させて歌わせようものなら、
いつ成長した子供たちに仕返しされるかわかったものじゃありません。
それが悲しい現代の学校事情です。
「恩を返すぜ」と言ってかつての子供たちから襲われるのが関の山でしょう。
ご存知のように教師は叩かれ放題なので、こういうときも親やマスコミは子供の味方をします。
日本のことなんてどうでもいいんです。子供の機嫌をとって無事卒業させることが一番です。

Posted by: 小学校教師 | 2008.01.27 at 04:28 PM

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