My箸から考える環境ファシズムあるいは森の再生
私事になるが、10年前に家を建て替えた時には、当時としてはまだ珍しかった太陽光発電を屋根にのっけてみたり、ブームになりつつあるMy箸なども面白がって実践しているが、「地球環境のことを考えてるんですね」などと、他人からいわれたりすると「ちょっと待ってくれ!」と叫びたくなる。
私が、太陽光発電を採用したのは、助成金も含めてソロバンをはじくと、30年間でモトがとれることがわかったからであり、My箸を持ち歩いているのは、酒席の話のネタなどにちょうどいい小道具になるからという、ホントにくだらない、みみっちい動機からであって、決して「地球環境を守る」などという高尚で「品格」のある信条から実践しているわけではないのだ。
環境問題につきまとう胡散臭さ
地球環境問題というのは、かつての「反核運動」などと同様に、そのこと自体の正当性に文句がつけにくい分だけ、逆に胡散臭さがつきまとう。胡散臭さだけなら、まだ良いが、誰も文句がつけられないような「正しいこと」に奉り上げられてしまうと、気がついた時には、それは権力を持ち始める。My箸を面白がって持っているうちはよいが、皆がだんだんMy箸を持ち始め、持たない人が、少数派になると、ある時点で誰かが「きみは、なんでMy箸を持たないのか。それは地球環境のことを考えていない証拠だ!」と言い出す。こうなると、それはもう立派な「環境ファシズム」だ。
ファシズムというものを、独裁者が、強権的に人民を蹂躙し、服従を強制するという風に考えてはならない。そうした強権体制は、ファシズムではなく、北朝鮮のような社会主義独裁体制のことを指している。
近代のファシズムとは、その成立過程においては、特に、大衆の方から待望されて生まれてくるものだ。ヒトラーが、ファシズムをつくり出した張本人なのではなくて、人々のほうこそ、ヒトラーを渇望したのだ。この点が、ファシズムの恐ろしい点であり、独裁者を死刑台に送るだけでは、ファシズムの本質を断罪したことにはならないことを意味している。
さらにいえば、ファシズムは、現代の先進諸国の中でも、至るところに偏在しているといえるだろう。こんなことを言うと、顰蹙を買うかもしれないが、現在、日本中で蔓延している禁煙運動や健康至上主義、それに法的根拠を与えた健康増進法は、紛れもなくファシズムの典型だと考えている。
禁煙ファシズムが横行している?
脳解剖学者の養老孟司氏と劇作家の山崎正和氏が、昨年、文藝春秋で対談し、「変な国・日本の禁煙原理主義」という記事にまとめられ、その中で「煙草の害や副流煙の危険は証明されていない」「健康至上主義にはファシズムが見え隠れする」という批判を展開していたために物議を醸した。この対談での発言に日本禁煙学会が猛烈に反発し、養老氏に対して「害がないというならその根拠を示せ」と公開質問状を送る事態に発展した。また、山崎正和氏の「中学時代は人目を気にしながらタバコを吸っていた」という発言に対して、山崎氏が中教審の会長に立場にあるので極めて不適切と批判している。
私に言わせれば、中学時代に隠れてタバコを吸ったというような、邪気のない発言をとらえ、建前だけで非難する、こうしたリアクションこそ、紛れもないファシズムの典型だ。教条的な建前にのっとって人を糾弾することは、ナチスや文革時代の中国共産党が行った常套手段と寸分も違わない。
そして、禁煙問題に関する極めつけは、最近、東京で施行されたタクシーの全面禁煙だろう。
新幹線や飛行機と違って、タクシーは個室空間なので、他人に迷惑になるわけではない。
にも関わらず、全面禁煙になるのは、どういうことかと、業界の言い分を調べてみると、タクシーの乗務員も車内喫煙によって健康被害を受けているので、全面禁煙に踏み切ったのだという。
その言い分もわからないではないが、喫煙者の運転手も数多くいるはずだ。だとすれば、単に禁煙車と喫煙可能車を分ければよかったことではなかったか。
誤解なきようにいっておくが、私は日常的にはタバコは吸わない。もらいタバコを一ヶ月の間で数本吸うかどうかという超ライトスモーカーだ。
環境問題はライフスタイルやテクノロジーでは解けない
だいぶ横道にそれたが、話を環境問題に戻そう。地球環境問題が、まだ少数の人々の関心でしかなかった時代は、ロハスやスローフードというのもまあ良かったが、お坊ちゃんとはいえ、一国の首相が、「美しい星」などと言い出したら、もう潮時だ。ロハスなんて甘ったれた言葉は、もう二度と口にすまいと心に決めている。
有り体にいうと、地球温暖化の問題は、日本人の多くがイメージしているより、ずっと深刻だと考えた方がよい。日本が出している二酸化炭素の量というのは、地球全体の5%でしかない。世界全体のGDPの10%を占める国が、5%のCO2しか出していないのだから、そのこと自体は褒められるべきなのだが、所詮5%の中での話。中国やインドの経済成長が、今後も続くのだとしたら、ロハスだモッタイナイだと騒いで見ても、それこそ焼け石に水でどうにもならない公算が高い。
そう考えると、My箸も止めてしまおうかと思ったのだが、たまたま仙川でオークヴィレッジの稲本正さんを囲んだ集まりがあり、彼の話を聞いて思い止まった。稲本さんも温暖化の問題について、大変厳しい見方をしていたが、自身が長年、関わってきた森の問題を軸に示唆に富む問題を提起していた。ちなみに割り箸は、間伐材から製造するので、問題ないといわれていたが、現実には97%近くが海外、そのうちのほとんどが中国から輸入されていて、中国では、割り箸のために森の乱伐が発生しているのだという。単にスタイルだけの問題でなく、My箸は中国の森を守ることに繋がっているのだ。
日本の林業に復活のチャンス
オークヴィレッジの稲本さんによれば、日本において原生林と呼ばれる森は全体の2.3%を占めているにすぎない。それ以外の日本の森で41%が植林などによって人の手が入った人工森であり、森を守るというのは、木を切らないということではなく、むしろきちんと管理をして、産業的な循環の仕組みをつくるということに他ならない。高度成長過程の中で、大量の住宅を供給するために、海外材に頼ったことで、日本の林業は、産業循環の外にはじき飛ばされて衰退の一途を辿ったのだが、ようやく見直しの時期にきているのかもしれない。不幸中の幸いというべきか、世界的な資源価格の高騰によって、海外材の価格が高騰し、国内材の競争力が回復傾向にあるという。材木を運ぶ過程で発生する二酸化炭素をカウントする「ウッドマイレッジ」という考え方が生まれているが、このウッドマイレッジを経済的に換算する仕組みを作れば、木材の循環サイクルを回復させることも可能になるかもしれない。
やみくもに森を守れとヒステリックに叫んだり、燃料電池だハイブリッドカーだとテクノロジー至上主義に陥るのは、せいぜいが気休めか、マスターベーションにすぎない。地球環境問題とは、ライフスタイルやテクノロジーだけで解決できるほど、お気楽な問題ではないのだ。必要なことは、現在の産業構造そのものを変え、低炭素社会の仕組みをつくること。
森を想え。森を思い出すためにMy箸が良い小道具になるなら、それは大いに結構だ。
(カトラー)
【おまけ】 私が使っているMy箸がとても良いので、その店を紹介したい。
東武伊勢佐木線の曳舟駅から徒歩3分、向島にある「大黒屋」さんという江戸箸専門店だ。
手作りの箸がズラッと並んだ店内は、なかなか壮観で、ごご主人の竹田さんや、娘さんが、丁寧に江戸箸のことや素材の話を聞かせてくれる。
私は、黒檀でできた小ぶりの箸を持ち歩いているが、この箸は、適度な重みがあって八角に削り出されているので食べ物が掴みやすく、とても使いやすい。大黒屋さんの箸は、海外に行く時のお土産にもおすすめで、喜ばれること間違いなし。
住所: | 東京都墨田区東向島2-3-6 |
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電話: | 03-3611-0163 |
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コメント
『ロハス』という言葉、地に足をつけて、こつこつと生活してきた「当たり前」が妙に浮かれたものになってしまうようで、スッキリしません。
小学校の同窓会で、まだ喫煙をしている少数の人たちを、みんながギャアギャア批判してのけ者にしていたのもせつないことでした。ついこの間まで煙草を吸っていた人たちだったのに、まだ吸っている人を軽蔑するのはやり過ぎでは...。
何事も、一つの方向にありがたがってワーッと行くのは気味が悪いです...
(「大黒屋」の箸、HPで見ました。とても好きな箸がたくさんありそうです。重さや木の硬さ、先の細さなど、好みは人の手によっても違いますもんね。)
投稿: kadoorie-ave | 2008.02.28 08:41
ロハスという言葉、つい最近中国語でもできました。「楽話(ルゥフヮー)」。
その名のとおり、「楽しいお話(をご飯をたべながらする)」と、とっている年配者も多いみたい。
「ハッピーライフ」みたいに受け止めている若者も多いみたい。
言葉だけが先行して空回りしているって友人の上海の編集者もいっていた。
投稿: junq | 2008.02.28 10:22
ようやくにして、マーケティング言論だと再宣言してくれましたね。
ロハスたって日本じゃISOと同類の利権じゃないですか(ISOは、山奥で旋盤まわしてる工場の親父さんは、USO800だって笑ってましたよ、本部所在国からやってくる検定員を接待して人員数に応じた申請料を採られ、看板に一行入れなきゃ仕事が取れないって)。
そして環境論者がハズす「環境ファシズム」を取り上げるなんて素敵にも、ほどがありますw
70年代の用語で言う所の「他者へのまなざし」を向けるなら「自分がやって欲しくないことを他人にするな」。良かれと思ったお節介がややこしい人情劇となって、テレビ番組で見てる分には面白いですが、まぁ環境ビジネスでは、それでは許されないので、結果を求めるわけですね。
と、すれば美味いマーケティングを論じて欲しいです。
近所の箸屋さんへの誘導では、チョット。。。
投稿: katute | 2008.02.28 10:29
少数意見の言いにくい日本で環境ファシズムの風潮が生まれるとなんともやりにくいですね。全世界的に環境プロパガンダが吹き荒れ、環境ブームが再来する中で、日本はマクロ的に利益を得やすい立場にはある筈ですが、ミクロの世界でいろいろ居心地の悪さが出るのは嫌なものです。このお箸屋さん、魅力的なお店ですね。今度行ってみたいと思います。情報有り難うございました。
投稿: リオ | 2008.03.01 18:06
少数意見の言いにくい日本?これほど少数意見が言い放題の国がどこに存在するというのか?環境ファシズムの風潮?何がどのようにやりにくくなったというのか。日本のマクロ的利益?ミクロの世界でいろいろ居心地の悪さが出るのは嫌なものです?
何を言っているのだ?????、リオさん。My箸をもたないことで居心地の悪い思いをしたことなどただの一度としてないし、買い物袋を持参せずに買い物をしてスーパーやコンビニで袋叩きにあったことなど金輪際一度もない。あなたも同様であろう。それともそんな災難にあった日本人が存在するという事実をあなたは掴んでいるとでも? 再び、何を言っているのか?リオさん。口から出まかせを言ってはいけない。悪い夢でも見たのではないか。
投稿: かかし | 2008.03.01 22:53
kadorieさん、junqさんお久しぶりです。記事にも書きましたが、「健康」の名において、スモーカーを糾弾するような風潮は、いやなもんですね。私は、ほとんどタバコは吸いませんが、昭和天皇が亡くなられた平成元年に、世の中が自粛ムード一色になった時に、周りにタバコを吸うことにしたという「開煙宣言」をして以来、スモーカーということになっています。
それから、20年間、世の中の健康「押しつけ」志向は、ますます高まり、禁煙運動などは、ほとんどファシズム化しているというのが、私の基本認識です。ファシズムというのは、雰囲気や空気としてまず現れます。正しいことの名において、みみっちい事を否定するんですね、その意味で、ファシズムは至る所に偏在しており、そうしたことに対しては、Noいわないと、どんどん息苦しくなるような気がします。
katuteさん、環境問題の出口で、マーケティングがとても重要な意味を持つというのは、ご指摘の通りですね。ただし、狭義のマーケティング、ようするに小手先の工夫では、地球温暖化の問題などは、到底解決できない段階に入っているのだと思います。低炭素社会の構築には、ある種の革命が必要なのでしょう。
リオさんがいわれているように、ヨーロッパでも環境プロパガンダが吹き荒れていますね。ここのところの盛り上がりを見ていると、「?」という気持ちもあるのですが・・・
かかしさん、問題なのは、少数意見がいえるかどうかではなくて、むしろ多数意見の形成のされ方ですね。
かかしさんは、タバコを吸いますか?他人がタバコを吸うことに対してどう思われていますか。
投稿: katoler | 2008.03.02 10:52
二十歳になると同時に煙草を始めた。遵法精神を自慢いるわけではない。私にとってはそれが自然な成り行きであったというだけだ。今でも親交を続けている中学以来の親友は中2から私の前で喫煙していた。私は旨いとも思わぬ煙草を吸って周囲の大人達を刺激することに一片の価値も見いだせなかった。幸せな思春期だったのだろう。親友が抱える鬱積は理解していたが、それを分かち合うには幼すぎた。「お前も吸うか」と面倒くさそうに尋ねることはあったが、私が首を横にふればそれ以上勧めたことはない。彼が私のかけがえのない友であり続ける理由のひとつなのかもしれない。それぞれ別の大学に進学してしばらく疎遠になったが、お互い東京の会社に就職が決まって大山の安居酒屋で飲んだ。最初のうちこそ「高校を停学になって女癖の悪い親父に殴られてお前に会いに行った時、バカな奴だと泣いてくれたよな」などと殊勝なことを言っていたのだが「お前煙草をやるのか、いつからだ」ときた。お前のような不良と違って二十歳からさと答えると、普通二十歳にもなれば煙草が体に悪いと気付いて吸わないものだという。おれは二十歳でやめたよとケロリとしていいやがった。不良な俺が分別のある大人に成長し、優等生のお前が弱さまるだしの社会人として苦労してゆく、か、愉快愉快、今度は俺が相談に乗ってやる、のだそうだ。煙草をやめても代わりに酒癖が悪くなっては元も子もないだろうと聞こえるようにつぶやいてやったが、楽しそうに飲んでいて聞いているのかいないのか。楽しい酒に悪い酒はない、とか何とか言っていたので聞こえてはいたのだろう。私も楽しかった。親父の匂いと懐かしい思い出、私は歩き煙草をしないし、灰皿のないところで吸ったこともないヘビースモーカーだ。だから喫煙という人間の嗜好についても禁煙ファシズムとやらについても深刻に受け止めたことはない。それに、禁煙志向とファシズムとは何の関係もないということも知っている。大阪人が、反則キップを淡々と切っている婦人警官に「駐禁ファシズムだ、国家権力の犬、ナチスSS」と騒ぎ立てたとして、一体どこの誰が「日本にひたひたと近づくファシズムの足音」を聞くというのだろうか。コントにもならない。
カトラーさんに煙草を吸うかと問われて「吸う」と2文字で答えれば済むところを、人様のブログで誰にとっても関心の持ちようもない個人的な思い出を長々とコメントすることは恥ずかしい限りである。しかし、昭和天皇崩御に伴う日本の自粛ムードがあなたの喫煙のきっかけだとほのめかされた後のその質問に単純に「吸う」とは答えられなかった。そのことをご理解頂きたい。禁煙・環境が付いているとはいえファシズムをメインテーマに語っているコメントにサブリミナル効果よろしく昭和天皇を紛れ込ませるなど、小手先のマーケティング手法そのままではないかと思った次第である。
投稿: かかし | 2008.03.04 00:16
かかしさん、コメントありがとうございます。内容はともかく(失礼!)かかしさんの人となりがしのばれる、良い文章だと思いました。「人様のブログで誰にとっても関心の持ちようのない個人的な思い出」をなどと、自嘲される必要は全くありません。ブログとは、もともと「私語のさざめき」の世界であり、そのさざめきを分かる人は、分かるし、素通りする人は、振り返りもせず、過ぎ去っていくだけです。
私も、ブログというものをはじめて、3年近くになりますが、何のために、こんな駄文を連ねているのだろうと、時として自己嫌悪に近い感情に陥ることもあります。
でも、とにかく、玉を投げ続けていると、思いもかけない、打ち返しが飛んでくることがあります。それは「奇跡」といったら大げさになりますが、自分の意図をこえた何かが見える瞬間と、たまに遭遇できることが、止めずに続けている理由かもしれません。
かかしさんの今回の文章を「奇跡」とはいいませんが、センターオーバーのフライが飛んできたくらいの意外性がありました。嫌味じゃなくて、ご自分のブログをやられたらどうですか。良いブログになると思いますよ。
投稿: katoler | 2008.03.06 21:08
カトラーさんのコメントを一読した後、こんな内容を打ち込んでいた。
『浴衣勝負の温泉卓球でさえ上手いと云われれば嬉しいものである。ましてカトラーさんに良い文章だと褒められれば天にも上るとは言わないまでも悪い気はしない。しかし、私にとっては内容の方が大事なのである。文章が上手いに超したことはないだろうが、それは二の次三の次なのだ。人権抑圧、殺戮を欲しいままにしている中国共産党を批判する、その資格さえ失っているほどに、この日本がファシズムへの道をひた走っているのなら、私はこうしてコメントを記している場合ではないはずだ・・・』
やめた、デフォルメした同じ反論を繰り返しているだけだ。カトラーさんのコメントを読み返してみた。
「人となりがしのばれる、良い文章」
「かかしさんの今回の文章」
「良いブログになると思いますよ」
私なりに腑に落ちた。立っている土俵が違うのだ。私の印象を適切に表現する言葉が見つからないのだが、あなたはブログを文化として捉えているのではないか。 最初に結論(結末)有りき、それを上質な文章で構成してゆく一個の作品だ(決して悪い意味ではない)。政治家や、経営者・学者がそうであっては不都合極まりない演繹的手法が、文化ならば価値を持つということか。そうかもしれないと思い始めている。私にとってブログは狭義の情報でしかない。現場を這いずり廻る優秀なビジネスマンに欠かせない資質は、無数の事実の間から時折顔を覗かせる真実を、最短距離で鷲掴みにする能力だろうと思っている。帰納法がネクタイを絞めて歩いているようなものだ。反対意見のブログを「良いブログ」とは言えぬ、その余裕の無さは寂しいことなのかもしれない。「私語のさざめき」、は良かった。乱暴な腑に落ち方なのだろうが、挑発的な反論が無意味であることは確かなようだ。時折、異論をコメントすることになるだろうが、これからはスタンスを変えてあなたのエントリーを拝読させて頂こうと思う。
投稿: かかし | 2008.03.08 10:16
■京都市のコンビニ深夜規制、早くても来夏から-地球温暖化ファシズムの兆候か?!
こんにちは。私は地球温暖化二酸化炭素説は、虚偽だと思います。それに、地球温暖化がもたらすものは、地球の破滅ではなく豊穣だと思います。最近の京都市のコンビニ深夜規制、「錦の御旗」は、結局は「地球温暖化二酸化炭素説」だと思います。私は、多くの人たちが、この説に呪縛されていると思います。少し論議をして、都合が悪くなれば、「錦の御旗」を出す。そうすると、不思議な効果が現れ反対派の人の多くも、賛成派も思考が停止してしまうようです。以前にどなたかが、民主党とナチスを比較して物議をかもしましたが、確かにこの温暖化の事例でも過去のナチスと同じようなことになってしまうかもしれません。開戦前のナチスの「錦の御旗」は、「民族自決」でした。これによって、おびただしい数の人々が犠牲になったのは、皆さんご存知だと思います。私たちは、自らものを考えているようで、錦の御旗の前では思考力を失っているのかもしれません。ここには長くコメントできません。詳細は是非私のブログをご覧になってください。
投稿: yutakarlson | 2008.08.30 11:46