ダライ・ラマと毛沢東 ~その光と闇~
チベット暴動が起きてから、「ダライ・ラマ自伝
」をもう一度読み返してみた。
現在のチベット問題やダライ・ラマという稀有な精神を理解する上で、また、中国共産党政府の本質を知る上で大変得るところが多い本だ。
特に印象的なのは、ダライ・ラマと毛沢東が交錯する場面である。
中国共産党政府が、力づくでチベットを実質的に併合した4年後の1954年、北京で初めての全国人民代表大会(全人代)が開催され、当時19歳だったダライ・ラマも、全人代への参加を求められ、北京に赴き、毛沢東とも何度か会見する。
若きダライ・ラマは、毛沢東の指導者としての資質やその人間的な魅力から強い印象を受ける。チベットを蹂躙し、後には全面的に軍事力を展開して、ダライ・ラマに亡命を余儀なくさせた宿敵ともいえる存在だが、驚かされるのは、毛沢東に対する人格批判めいたことが、一切書かれていないことだ。
ダライ・ラマは、周恩来に対しては、狡猾な人物であったと言っているが、毛沢東との交流では、互いに心を通わせることができたと回想していて、その毛沢東が、チベットの人民を虐殺するような暴挙に出てきたことが、とても信じられなかったと正直に述べている。
法(ダルマ)の破壊者としての毛沢東
ダライ・ラマの一行が、北京を発ち、ラサに戻る前日、毛沢東は、ダライ・ラマを一人執務室に呼び込み、重要なメッセージを伝える。
「・・・『あなたの態度はとてもいい。だが、宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。なぜなら僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ』・・・日はとっぷり暮れ、毛がこういう致命的な言葉を吐いている間、わたしは前屈みになり、なかば顔を隠し、彼の言葉を書き写すふりをしていた」(山際素男訳「ダライ・ラマ自伝」より)
若きダライ・ラマは、毛沢東の言葉に、毛がダルマ(法)の破壊者であることを見て戦慄する。そして「(毛は)わたしという存在が芯の芯まで宗教的だということをどうして見抜けなかったのだろう?」と自問する。
毛が自分を前にして宗教を否定して見せたのは、宗教者でありながら、科学技術や物質的発展に対して強い関心を示したことが、毛を勘違いさせたからではないか推測しているが、そうではないだろう。
ダライ・ラマの精神には、「無垢」と呼んでもいいような伸びやかな明るさがあるのに対して毛沢東の心には何人も内実がつかめない暗い虚無が巣くっている。両者の精神のありようには、光と闇ほどの違いがある。
毛沢東が懼れた真に宗教的な人間
毛沢東は、ダライ・ラマという存在が、自分とは全く対極にある、真に宗教的な人間であることをはっきりと見抜いていた。だからこそ、この若き宗教家を懼れたのであり、最終的にはチベットという国と民さえもダライ・ラマとともに、この地上から消し去ることを渇望したのだ。
当時の毛沢東は、国民党との内線に勝利し、中国全土をまとめあげ、朝鮮戦争でも北朝鮮と共に米国を退け、権力者として絶頂の時期にあった。しかし、ダライ・ラマは、その毛の全能感を挫く何かを持っていたに違いない。
この二人の交錯から5年後、中国の軍隊が大挙して首都ラサを襲い、ダライ・ラマはインドに亡命した。その報を聞いた毛沢東は、「ダライ・ラマを逃したなら、戦いはこちらの負けだ」と言ったという。
ダライ・ラマの亡命から半世紀、現在の中国共産党政府は、未だに毛沢東の心に巣くった闇を引きずったままだ。
ダライ・ラマは、自伝の中で自分のことを「芯の芯まで宗教者」であると言っていたが、それに倣えば、毛沢東は、芯の芯までイデオロギストだった。理念(イデオロギー)の実現のためには手段を選ばず、どんな犠牲も厭わない「破壊者」であったからだ。毛沢東は、中国を統合することにこそ成功したが、国家建設の現実的な政策では、ことごとく失敗し、現実から乖離した独りよがりな理念ばかりが先行した。毛沢東が行き着いた先が文化大革命という人間改造運動に名を借りた「虐殺」であったことを思い起こせば、そのことは明白だ。
そして、現在の中国共産党政府は、毛沢東という存在を総括せぬまま、改革開放という経済重視路線にシフトした。それゆえ、毛沢東が中国の政治に持ち込んだ闇は、事あるごとにゾンビのように甦ってくる。チベット問題といい、毒入り餃子問題といい、自らの非を認めない中国共産党政府の頑な態度や傲慢さを、しばしば「中華思想」を引き合いにして、中国人固有のものとして説明しているのを目にするが、それは間違っている。中華思想とは、そもそも王化の概念であり、異質なものを受け容れる寛容の精神を特徴としていた。
中華思想の本質は寛容の精神
中国の歴代王朝は、異民族に対して中国内部の政治に干渉しないことを前提に「内外一体」を提唱して、「一視同仁」の寛容の精神をもって臨んでいた。唐、宋時代には、科挙に合格しさえすれば、イスラム教徒だろうが、異民族だろうが、漢民族と同じように官吏にも登用される道も開かれていた。弾圧を逃れて、中国まで流れ着いたキリスト教徒やユダヤ教徒にも信教の自由を与え、教会寺院の建立も認めた。
内田樹氏が、最近の著書「街場の中国論
」の中で、中華思想のこうした本質についてうまく解説している。内田氏によれば、中華思想とは、中国を世界の中心とする考え方だが、それは文化パワーによって、周辺を王化していくということを本質としており、「中心からの光が周縁を照らす」という構造のもとで成り立っている。だから周縁にいけばいくほど王化のパワーは弱まり、支配被支配関係も曖昧となる。近代における中国が植民地化によって受けた塗炭の苦しみは、この中華的世界観が、領土的野心をもった国家ナショナリズム=帝国主義によって蹂躙されていった過程として説明されている。
そして、毛沢東思想とは、欧米および日本による近代的な帝国主義的侵略に抗する過程から生まれてきたものであり、その帰結として「中華思想」が持っていた寛容さを否定し、イデオロギーの純化と領土的野心を特徴とするものに変貌した。
怒りと恐怖によって中国を束ねた毛沢東
毛沢東は、諸外国から蹂躙され続けたことへの怒りとその記憶、さらには、外敵や内敵(反革命分子)というものを常に措定し、敵に対して生まれる恐怖や怒りを巧妙に組織することで、中国という巨大な国を束ねていった。
そして、恐怖や怒りによって国を束ねるという点において、現在の中国共産党政府も本質的に変わるところがない。改革開放以降、中国は経済成長によって国の求心力を維持していたが、天安門、チベット問題などの政治的問題が勃発すると、必ず毛沢東がもたらした「暗い精神」が台頭してくる。中国政府が扇動している反日キャンペーンも、同じことだ。「抗日戦線」での勝利の成功体験が、中国共産党にとっての最大のアイデンティティであり、反日キャンペーンによって、その記憶をリフレインすることで、政治腐敗や経済格差に対する国民の不満の矛先をそらしてきた。
日本との間で外交問題にもなりつつある「毒入り餃子問題」も同じ文脈でとらえることができる。この問題は、明らかに中国国内で仕掛けられた食品テロだ。天洋食品での処遇などに不満をもった従業員、関係者が、その信用失墜を狙って農薬を混入させた可能性が高い。事件の動機は極めて個人的なものと推測できるが、その背景には、工場労働者に蔓延する苛酷な労働条件への不満など、社会全体の問題がある。食品テロであることがはっきりすれば、当局としてコントロール不可能な社会問題に対しても世界の目が注がれることになり、中国の食品製造業全体の更なる信用失墜に繋がる。中国当局としては、ここは日本の反発を買っても、自らの製造体制に非がないことを言い張って、水掛論に持ち込んだ方が得策と考えているのだ。
ダライ・ラマの対話路線を支援せよ
話を毛沢東とダライ・ラマのことにもう一度戻そう。
毛沢東は、若きダライ・ラマが見せた柔軟で開明な精神を評価しながらも、そこに自分の精神のありようとは対極の「光」を見て、大きな脅威を感じたはずだ。だからこそ、圧倒的な力をもって、チベットという国だけでなく、そこに脈々と受け継がれている文化、人々の精神をも根こそぎ絶やしてしまおう考えた。しかし、その意図は、ダライ・ラマの亡命によってかろうじて阻まれた。
インドに亡命政府を樹立し、ダライ・ラマを精神的指導者として仰ぐことで、チベット文化の命脈は、絶えることなく繋がり、むしろ全世界に広がりを見せ、国際世論の形をとって中国共産党政府を追いつめている。しかし、チベット本土では、長きにわたり、中国当局の苛酷な弾圧が続き、120万人にも及ぶ、チベット人が殺された。改革開放以降は、膨大な経済投資を行って、札束でチベット人民の心を買おうとしたが、ダライ・ラマに対する人々の思慕や、自由を希求する心は、強まりこそすれ、挫かれることがなかった。このことによって、チベット人民の高い精神性と中国政府の異民族統治政策の破綻が、全世界に示される結果となった。
他方、ダライ・ラマには、人の心の闇を光で照らすとはどういうことなのかが見えているのだろう。だからこそ、独立をあえて主張せず、真の意味での自治権を獲得するための対話を呼び掛け、北京オリンピックの開催にも賛意を示している。中国を中心とした大きな傘の中で、チベットが共存していく道をあえて求めているのだ。
中華思想への回帰を促す
中国政府は、ダライ・ラマの対話の呼び掛けに頑なに拒否の姿勢をとっているが、対話に応じ、チベットが真の意味での自治権を持つことを認める可能性もゼロではないと考えている。早急な民主化政策が災いして失脚した胡耀邦が総書記であった時代には、中国の官吏の85%をチベットから引き揚げると、ダライ・ラマに対して約束したこともあるように、中国共産党政府内でもチベットの自治権を拡大させるという考え方は選択肢として存在している。幅広い自治権を認めるということは、従来の同化政策を止めて、異質なものを受け容れる寛容さを持つことを意味する。それは、毛沢東の「暗い精神」ではなく、かつての栄光の時代の「中華思想」に戻ることに他ならない。
逆に、これまでのようにイデオロギーの純化運動を周期的に繰り返すという手法では、中国という名実ともに巨大化した国をもはや束ねてはいけないだろう。毛沢東の威光があった時代ならいざ知らず、文革のようなイデオロギー運動をおこして、革命精神を鼓舞するようなことは、豊かさを知った中国人民に対してはもう不可能だ。反日キャンペーンにしても、いい加減手の内が見えてきた。北京オリンピック以降は、中国の経済成長は、減速することが明らかであり、これまでのように成長によって全てを癒すという手法も通用しなくなるだろう。中国は、再び政治の季節に入ろうとしているのである。ダライ・ラマは正確にそうした情勢も読み切った上で対話、中道路線を打ち出してきている。
国際社会は、チベット問題について、中国政府に対してダライ・ラマとの対話を促すことが、最も正しい態度である。日本の頭の弱い右翼や中国嫌いの連中は、中国政府を罵ることしか能がないが、こうした反応は、「毒入り餃子問題」での対応を見ればわかるように、既に先方にとっては織り込みずみの反応である。反中国の声に反日感情を対峙させ、国内の結束に利用するというのが、毛沢東以来の常套手段だったことを忘れてはならない。
ダライ・ラマとの対話を促すことこそが、国際社会の声をひとつにすることに繋がり、中国の闇に光を照らすことになる。
(カトラー)
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コメント
現在の中国政府の悪あがきを見ていますと、逆に日本のこと見えてくる思いがしました。
「経済的豊かさの先には何があるのか」という問いは、中国だけの問題ではないことです。
50年代に皆が幸せだったアメリカ。60年代にすべてがバラ色だったフランス。80年代にバブル絶頂期だった日本。経済的な豊かさを経験し、それを越えた国々は、どの国も精神的に病んでいます。アメリカは軍事力をもって国の強さと権力を誇示しようと必死ですし、フランスは文化的魅力の切り売り、「文化政策」に見苦しいぐらいに必死ですし、日本は経済的格差が広がり、オタクなパラレルワールドの中に住む若者を産みだし、少子化が進んでいます。
中国共産党の中枢たちは、日本の政治家とは桁違いにエリートで国際的です。でも、やはり、経済的豊かさの先にある壁を乗り越える具体的なヴィジョンが見えないのだとおもいます。でも、それは日本も同じではないでしょうか。勝手な銀行をつくって400億円スッちゃう知事とか、鬱になっちゃう元首相とか、そんな人ばかりではないですか。
「中華」の文化的パワーから考えると、文革で壊されたので、残っているものとしたら「漢字」という文化ぐらいではないでしょうか。やっぱり、中国が中華に回帰すると、今度は台湾問題が浮上してくる。どちらに転んでも、中国は危ういです。
投稿: erercun | 2008.03.30 20:58
中華思想の寛容さの前提は「隷属」ではないのか。臣下の礼を尽くせば莫大な返礼を授けた上に先進文化の恩恵も享受させてやる。隷属しない他民族を侵略する際は先兵として使ってやる。札束で頬を叩くという中国共産党のチベット対策と大差ない。隷属を拒否した民族は人間とは見なさないという中華思想など究極の差別思想だろう。こんな思想でも中国共産党よりはまだましだ、という意味でもなさそうだ。
今そこにある「中国共産党の悪虐非道」に対して、「世界は圧力をかけよ」という主張ではないのか。四の五のと寄り道をした揚げ句がダライ・ラマと話し合った方が良いというメッセージ? そんなものが中国共産党への圧力になるのか。世界からのメッセージが無視された時の次の一手に触れもせず、そそくさと店じまいをして 「中国共産党の悪虐非道」を批判している人々に攻撃の矛先を向けてしまう。頭の弱い右翼とやらを批判するのも結構だが、頭の弱い左翼の沈黙と擁護をスルーしてしまってはフェアな態度とはいえまい。
あなたが、頭の弱い右翼と並び称して攻撃する「中国嫌いの罵り」とは何だ。まともな日本国民のほとんどが中国嫌いであることを承知の上で、これらの人々が発するまっとうな中国批判を、敢えて「中国嫌いの罵り」と卑しめているのか。日本人の中国批判は単なる中国嫌いで、日本人以外の中国批判は中国嫌いからの批判ではないとでも主張しているのか。
その上、日本の嫌中感情の高まりが中国共産党の反日キャンペーンに利用される、と日本人を牽制する。なぜそんな主張をするのか。本当にそう考えているわけではあるまい、カトラーさん。日本の嫌中感情が高まれば高まるほど、その世論を受けた日本政府が毅然とした態度を示せば示すほど中国共産党は追い詰められてゆく。そのことをあなたは知っているはずだ。中国共産党は現在、反日キャンペーンを主導するどころか必至に抑え込もうとしている。反日をスローガンに掲げる時だけ中国人はデモを許される。あなたの指摘通りこれまで共産党政府がそのように仕向けて来た。しかし、今は違うという事くらいあなたは認識しているであろう。「中国共産党の悪虐非道」に対して、日本国民が人間として見せる自然な嫌中感情の高まりと、それを背景とした日本政府の毅然とした態度を前にして 今更反日デモは許さないとは言えない。反日デモが民主化要求デモに転化してしまうことを共産党政府は心の底から恐れている。つまり日本の正当な中国批判が共産党政府の悪行を止める大きな圧力になるのだ。その圧力にどうしてカトラーさんは抵抗するのだ。「日本の反発なんて織り込みずみ」そんな余裕などかけらもない。それが中国の実情だ。連中は「ダライ・ラマと話し合うように」程度のメッセージなど全く恐れてはいない。
中華思想と亡き胡耀邦に希望を託し、毛沢東思想の闇は日本の責任だと、連中の言い訳を代弁してやりつつも中国共産党を辛うじて批判して見せていたあなたが、なぜ最後の最後に嘘をついてまで中国共産党の肩を持ち、日本人の正当な中国批判を罵るのか。
投稿: かかし | 2008.04.01 23:51
チベット問題が急に大人しくなってきましたね。日本のマスコミのことです。
靖国参拝や従軍慰安婦の時とはエライちがいです。
また毒いり餃子事件はどうなったのでしょうか?
入院した子供のニュースって誰か見たことありますか?
これも米国の狂牛病のときとエライ違いです。
日本は米国の植民地ですが実は中国の自治区でもあります。
胡錦涛の5月訪日を前に報道管制が敷かれているのでしょう。
日本の独立を願う一国民として、ダライラマにお願いがあります。
猊下におかれましては訪米前に日本に立ちより、
兼務でいいので日本国の総理を臨時で引き受ける、と宣言していただきたいのです。
福田も民主党の小沢もいりません。こんなのは宗主国の中国に返します。
かれらはどこか中国の田舎の村長か共産党幹部の靴磨きでもしていた方が似合っています。
またその方が彼らも幸せでしょう。
投稿: 人民と臣民 | 2008.04.04 10:55
人民と臣民さんのコメントの一部は、一理あるなあと思いました。日本は昔から中国の自治区のようなものですよね。政治的には独立の形をとっているけど、日本の文化が発展してきたのは、中国という大国があったからこその抵抗文化なんですよね。
いつもながら、かかしさんのコメントは意味不明です。
投稿: marrakechi | 2008.04.04 14:06
marrakechiさん、「意味わかんない」などと、今時の女子高生でさえ口にしない。自身の理解力の欠如を他人のせいにするな、と申し上げておく。何が解らないのかも解らないのであろう。人間素直が一番、である。
投稿: かかし | 2008.04.04 22:57
あなたが書いていることは、意味わからないよ、というより無意味ですよ、かかしさん。
このブログで、私にたいして、中国に対する嫌悪をぶつけて一体、何をいいたいのかね、かかしさん。私が中国政府を批判しているこの文章のどこをとらえれば、中国共産党政府の肩をもっていることになるのでしょうね?だから意味わからないといわれるのよ。他人のことを力が無いってけなす前に、あなたの読解力が欠如しているんじゃないですか、かかしさん。
それと、中国、中国共産党政府、中国人をいっしょくたにして「人類の敵」よばわりするのは、やめましょうね。偏狭な人種差別者あるいは頭の悪い右翼と一緒に見られますよ、かかしさん。
そもそも、あなたには、中国人の友人がいますか?かかしさん。
中国人とつきあったこともないなら、少なくとも中国人批判はやめましょうね。
万が一あなたが人種差別者であり、中国人が大嫌いと公言するなら、私は私の中国人の友人の尊厳のために、即刻あなたの発言を管理者として削除しますが、あなたは、そうした偏狭な人種差別者や頭の悪い右翼ではないですよね、かかしさん。
それと、あなたが、始めたこの呼び掛け調の文章は、ねっちっこくて気持ち悪いので、お互いもうやめましょうね、かかしさん!
投稿: katoler | 2008.04.05 01:30
すでにご存知の方にはお節介かも知れませんが予備知識を補足いたします。
中国人(現在は主に漢民族のことをさします)と中国とは別ものです。
以下わかりやすくするため極論をいいますね。
例えば先の戦争で日本が勝利し、当時の中国大陸を支配していれば、
朝鮮・台湾・満州も含め全部日本帝国のものになったかといえばそうではありません。
統治機構が日本帝国政府でも、広義の意味では「日本が中国になっただけ」ということになります。
つまり、中国というのは「主体」ないし「国体」をあらわす概念なんです。
江戸の末期に明が滅亡したとき当時の日本の知識人は「江戸日本こそが中国ではないか」と考えたといいます。
のちの清は明とは民族が異なります。(ご存知のとおり元はモンゴルですしね)
そういう意味では「中国」というのは永遠不変なんですよ。
投稿: 本来の中国という意味について | 2008.04.05 15:04
そういう視点に立てば、50年後には現在のチベット仏教が
中国の国教ないし中心のイデオロギーになっている可能性もあるわけです。
ちょうどキリスト教がさまざまな迫害を受けて
最終的にローマの国教になり欧州全体の中心概念になって今日まで至っているように。
投稿: 本来の中国という意味について2 | 2008.04.05 15:15
ナルホド。西洋人がチベットが気になるのはキリスト教のことがあるからなんですね。
いき仏のダライラマが神の子イエスと重なって感情がおさえられなくなるんでしょうね。
すごーくナットクです。
投稿: schoolgirls | 2008.04.05 16:30
私のコメントがカトラーさんにとって無意味であると評価できるなら、「意味わかんないよ」などと矛盾したことをいうべきじゃない。
私がカトラーさんに何を言いたいか、については既にコメント済みなのだが、ご要望とあれば再度お答えする。あなたが本文で「日本の頭の弱い右翼や中国嫌いの連中は、中国政府を罵ることしか能がない」と主張しておられるその「罵り」と、あなたがそれまで展開していた「能ある」中国批判とにどんな違いがあるのか、私なりの意見と反論をコメントしたまでのこと。あなたが「批判」と「罵り」との間に置いた気ままな線引きを批判する結果になった。あなたにとってそれは批判ではなく罵りなのだろうが。
あなたの中国批判をさして「中国の肩を持っている」と述べた覚えは無い。
「反中国の声に反日感情を対峙させ、国内の結束に利用するというのが、毛沢東以来の常套手段だったことを忘れてはならない。」
あなたのこの主張への反論で、「中国の肩を持っている」と申し上げたのである。中国共産党は、日本から発信される様々な中国批判をそれこそ「いっしょくたにして」、中国への冒涜、罵り、誹謗中傷だと主張する。それこそ連中のいつもの常套手段だろう。そんな身勝手な因縁付けをして中国共産党が中国人の反日感情をあおっても、現状で困るのは中国であって、日本はまったく困らない。何も相手の言いがかりを先取りして「中国嫌いの罵り」だからと、なぜ中国批判を手控える必要があるのか。相手の身になって考えてやるのは美徳ではあろうが、相手にもよりけりだと申し上げたまで。
私がmarrakechiさんをけなしたと仰るが、他者のコメントを具体的な指摘を一切せずに「意味不明」の一言で済ませる輩へ、「読解力が無い」程度の反論にとどめたのだから、御の字だろう。
「中国共産党は人類の敵である。」とコメントに記したことは認めるが、「中国共産党」の部分に中国を持ち出すのはまだ理解できるにしても、何故あなたは中国人まで持ち出してくるのか。あなたが私を人種差別者だと決め付けているのなら、以前から繰り返し申し上げている通り、四の五の言わずに削除すればよかろう。
中国人の友人がいようといまいと、そのことで私の中国批判が左右されることなどあり得ない。あなたがどうなのかは知らんが、くだらぬ問いかけだ。
あなたのコメントに対して無視したことも、はぐらかしたことも無い私に何もわざわざ、あなたが「呼び掛け調の文章」にする必要はあるまい。気持ち悪い「呼び掛け調の文章」はあなたのはぐらかしが原因のような気もするのだが、どうだろう?・・・・。
投稿: かかし | 2008.04.05 16:44
かかしさん
かかしさんが博識であることは、今までに寄せられた文面から大変よく伝わってきました。ご意見としての今までの文面も大変勉強になりました。しかし、たまには、かかしさんが同感するような部分があれば、それも併せてコメントして頂けないでしょうか。そうすることで、私を含め、このカトラーさんのBlogの読者の皆様にとりましても大変勉強になるのではないかと考えております。何卒よろしくお願い致します。
m(_ _)m
投稿: なかみ | 2008.04.06 11:41
世界一の博識のかかしさんに質問です。
「日本人の正当な中国批判」って、一体、なんですか。
その場合、「日本人」とは誰を指すのでしょうか。
教えてください。
投稿: marrakechi | 2008.04.07 00:42
なかみさんに不快な思いをさせていることを恥じる。やはり、過ぎたかな。
自己顕示欲を満たそうと道場破りさながらに乗り込んだわけではないのだが。匿名での自己顕示などというものがあるのかどうか考えたこともないが、すくなくとも匿名でない私がこちらのブログでコメントしていることを知っている人間は一人もいない。秘密にしているわけではないが吹聴する必要もない。なかみさんが新たな道を示そうと、私ごときを持ち上げてくれることは正直嬉しいが、私が博識であるはずはなく、教養が高いはずもない。カトラーさんとはレベルも次元も違う。どちらかといえば、「博識」とお褒め頂くより「ビジネス戦士」そう呼ばれる方が嬉しいと思うような人間である。
現場の事実と真実とやらにとらわれ過ぎたか。なかみさんのような方たちの存在を意識出来なかったとは、我ながら情けない。不快な思いをされた方々にお詫びする。
二階に上げて梯子を外すようで、marrakechiさんには申し訳ないこととなった。が、期待?を裏切るわけにもゆくまい。
私を子供電話相談室と勘違いしているのではないか、と申し上げておく。なんでどうしてと質問している子供たちは、涙が出るほどかわいいが、あなたはちっともかわいくない。
投稿: かかし | 2008.04.08 19:32