無差別殺人の時代、ノーカントリーな日本を生き延びろ!
コーエン兄弟の「ノーカントリー」を地元のシネコンで見たのは、土浦の駅頭で24歳の男が無差別殺人を引き起こす一週間前だった。
もし、事件が起きた後だったら、スーパーの袋をぶら下げた主婦が行き交い、土浦と同じような日常風景の中にあるシネコンで、こんな映画はとても見る気にならなかっただろう。
映画「ノーカントリー」の舞台となっているのも、殺人事件などとは縁遠いはずの、メキシコの国境にほど近いテキサスの、のどかな田舎町だ。米国も日本も映画の世界だけではなく、日常の時間が流れている郊外の町中で、凄惨な無差別殺人が起きる時代になってしまった。
「ノーカントリー」に先立って、2002年にマイケル・ムーア監督が、コロンバイン高校で起きた銃の乱射事件を題材に「ボウリング・フォー・コロンバイン」という作品を制作した。この作品でも無差別殺人が、主題になっていたが、メッセージの中心は、銃が野放しの「銃器天国」としてのアメリカ社会への風刺と、そうした状況を許している政治家や業界圧力団体に対する批判におかれており、事件を引き起こした高校生の心の闇のことは、あえて素通りしていた。
無差別殺人を行う人間の心の闇
コーエン兄弟は、無差別殺人を行う人間の心の闇に踏み込んだ。
この役でアカデミー賞助演男優賞をとったハビエル・バルデムが演ずる、殺人機械といってもいいような主人公シガーは、銃のかわりに牛の脳天を一瞬にしてかちわるエアガンと圧縮空気のボンベを持ち歩いている。ここでは、無差別殺人の主人公は、銃ではなく、紛れもなく悪魔的な心性をもった人間である。
物語は、ベトナム帰還兵のモス(ジョシュ・ブローリン)が、砂漠でトラックと複数の死体がころがっている麻薬取引の現場に偶然出くわすことから始まる。そこは麻薬取引の際に、何かしらのトラブルがあって、銃撃戦で殺し合いがあった現場だった。モスは、そこに置き去りにされた200万ドルという大金を見つけ奪ってしまう。消えた金を取り戻すために雇われたのが、殺し屋シガーで、老保安官エド・トム・ベル(トミー・リー・ジョーンズ)も加わり、逃げる男と追う者の逃亡劇として映画が進行する。
シガーはコインの裏表で殺しを決めるような「純粋悪」のような存在として描かれており、最終的には、彼の雇い主も含めて、登場人物を次々と皆殺しにしていく。
このシガーという主人公は、金や麻薬など欲望によって動くような存在ではなく、彼なりのルールに従って次々と無慈悲に殺人を重ねていく。現代のわれわれを無慈悲に追いつめる得体の知れないものが、このシガーという主人公に象徴されているといってもよいだろう。そうした人倫を超えたモンスターのような存在を、われわれの社会は、生み出してしまったというのが、この映画が発している基本メッセージであるのだが、そのモンスターは、銀幕から歩み出て、われわれが生きている現実の日常世界を浸食し始めている。
土浦無差別殺人:死刑になりたいから、誰でもいいから人を殺した
土浦の無差別殺人の現行犯、24歳の男は、「殺す相手は誰でもよかった。たくさんの人間を殺せば、死刑になれると思った」と自供しているという。昨年、佐世保のスポーツクラブで銃の乱射事件があり、インストラクターの女性と犯人の友人男性が犠牲になった。この時は、コロンバイン高校の事件と同様、銃の所有許可証を安易に出していたことが社会問題化した。しかし、土浦の事件で使われた凶器は、そこら辺のスーパーならどこでも売っている家庭用の包丁だった。しかも、無差別殺人の動機が、「死刑になるため」だったということで衝撃が走っている。
鳩山邦夫法務大臣は、就任以来、死刑執行の承認書にサインすることを公言しており、「死刑の執行を粛々と行うことが、凶悪犯罪の抑止力につながる」と述べ、死刑制度を機能させることが治安にとって重要であると主張していた。しかし、「死刑になりたいから、誰でもいいから人を殺した」と言い出すモンスターのような犯罪者を前にしては、返す言葉がないだろう。あろうことか、死刑を粛々と執行し、死刑制度が機能していることを示すことが、この男にとっては無差別殺人の動機になっている。
気休めの議論は、そろそろ止めにしよう。われわれの社会が、本当に問われているのは、銃の規制の問題でも、死刑の執行制度の問題でもない。理由なき殺人を易々と行える人倫無きモンスターを、この国や米国のような高度な資本主義社会が生み出しているという現実こそが問題なのである。
誤解なきように言っておくが、「人倫無きモンスター」といったが、土浦の24歳の男は、異常者でも狂人でもない、どこにでもいるような、ごく平均的な24歳のフリーターである。
普通の人間が無差別殺人をおかす時代
父親が外務省のノンキャリアだったとか、家庭環境や学生時代の行動などが色々報道されているが、これだけの事件を引き起こしたことを納得させるような「異常な過去」は出てこない。土浦の男だけでない、佐世保のスポーツクラブで銃を乱射した男も、コロンバイン高校の2人組にしても、土浦の男と同様、異常者として片づけることができない。
事件後の報道などで、こうした無差別殺人の犯人たちは「キレ易かった」とか「カルト的なゲームにはまっていた」といった後付けの説明がもっともらしく語られている。しかし、それらは全て、普通の人間が人倫を超えたモンスターになりうるという、おぞましい現実を隠蔽するために語られているに過ぎない。
街に目をやれば、モンスターが溢れかえっている。学校の教師に理不尽な要求を繰り返すモンスターペアレント、メーカーや小売店に苦情をもちこみ、決して納得しないモンスターカスタマー、医師や病院の対応を誤診や医療ミスと言い立てて、全く聞く耳をもたないモンスターペイシェント(患者)。こうしたモンスターたちが、いろいろな分野で際限なく増殖している。もちろん、ここであげたモンスターたちが、無差別殺人を行った土浦の男と同じというつもりはない。しかし、彼らの歪んだ心を生み出した背景は共通しているように思える。
グローバル化が生み出した個人の孤立と人倫の崩壊
結論からいえば、モンスターが生み出されている根本要因は、グローバル競争の中で、個人の孤立と自己中心化が急速にすすみ、共同体的価値観、倫理(人倫)が崩壊していることにある。全ての価値基準が個人という単位に収斂し、行動規範の全てに自己責任が問われる、現在のような無慈悲な世界において、人倫、すなわち他者との関係のとり方が見えにくくなっている。17世紀の哲学者トマス・ホッブスがいうところの「万人の万人に対する戦いの世界」が現出しているのだ。
それに対してホッブスは「リヴァイアサン」を著し、「国家主権」の考え方を唱えた。リヴァイアサンとは旧約聖書に登場するいくつもの頭を持つという海の怪物のことで、ホッブスはこれを「国家主権」のメタファー(暗喩)としてとりあげ、「万人の万人に対する戦いの世界」が現出しているような混乱の時代にあって、社会の自然状態から生まれる混乱と対立を解消するために「国家主権」というフィクションを設定し、そこに個人の主権を委託すべきと唱え、それをこの幻獣リヴァイアサンになぞらえた。
この話に倣えば、現代とは、幻獣リヴァイアサン(国家)が力を失い、逆に「万人の万人に対する戦いの世界」が再び現出している時代といえるかもしれない。
だからといって、道徳の時間を増やして、愛国心や人倫の道を説きさえすれば、問題が解決するというような簡単な話ではない。なぜなら、これは、「資本」というものの本質、資本主義のシステムそのものに根ざした現象だからだ。
「万人の万人に対する戦い」から誰も逃れえない
「資本」という地球を席巻した圧倒的な力が、人々に競争を強い、欲望をかき立たせ、自己責任という思想を吹き込み、人々の絆を断ち切り、地域コミュニティを崩壊させ、ひとりひとりの人間を孤立化させている。地球上の全ての人間を市場経済の中に組み込んでいくのが資本の隠された意図だからだ。残念ながら、この圧力は誰も止めようがなく、グローバル資本主義が支配する社会に生きる人間は、誰も「万人の万人に対する戦い」から逃れることができないのだ。
土浦の事件の後、岡山で18歳の少年が、ホームに居合わせた目の前の人を突き落として殺すという事件が起きた。少年の父親は、謝罪の記者会見を開いた。父親は憔悴しきっており、先週の土浦の事件をニューズ番組を見て、親子で「このようなことは決してやってはいけないね」と語り合っていたのに、その息子が・・・といって、天を仰いで絶句した。
岡山の少年の家庭は、父親に定職がないため、いわゆるワーキングプアの状態にあった。今時珍しい親思いの少年で、そうした家庭の経済状況を理解した上で、高校を卒業したら就職し、学費を稼いで大学に進学することを希望していた。事件を起こす前にはハローワークから求人票なども取り寄せ検討していたのだという。そんな肩を寄せ合って生きていた親子関係であったにもかかわらず、少年は「誰でもいいから」とたまたま目の前に立っていた男性を進入してくる列車めがけてホームから突き落とした。
一方、土浦の青年は、高校は卒業したのだが、進学も定職にもつかず、フリーター生活をしており、家族から将来について色々いわれることが多くなっていた。土浦と岡山の事件は、同時期に起きた無差別殺傷事件ということで、一緒に論評されることが多いが、事件に至る経緯や背景は大きく異なる。しかし、そこに共通した心性を感じるのは、この2つの事件の犯人が、いずれも深く絶望していること、そして、何ものから追い立てられることから逃れたい、その追跡ゲーム自体を壊してしまいたいという衝動に突き動かされていたのではないかということだ。
ルールと自己責任ばかりを問う、無慈悲な社会
彼らを無慈悲に追いつめていったものは、世間、学校、家族に姿を変え、執拗に選択を迫る。右か左か、表か裏か、ちょうど「ノーカントリー」に登場する殺し屋シガーが、出会った人間に、コインの裏表を言い当てさせ、それに命を賭けさせたように。
映画の中でシガーに殺される人々は、シガーに訴える、「そんな賭けにのった覚えはないし、あなたが私を殺す理由もない」と。しかし、この問いかけは無意味なのだ。シガーにとっては、コインが表とでるか、裏とでるかが全てであり、そのルールしか意味を持たない。
それでも殺される者は問いかける「これがどんな異常なことか、わからないのか?」
実はその問いは、そのまま、私たちの社会に対して投げかけられるものでもある。われわれの住む世界は、いつしかルールと自己責任を問う、殺し屋シガーのように無慈悲なものになってしまった。誰一人として、そんな世界を望んでいないにもかかわらず、だ。
「ノーカントリー」の原題は「No country for old men」という。
意味としては「年老いた者の国にあらず」というようなことだが、土浦と岡山の犯人にとっても、この国は、どこにも自分の居場所を見いだせない無慈悲な「ノーカントリー」となっていた。そして、彼らは、無差別殺人を行うことによってしか、その絶望から逃れ、無慈悲な追跡ゲームを終わらせる方法を考えられなかったのかもしれない。しかし、その企ては、根本において破綻している。というのも、彼らの意図をあざ笑うように、この世界は、彼らの犯行の後も無傷のままあり続け、耐え難い日常が続いているからだ。
「階級意識」にめざめ、自己を発見した永山則夫
ここまで、書いて、永山則夫のことを思い出した。永山則夫は、1960年代に米軍宿舎からピストルを奪って、4人を射殺した。死刑が確定し、収監された独房での読書と学習を通じて、「階級意識」にめざめ、生まれて初めて自己を発見する。
無差別殺人という人倫を超えた行為によって、自らをモンスター化することで、世界に対して復讐を行った彼らだが、永山則夫のように、その行為自体が、「資本システム」の隠された意図によって仕組まれたものだったという苦い認識にめざめるなら、世界の見方が根本から変わるだろう。世界に絶望して自らモンスターとなるよりも、「怒りや叫びの声を上げて、この無慈悲な世界を生き延びろ」と永山則夫なら、今の若者たちにメッセージするだろう。永山則夫は、処刑の当日、親しい人々に対してかねてからそうすると言っていたように、全力で抵抗しながら死んでいったという。土浦と岡山の犯人たちが、永山のような心の旅路を辿りはじめることを望むが、それは、彼らにとって犯した罪の大きさを悟る修羅の道を歩むことでもある。
映画「ノーカントリー」のラスト近くでは、年老いた保安官が、この世界に現れたシガーのような新しい悪に怯え、自らの衰えと力の限界を悟り引退を決意する。自分と同じようにかつて保安官をつとめ、今は人里離れて独りで暮らしている父親のもとを久しぶりに訪ねるのだが、父親は老いた息子の苦悩を感じ取り、こう語りかける。
「この国は老いた者に対して厳しい。でも、そのことに誰も抗うことはできない」
こういって、世界は、今だけでなく昔から苦しみと不条理に満ちているということを淡々と話すのだが、それに対して老いた息子は自分が昔みた夢の話をする。
その夢の中で、息子は、闇夜の中、独りで道を往きながら不安におののいている。けれども、牛の角の中に火をともした父親が、きっと道の先のほうで焚き火をして待っていてくれるはずだと感じ取る。
岡山の事件を引き起こした少年の父親は、記者会見を開き、その中で「息子とともに、一生罪を購っていきたい」と述べていたのが、連続して発生した2つのやりきれない事件の中にあって、せめてもの救いだった。
更正して再び戻って来たとき、この少年は、父親が焚き火をして待っている姿を見つけることができるだろうか。
(カトラー)
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コメント
カトラーさん、はじめまして。
いま上田紀行さんの『かけがえのない人間』(講談社現代新書)を読んでいますが、ちょうどこのエントリと同じ問題意識に立って書かれています。とても多くの人、とくに若い人が「私は使い捨てられる人間だ」と深く絶望しているところからどうやって抜け出したらよいのか、と思考しています。
一方に「ルールと自己責任」があり、もう一方には(一時しのぎでしかない)癒しがあふれている...
old menにもyoung menにも、all womenにも、居場所のある日本にしたいですね。
投稿: ほんのしおり | 2008.04.10 01:17
ほんのしおりさん、コメントありがとうございます。
上田紀行さんの本のことは知りませんでした。「私は使い捨てられる人間だ」と思う絶望感と誰でもいいから人を殺すというモンスターの意識は、コインのように表裏一体のもののような気がします。
使い捨てられる人間を必要としている社会だから、そうした絶望感を持った若者がつくりだされる仕掛けになっている・・・そのことに気づき、抵抗者としての自己に目覚めたのが永山則夫でした。彼の生き方(死に方)をもう一度深く見つめ直すことが必要だと思っています。
これからもよろしく。
投稿: katoler | 2008.04.11 01:35
>グローバル化が生み出した個人の孤立と人倫の崩壊
グローバル化に限らず中世ではない近代社会の有り様が人間疎外を深める過程を進めて来たのではないでしょうか?
またグローバリズムへの反対が単なるスローガンでない行動で示されるとすれば、極端には「鎖国」しかなくなると思います。
現実に国内問題として考えるならば、日本政府は政策的にグローバリズムの国内への影響を遅延せしめつつ、事業の転業、或いは来るべき世界へ適応を、税制・プログラム的に支援する事を訴えるのが良いのではないでしょうか?
投稿: ト | 2008.04.11 22:05
まったく同感だと思いながら、エントリーを読ませていただきました。
自分のことを無力で無価値な存在だと思い込んでいる人が、容易に犯罪を起こしたり、自殺したりするのでしょう。
構造改革路線は、”未来に希望をもてない人々”が社会の中で増加してゆくことを、景気回復のためと称して正当化しました。しかし、欲求不満な人々が増え続けることの対価は、高くつきます。第二次大戦も、欲求不満状態の大衆が(消極的であれ)政府を支持したから起こったのだと思いますし、郵政民営化が焦点だった衆院選当時の雰囲気と似たところがあるのではないかと想像します。
今の社会を無批判に受け入れて、その中でいかに生き残るか?と考えるだけではなくて、これからどんな社会を望むか?ということを、もう少しだけ考える必要があると思うのですが、こんな正論は、すでに絶望している人は考える余裕すらないのでしょう。
無力感や不安感、切迫感を人々を操縦するための道具として使う人には責任を問わなければならないと思います。
投稿: まるてん | 2008.04.13 20:45