サミットの終わりの始まりと、行方不明?の日本
シンガポールが日本を抜く 1人当たりGDP
アジア一豊かな国はシンガポール――。国際通貨基金(IMF)の調査で、2007年のシンガポールの1人当たり国内総生産(GDP)が3万5000ドルを超え、日本の約3万4300ドルを抜くことが明らかになった。資源に乏しいシンガポールは積極的な外資・外国人の誘致策で経済の活性化に取り組んでおり、市場開放が後手に回った日本との違いが鮮明になった格好だ。(NIKKEI NETより)
日本がもはやアジアの中で最も豊かな国ではなくなってしまったという少なからず衝撃的なニュースが、サミット開催の直前に飛び込んできた。
ちょうど同じ頃、経済財政諮問会議が、いわゆる「平成版・前川レポート」を答申したが、その中でも、世界経済の中における日本の存在感の低下について次のように指摘していた。
「日本経済は、広がる成長機会を活かせておらず、存在感が低下している。日本の実質成長率は1980年代3.8%から1990年代1.5%、2000年代1.7%へと低下し、その間、世界のGDPに占めるシェアは、1994年の17.9%から2007年には8.1%へと低下している。
一人当たりGDPも、OECD加盟国中1993年の2位から2006年には18位と順位を落とした。・・・・わが国の競争力に対する評価も、全体的な指標で見る限り、低下している。IMD(国際経営開発研究所)世界競争力ランキングで見ると、1993年には1位だったが、2008年には22位と順位を下げている」
要するに、今の日本の世界経済における存在感は、ピーク時に比べて、約三分の一にまで低下してしまったということだ。
さらに、同じくサミット直前のタイミングで、フィナンシャルタイムスが、「日本が行方不明、サミット議長国の姿が見えず」という辛口の記事を掲載した。
この記事でも、80年代、隆盛を誇った日本経済の実体が、バブル崩壊とそれに続いた失われた10年によって見る影もなくなったこと、そして、急速に忍び寄る高齢化と人口減少によって経済成長への展望も失っていることで、日本は、国際政治の舞台においても影響力が薄れており、今や「アジアの世紀とは、中国とインドのことなのだ」と指摘されている。
経済、国際政治の舞台で存在感を低下させる日本
サミットに絡んで、たてつづけに発表された、こうした国内外のメディアや経済財政諮問会議のレポートからは、日本の存在感が、経済、国際政治の両面で著しく低下していることに今更ながら思い知らされた。
ところが、どうしたものか、こういった日本の地位低下については、正面切って論じられることがほとんどない。日増しに閉塞感は募っているにもかかわらず、危機意識が醸成されてこないのだ。それは、日本の地位低下に対する処方箋として発表された「平成版・前川レポート」が、ほとんど顧みられていないことにも象徴されている。
約20年前の1986年に前川レポートが、まとめられた頃は、日本が工業製品の輸出によって巨額の貿易黒字を記録しており、欧米諸国から貿易不均衡の是正と輸出中心の経済構造からの転換を強く求められていた。プラザ合意(85年)によって為替レートが強引に円高に誘導され、円高不況が進行する中にあって、前川レポートは、それまでなりふり構わず走ってきた日本経済が、はじめて「世界」の視線というものを意識し、「内需中心への経済構造への転換」という新たな進路を指し示したことで高い評価を得た。
それ以降、この前川レポートは、当時の中曽根首相をはじめとした政治家や国内マスコミはもとより、外国メディアなども事あるごとに「前川レポートでもいわれているように・・・」という形で、演説や記事の中で頻繁に引用・言及されるようになる。
顧みられることのない「平成版・前川レポート」
しかし、今回、答申された「平成版・前川レポート」の扱いを見ていると、残念ながらそうした影響力はとても期待できそうにない。第一に「平成版・前川レポート」という呼ばれ方からして、いかにも中途半端だ。レポートをまとめた経済財政諮問会議の座長は植田和男、東大教授なのだから、「植田レポート」と呼ぶべきなのだが、ほとんどのメディアが、過去の「前川レポート」とのアナロジーでしかこのレポートのことを紹介していない。
誤解なきように言っておくが、植田レポートの内容が、20年前の前川レポートに比べて、中途半端だとか、二番煎じになっているというのではない。一読すればすぐわかるが、今日の日本経済の停滞と閉塞を招いている要因がきちんと分析されており、その上で日本経済はさらにグローバル化を推し進め、若返らせることが不可欠であると、説得力のある処方箋も示されている。しかし、そのメッセージを受けとめるべき、政治家、経済人、メディア、そして国民の方が、すっかり変質してしまっている。
かつての「前川レポート」は、天の声の如く受けとめられ、政界、経済界、国民側にも自己改革能力が存在していたので、国の進路を大きく転換させていく上での道標となったが、残念ながら、平成版にはそうした牽引力がない。
その歴然とした牽引力の差は、冒頭で紹介した、日本の世界経済における存在感の低下にちょうど見合っている。80年代、「Japan as No.1」などと持ち上げられるほど独り勝ちしていた日本経済の動向に対して、世界中から批判的な視線が集まっていた。日本としては「調和のとれた成長戦略」を世界に対して示すことが求められており、前川レポートとは、その具体的な「回答」でもあった。しかし、今日、その日本に向けられるべき関心自体が急速に萎えており、そのことが平成版・前川レポートが国内的にもメッセージ力を喪失させている根本原因となっている。
閉塞感ばかりが募った洞爺湖サミット
洞爺湖サミットは閉幕したが、一言で総括すれば、これまでになく閉塞感が募ったサミットだった。
米国サブプライムローンの破綻に端を発する世界経済の減速と、それに伴って行き場を失ったマネーが、原油、資源、食糧の高騰を招き、世界各地で政情不安も勃発し、中長期的には地球環境問題という大きな重石となってのしかかっている。今回のサミットで日本の福田首相は、議長国としての役割を、可もなく不可もなく果たしたとはいえるだろうが、世界が直面している問題は、根本的に何一つ解決されなかった。これは、議長国、日本の責任というよりは、サミット自体の問題といっていいだろう。
サミットに対しては、G8という一部の先進諸国が、世界全体の行く末を密室で取り決めているという批判があり、今回の洞爺湖サミットでも、反グローバリズムの立場に立つ市民グループなどが札幌でデモを行ったが、実は、サミット自体が問題解決機能や実効性を失っていることの方が問題と考えている。
洞爺湖サミットでもG8諸国だけでは埒があかないので、中国、インドといった新興国の代表も会議に参加させたわけだが、結局は両者の溝をあらためて露にさせるだけに終わってしまった。
昔を懐かしんでもどうにもならないが、思い返せば昔のサミットは牧歌的だった。当時の新聞などを見ると、日本の首相が、他国の首脳に比べて目立っていたかどうかが問題にされ、最後の各国首脳の集合写真で、どこに陣取ったかというような些末なことまで書かれていた。しかし、現在のように、地球規模での対応が必要な問題が頻発したり、利害関係が複雑に入り組み、高度に管理された外交課題を処理するようになると、G8の首脳同士が差しで話し合って決められる物事などは極めて限定されてしまう。その結果、今ほど指導者の大胆な決断とパラダイム転換が求められる時代はないのに、誰が見てもありきたりとしかいいようのない結論しか導き出せない場にサミットは成り下がってしまった。
サミットの終わりが始まっている
今回のサミットを傍観しながら、痛感させられたのは、G8を軸としたサミットの枠組みが、地球規模の問題に対応できず、機能不全に陥っているということだ。サミットの終わりが既に始まっていると表現してもよいだろう。日本の存在感の低下ばかりを問題にしたが、それ以上に米国経済の存在感も低下している。日米枢軸の存在感が低下したということは、逆に見れば、他の新興国が成長して、世界が多極化しつつあるという新しい現実を示している。10年以内には、GDPの大きさで日本は中国に追い抜かれるだろうし、日米で世界経済の半分以上を占めたような時代は、この先もう戻ってこないだろう。だとしたら、これからの世界の中で日本に求められる「存在感」とは、G8の旦那衆の間でデカイ顔ができることではないだろう。
これから問われるのは、日本という国を世界に向けてもう一度、本当の意味で開くことだと思う。明治維新に匹敵するような「第三の開国」が必要になっている。
「開国」とは、国を開くことによって、国を変えることを意味するが、ここでいう「第三の開国」とは、さらに国家の枠組みを超えて、ヒト、モノ、マネー、情報の流通システムを再構築していくことに他ならない。
次回以降のエントリー記事で、この問題について考えてみたい。
(カトラー)
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コメント
「日米の存在感が低下している」、当然ながら欧州主要国(英独仏)の存在感も低下しているということなのだろう。G8のメンバーであるカナダはもともと東京都の予算規模よりも小さい国に過ぎない。ポルトガルのレベルまで落ち込んでいたロシアは、経済規模が日本の10分の1を誇る韓国を追い抜いたらしい。実に目覚しい?発展振りだ。差し詰め、存在感を増しているのはBRICsだとおっしゃりたいのだろう。特に10年後には日本と並ぶ経済規模になる??中国だと。日本の存在感については、前向きな日本記事をほとんど書かない海外メディアの記事や具体的な数字を上げて裏づけまで取っておられる。世界からかえりみられる事も無く、地球の片隅で息を潜め、細々と暮らしている日本人の姿が目に浮かぶ。
「日本はスウェーデンのような福祉国家を目指せ」と主張する社民党もどうかしてるが、シンガポールに追い抜かれて衝撃を受けてしまうのもどうだろう。スウェーデンのような小国やシンガポールのような都市国家と日本のような世界的規模の大国とを比較しても、そこから得られるものなどほとんど何も無い。
カトラーさんが指摘する「世界の多極化」が、グローバル化と対立するBRICs諸国の地域主義の台頭を意味しているのなら、「世界の多極化」は芽生えた次の瞬間から終焉に向かうのではないか。資本主義市場経済のグローバル化こそがBRICs諸国発展の大前提だからだ。その大前提を否定してしまって経済発展から取り残されては、多極化も地域主義もあったものではない。
一方「世界の多極化」が「資本主義市場経済のグローバル化」を前提にした世界総生産に占める各国のGDP比率の高低による発言力の分散程度の意味なら、日米にとって深刻な問題になりようが無い。安物製品を大量に生産してGDPを上げただけで発言力がどの程度増すものなのか、日本の高度成長期の発言力をみればよい。
これから世界経済が発展してゆく中で、日米がその世界経済を主導してゆくことに疑いを挿し挟む余地などまったく無いのである。メディアが伝えるイメージなどどうだってよいのだ。現実として世界経済を牽引している日米2カ国の影が、本当に薄くなったら大変な事態だ。BRICs諸国はそれこそ暗闇の中に沈んでしまうことだろう。
投稿: かかし | 2008.07.15 04:33
韓国の経済規模は日本の5分の1程度になってると思いますよ。
かかしさんの考えは楽観的すぎると思う。日本の影響力が低下していることは認めたほうがいいのではないでしょうか。
カトラーさんが指摘してますが、アジアの中心は中国だと認めてしまったほうがいいと思います。世界中がそう考えているのですから。現実を受け入れなければ日本は先へ進めないと思います。
投稿: kenn | 2008.07.16 11:56
韓国のGDPについてならkennさんのご指摘の通りだし、カナダにしてもGDPは東京より大きい。「存在感」などという印象を語るフィクションならではの 許される誤差の範囲?だろう。無数に存在する経済指標から二つ三つの指標を取り上げてイメージの裏付とするなら正確な数字に意味など無い。「一大粉飾国家」中国に関わる話題ならなおさらのことだ。
印象はともかく、現在中国がアジアの中心だとか、近い将来そうなるだろうというような頓珍漢な予見で、ビジネスの現場が大事な資金を動かしてしまえば命取りだ。
BRICs4カ国やそれに続くネクストイレブン(ベトナム・トルコ・メキシコ等)11カ国の成長が世界経済というパイを大きくしている。大きさが変わらぬパイに、それを分け合う国の数だけが増えて群がっているのではない。一時、世界経済の50%以上を一国で占めていたアメリカは、そのシェアを25%まで落としても世界を二分する位置から一極支配体制と呼ばれる位置に格上げだ。かつて世界を二分した一方の雄ソ連が、人口1億5千万のロシアとなって直面したのは、人口1千万人のポルトガルと同程度に落ち込んだ経済規模なのである。そこまで落ちれば大問題だろうが、為替レートの変動にまで左右されるGDPのシェアなどに国家の浮沈がかかってしまうほどの意味は無い。量ではなく質の問題こそ重要なのだ。
前述の中国を筆頭にした15カ国を中心にして繰り広げられる経済活動は、発言力を高めた多極化への動きではない。低賃金労働を唯一の競争力とした15カ国の間で展開される激烈な経済競争なのである。それこそ国家の浮沈をかけての厳しい競争だ。
都市国家シンガポールの開発独裁と独裁国家中国の経済成長を連想させて安心している場合ではないのだ。今のままの中国が10年後に日本を追い越し20年後にアメリカを追い越すなど私にとってはSFだ。年間100万人以上も公害で命を落とし(世銀では75万と発表してるが)、民主化にまったく手をつけられず、15か国中最も高い賃金水準の中国がこの先どうなってしまうのか。日米に代わる国などどこにもないが、中国に代わる国などいくらでもあるということだ。
日本の存在感を語るなら、お粗末極まりない日本の政治と、数十年も前から指摘され続けている保護と規制にどっぷり浸かった非製造業の競争力の欠如だ。その点をカトラーさんもちゃんと指摘しておられるのだが、GDPのシェアなどの一部の経済指標や中国の台頭をことさらに持ち出してしまうからややこしくなる。
そして明治維新を引き合いに出した「第三の開国」という結論になってゆく。この点についてカトラーさんと意見が違うわけではない。移民1千万人の受け入れなどという突拍子も無い方向に向かわなければの話だが。それでもなんだかしっくりこないのだ。腑に落ちないといえばよいのか。たぶん明治維新の受けとめ方が違うのだろう。私は明治維新の最大の意義が「開国」を成し遂げたことだとは考えていない。開国に意義があるのなら徳川幕府を潰す必要など無かった。300年にわたる祖法を打ち破って開国に踏み切ったのは他ならぬ徳川幕府そのものなのだ。開国反対、攘夷を合言葉にしていたのは明治政府を作り出した討幕派であろう。彼らの偉大さは、攘夷・倒幕運動の過程で開国の必要性に気付いたこと、開国するにしても幕藩体制のままでは日本が崩壊するということを理解したことなのだ。中国と日本の運命を分けた決定的な違いだ。
「第三の開国」の大前提は、保護と規制の中で既得権益の上にあぐらをかいている連中を引き摺り下ろすことであり、政治の意思決定に介入する官僚主導から政治主導への転換なのである。小泉・安倍の改革に反対し、安倍内閣の倒閣運動に喝采を送るような連中に「第三の開国」を実行させてはならない、といったところだろう。
投稿: かかし | 2008.07.17 02:51