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空間の魔術師、村野藤吾の”音楽” ~モダニズムを超えて~

Photo_2 村野藤吾という建築家を知っているだろうか。
建築を少しでもかじったことのある人なら、「東(東京)の丹下、西(関西)の村野」といわれ、丹下健三と並ぶ、日本が生んだ偉大な建築家であることは誰でも知っているのだが、一般人の間では、丹下健三のような知名度は無い。しかし、日比谷の日生劇場や大阪そごう百貨店を設計した建築家であるといえば、村野の名前は知らなくても建物が放っている独特のオーラと印象がきっと記憶に深く刻まれているはずだ。

小学生の頃、社会科見学会のようなものがあって、日生劇場にミュージカル見学に連れて行かれたことがあったが、劇場の中に入ると、まるで深い海の底に入ったような空間に目を見はった。その時に観たミュージカルのタイトルや内容もすっかり忘れてしまったが、日生劇場のうねるような天井を「すげえなあ」といいながら、見上げていたことは、昨日のことのように思い出される。もちろん、その時は、その空間を創り上げたのが、村野藤吾という建築家であることは知るよしもなかった。

多面性を持つ建築家、村野藤吾

Photo_2 次に、村野の建築と出会ったのは、大学に入ってからだった。私が通っていた大学の文学部のキャンパスを設計したのが、村野藤吾ということだったのだが、それは羊羹のような直方体のコンクリート打ちっ放しの建物で、あの有機的な形状の日生劇場をデザインした同じ建築家が造ったものとはとても思えなかった。
丹下健三といえば、国立競技場や東京都庁舎を設計したモダニズムの建築家として、明快な全体像がひとつの焦点で結ばれるのだが、村野藤吾の場合は、多面性があり、一見矛盾するような要素が響き合いながら村野の作品宇宙を創り上げている。

先月から、汐留のPanasonic(旧松下電工)ミュージアムで「村野藤吾・建築とインテリア ひとをつくる空間の美学」という展覧会が開催されている。
建築門外漢の私としては、この催しに行ってみて村野藤吾というアーティストの広がりと巨大さを初めて知ることができた。
村野藤吾は、建築家であると同時に傑出した造形作家でもあった。建物を設計するだけではなく、客船の内装・インテリア、建築空間に相応しい椅子やスツールなどの家具類、シNssei_hall ャンデリアや照明器具までデザインしている。おもちゃの馬をそのままシャンデリアにしたような作品など、遊び心と造形性に満ちている。ル・コルビジェなどに代表される西欧のモダニズムの建築家もインテリアや家具のデザインしていて、建築家としての活動が建物だけに留まらないのは、海外では珍しいことではないが、村野の作品に驚かされるのは、その表現スタイルまでが変幻自在に変わっていることだ。

変幻自在に変化する表現スタイル

Photo_3 現在は目黒区本庁舎として使用されている旧千代田生命本社ビルのような直線的なモダニズム建築もあれば、墳墓のように地面からせり上がってきたような谷村美術館(新潟)のような土着のイメージを持った建物も造っている。
丹下健三は、ある時期から海外プロジェクトに仕事をシフトさせ、世界的な建築家としての名声を得たが、村野は海外に出ていく姿勢を見せなかった。関西を拠点に活動し、数多くの作品を国内に残している。その作品群は、オフィスビルや公共建築物ばかりか、喫茶店やキャバレーのような商業施設、住宅では独特の意匠を持つ村野式数寄屋と呼ばれた日本家屋や茶室など、ありとあらゆる建物、空間に及んでいる。

Murano_tanimura_museum 村野藤吾とは、世間的には「建築家」というジャンルにおいて評価されているが、とてもその枠には収まらない大きな広がりを持っている。例えていえばダヴィンチのような全人的な仕事をその生涯を通じてやり抜いた天才だったといえるだろう。

今回の展覧会では、その全人的な仕事の一部が提示されていて、見ようによっては、村野の多様性が整理されないまま、おもちゃ箱をひっくり返したようにそのまま提示されているといっても過言ではないのだが、拡散せずに、そこに明確な「村野スタイル」が貫徹されていることに驚かされる。様式や表現方法は変わっても、その全てに村野藤吾の精神が一貫性を持って投影されているのだ。

Murano_tanimura 丹下健三も、日本を代表するモダニズムの建築家として「丹下スタイル」を作りあげた。丹下は自分が構築した様式を突き詰め、いかにも丹下らしいといわれるような建物を造り続けた。しかし、村野の場合は、何かしら出来上がった形があったとすれば、逆にそれを裏切り、壊すことで前進し続け、丹下のような意味での様式美を追い求めることがなかった。

村野の作品群は、自在に姿を変えながら流れている大河にも例えられる。そこに「スタイル」というものがあるとすれば、それは固定した様式ではなく、村野がひとつひとつの作品を創り上げていったその格闘の軌跡にしかとらえられない、川の流れの中から一瞬、浮かび上がってくる何かなのだ。
その何かを、最も適切に言い表すとすれば、それは「音楽」という言葉ではないか。村野藤吾のどの建物、どの作品からも強烈に感じられるのは、その音楽性である。

音楽の旋律のように美しい村野の階段

Photo_4 日生劇場の劇場空間に立った時、人は海の底で響き合う音楽を感じるだろう。谷村美術館の迷宮のような空間に放り込まれた時、そこに空間に織り込まれたドラマ(劇的時間)を見いだすはずだ。そして、村野藤吾の音楽性を最も端的に表しているのが、階段だろう。階段とは空間同士が出会う場所であり、空間が流れる場所である。村野の建物の階段は、どれも音楽の旋律のように美しい。

村野藤吾が、まだ28歳(1919年)の頃、「様式の上にあれ!」という論文を建築雑誌に投稿している。建築界にデビューしたばかりのこの時期に、固定化された一切の様式に囚われないという、その後の村野の「スタイル」への意志を明確に宣言していたことは、そのこと自体大きな驚きだ。論文には以下のような若き村野のスローガンが並んでいる。

Photo_3 『様式の上にあれ! 様式に関する一切の因襲から超然たれ!』
『一切の既定事実の模写や再現や、復活などと云ふ、とらわれたる行為を止せ!』
『私は厳格なるプレゼンチストである。現在に生の享楽を実感する現在主義者吾等に、過去と未来の建築様式を与へんとすることは不必要である、寧ろ罪悪である。』

自分のことを「プレゼンチスト」と規定し、「過去と未来の建築様式を与へんとするは不必要」という村野にとって、建築とは、今、此処に現前する音楽のようなものであり、建物を造ることは、彼にとってはちょうど音楽家が演奏をすることに似ている。

「プレゼンチスト」としての村野の関心は、さらに建築の経済にも及び、50歳を超えた戦時中にマルクスの資本論の研究に没頭する。村野は、1918年に渡辺節の建築事務所に入り、建築の仕事に携わるようになったが、ここでモダニズムに裏打ちされた合理的な設計というものを徹底的に仕込まれる。渡辺節は、当時としては珍しいプラグマティスとで、建築の経済合理性を重視し、投資と収益がバランスする経済合理性に裏打ちされることで初めて、建築は現実の社会と接合できるという考えを持っていた。そうした観点は当時の建築界では極めて稀有なものだったが、村野にとっては、建築というものが、建築家の青白い観念を形にしたものではなく、現実社会との格闘の過程から出来上がってくるもの、すなわち経済そのものであるということに目を開かせることになった。

戦火が激しくなると、全ての資源が軍需に回され、村野のような建築家に回ってくる仕事は皆無になった。建築家でありながら、建てる建物が無いという絶望的な状況の中で、資本論の研究に没頭することが、現実世界との接点を確認する唯一のすべであったのだろう。だからといって、それは、村野がロシア・マルクス主義や共産主義思想に傾倒していたことを意味するのではない。資本論という書物から立ち現れるマルクスの精神の動き、すなわちマルクスという偉大な精神が時代の状況に立ち向かっていった、その運動の軌跡に共感を覚えていた。そう、村野は資本論の“音楽”を聞いていたのだ。

戦時中に没頭した椅子づくり

Murano_isu 戦時中に、村野藤吾が、マルクスの資本論研究とともに没頭したもうひとつの仕事があった。木製の椅子の製作だ。疎開先の指物大工と二人だけで、何日もかけて小さな木椅子を作りあげたのだ(1942年)。
この椅子が、今回の展示会のハイライトではないかと思っているが、その優美な曲線と手触り感に、見事なまでに村野藤吾の息づかいが反映されている。
時代が建築家にとって暗澹としたものになりつつある中にあって、この椅子からは、ものづくりを楽しむ村野ののびやかな精神が感じられる。疎開先の大工と一緒になって椅子の製作に熱中して、楽しげな村野の鼻歌が聞こえてきそうな作品だ。

建築に興味を持っている方であれば、この展覧会をぜひ、見に行ってほしいが、この秋、村野藤吾をめぐってもうひとつのプロジェクトが始動する。
村野藤吾が、38歳で設計事務所を立ち上げ、93歳で亡くなるまでずっと仕事場としていたアトリエが大阪、阿倍野にある。村野が亡くなった後は、奇跡的に壊されもせず、ずっとそのままの状態になっていたのだが、その建物がギャラリー&カフェとして生まれ変わり、一般に公開されることになった。オープンの詳しい日程などは未定だが、年内にはリニューアルが完成し、村野藤吾が数々の作品を生み出したアトリエ空間を見ることができるようになるという。

阿倍野のアトリエがギャラリー&カフェとしてオープン

長年封印されていたオルゴールの蓋が開いて音楽を奏ではじめるように、このアトリエのオープンによって、村野藤吾という“音楽”が再び世界に向かって流れ始めるだろう。
世の村野藤吾ファンの人々に比べれば、何も知らない、建築についても素人でしかない私だが、村野藤吾という表現者の大きさはわかるし、彼の“音楽”を聞くことはできる。建築界では既にモダニズムの巨匠としての名声を確立していることも承知しているが、村野藤吾というアーティストを正当に評価できているとはとても思えない。
そもそも、そうした評価の前提となっているモダニズムやそれに対抗するアンチモダニズムあるいはポストモダニズムといった図式を超えたところに村野藤吾は存在しているように思える。閉塞した時代が、再び村野藤吾の“音楽”を必要としているのだろう。

今回の展覧会やアトリエのギャラリーカフェとしてのオープンを通じて、今後、建築家「村野藤吾」の枠を超えて、村野藤吾というアーティストの再評価が始まるに違いないと確信している。

「様式の上にあれ! 様式に関する一切の因襲から超然たれ!」
「一切の既定事実の模写や再現や、復活などと云ふ、とらわれたる行為を止せ!」

という村野の言葉に従って、一度、目をとじて、日々のどうでもいい事柄や押し寄せる情報から自分をシャットアウトしてみよう。そうすれば、村野藤吾が聞いていた“音楽”が聞こえてくるかもしれない。

村野藤吾の建築には、モーツアルトが良く似合う。

(カトラー)

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コメント

はじめまして。ネットをぶらぶらしていて偶然たどり着きました。村野さんについては、うっすらとどこかで名前を聞いたことはあっても、それほどの知識を持ち合わせていなかったんですが、こちらの記事から興味を持ち、ネットで調べてみると、自分に個人的にすごく縁のある建物の設計をされた方だったことに驚きました。小学生に住んでいた場所の駅舎、よく通った映画館の建物、過ごした大学のキャンパス、結婚式を挙げたホテル、住民票を置いていた役所、東京での定宿のホテル、と、偶然とは言え少し多すぎる合致ですね。。ともあれ今まで彼の仕事であるとは全く知らずに訪れた場所をつなぐ人だったとは発見でした。阿倍野のアトリエ、今度大阪に寄るときにぜひ立ち寄ってみようと思います。いい記事をありがとうございました。

投稿: kishi | 2008.10.27 01:16

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