漂流する検察と私刑(リンチ)化する「国策捜査」
「国策捜査」という言葉は、もともと検察の内部用語で、国家の意志・政策、あるいは世論の動向に基づいて訴追ありきという形で捜査をすすめることを意味していた。しかし、この言葉が、マスコミや一般国民にも知られるようになったのは、鈴木宗男事件で逮捕、起訴された元外務官僚、佐藤優氏の「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫) 」が出版され、ベストセラーになってからだろう。
この本の中で佐藤氏は、「国策捜査」というもののありようと、その「罠」にはまった時の個人の無力さを自身の体験をもとに赤裸々に報告している。この本が出て以来、「国策捜査」という言葉は、検察に対する批判的な意味を伴って使われるようになった。
暴力装置としての国家が行使する国策捜査
司法の独立、中立性という理念からすると「国策捜査」というもの自体が、あってはならないものという声をよく聞くが、こうした批判は的はずれだ。レーニンが「国家と革命」の中で指摘したように、国家という存在の非情な本質とは、それが軍隊と警察力を行使できる暴力装置であることであり、「国家の意志」を国民に対して強制することで、国家は国家として成立している。こうした国家の本質を前提とするならば、その秩序を守る使命を持った検察組織は、「国策捜査」をやることが当たり前であり、これを担当する検察エリートたちは自分たちが指揮する「国策捜査」こそが、この国の形を決めているという強烈な自負と矜持を持っている。
問題はその国策捜査がどのよう行われるかだ。
最近、ライブドア事件の被告人になっている堀江貴文が「徹底抗戦 堀江貴文」という本を上梓した。この本の中で、2005年、ライブドアが、ニッポン放送株を取得して、フジテレビの買収に動いたいわゆる「ニッポン放送、フジテレビ買収騒動」のこと、そしてその半年後の夏、小泉政権のもとで広島6区から亀井静香に対する「刺客」候補として政界に立候補したいきさつ、そして翌年の2006年に証券取引法違反の疑いで、突然、東京地検特捜部の家宅捜査が入り、他の取締役ともども逮捕、起訴された顛末が当事者である堀江貴文の立場から語られている。
このライブドア事件も「国策捜査」の典型といえるだろう。
国策捜査の典型、ライブドア事件
堀江貴文を含む当時のライブドアの経営陣が逮捕、起訴されたのは、証券取引法違反の疑いによるとされているが、当時から専門家の間でも起訴された事実が、そもそも逮捕、起訴に値するような事柄か?と疑問視されていた。堀江被告もこの本の中で以下のように述べ検察を批判している。
「通常、捜査のメスが入る企業というのは、架空取引などで大量の隠れ負債を抱えていて、それが表面化したような企業であったり、破綻したような会社である。つまり、捜査以前に社会に悪影響を与え、血税が投入されたり、株主が損害を被ったことに対して制裁を与えるために、捜査が行われるというのが特徴である。・・・・(中略)・・・よく、私やライブドアが『事件を起こした』などといわれるが、その表現には違和感を覚える。なぜなら事件はわたしたちが『起こした』のではなく、特捜部が『起こした』と考えるからだ」(「徹底抗戦 堀江貴文」より)
ライブドアの当時の業績は好調であり、この事件の起訴の根拠となった利益の記載方法や架空取引が指摘された子会社の経理操作にしても、ライブドア本体の経営や株主に甚大な被害を及ぼすような「違法行為」ではない。むしろ、ライブドアの株主が甚大な被害を被ったのは、検察の捜査が入り、そのことによってライブドアの株価が暴落したことによってである。
堀江被告がいうように、中味がボロボロの会社に捜査のメスが入るのは当然としても、ライブドアのような順調な経営状態にあった会社が突然「国策捜査」の対象になるということは何故なのか。堀江被告もこの点については、「目立ち過ぎたから」という言い方をして、慎重に言葉を選んでいるが、真実は、この本にも書かれている「ニッポン放送株の買収」と「広島6区における選挙戦への立候補」に隠されている。
ホリエモンが踏んでしまった虎の尾とは?
広島6区の衆議院選に立候補した際に、堀江は、小泉政権の郵政民営化に賛同していたことから当初は自民党から出ることになっていた。しかし、ここで虎の尾を踏んでしまう。街頭演説で日本は大統領制をしくべきだと、天皇制の否定につながるような主張をおこなってしまったからだ。この発言に国粋右翼が反応し、自民党内部の右派からも反発の声が上がり、自民党の公認、推薦は見送られてしまう。
ニッポン放送、フジテレビの買収に動いたことも、経済界や政界のエスタブリッシュメント層を形成する右翼連中を刺激したということが、この本でも暗に語られている。
天皇制を信奉し、国粋的な考え方をするエスタブリッシュメント層は、一般国民の目にはなかなか見えないが、政界、経済界、そして法曹界の中核部分で強い影響力を持っている。
秘密結社ではないが、彼らは同調して動いている部分があり、天皇制に関わる言説には特に敏感に動く。堀江はこの連中の尾を踏んでしまったのだ。
冒頭の「国策捜査」の定義に話を戻すと、「国策捜査」とは、本来、国家の意志を反映したものである。しかし、小泉政権以降の反新自由主義的な動きは、政権、国家の意志というよりは、むしろ権力の空白、あるいは不在によって、検察当局が独自の意志を持って動いていると見るべきだろう。ライブドアの本社に家宅捜査が入り立件された時は、小泉政権の末期にあたる。その権力の空白期から、検察は、特定の世界観あるいは先入観をもって動きはじめた。彼らの世界観とは、六本木ヒルズ族と呼ばれた新興企業群は、マネーゲームでこの国の企業文化を破壊し害悪を及ぼしているという魔女狩り的思想である。
小泉純一郎が政権の座を去ると、新自由主義的な改革路線は、一気に逆風を受けることになった。堀江の逮捕に続いて村上ファンドの主宰者、村上世影氏が証券取引法違反で逮捕、起訴された。村上ファンドに事件については、ライブドアの経営陣を逮捕したものの、そもそも大した容疑で立件できないことに焦りを感じた検察が、矛先を村上に向けた結果ともいわれている。
国家意志なき国策捜査が進行している
今回の小沢一郎の第一秘書をめぐる西松建設の不法献金問題についてはどうだろうか。
漆間官房副長官の「今回の捜査は、自民党には及ばない」というオフレコ発言によって、あたかも麻生政権が小沢追い落としと民主党へのダメージを狙って仕掛けた「国策捜査」のようにいわれたが、麻生政権が何かを仕掛けたわけではないというのが本当の所だろう。というのも、官僚機構も、検察機構も、この無脳宰相と官邸のことを心底バカにしているからだ。権力の不在のもとで展開されているのが、現在の国家意志なき「国策捜査」の実態なのである。
国策捜査が漂流している。
テレビ朝日のサンデープロジェクトに元検事の郷原信朗 桐蔭横浜大学法科大学院教授が出演して、今回の政治資金規正法をめぐる検察捜査が明らかに破綻しており、大山鳴動させて、公設秘書1人の立件に終わる公算が強く、無理をして二階堂経産大臣など自民党政治家にまで捜査範囲を広げるとさらに墓穴を掘ることになると述べていた。郷原氏の指摘が正しいとすると、検察の信用失墜につながる由々しき事態である。
先週、「大久保秘書が、罪を認める供述を始めた」というニュースがNHKや大新聞を通じて一斉に流れたことに違和感を持ったが、これもリークによる誤報だったようだ。当局が、メディアを使って、既成事実をフレームアップしていく手法が、またもやあからさまになってしまった。
漂流する権力、官僚、検察
検察による情報操作が、どうして常態化しているかといえば、日本の検察、特に特捜という組織が捜査、逮捕、起訴まで一貫して行えるということが関係している。こうした外部からのチェックシステムを持たない検察組織は先進国では日本にしかなく、自分たちが捜査した案件を空振りに終わらせず、必ず起訴に持ち込んで見せるというメンツやエリート意識がどうしても働いてしまう。本来、チェックシステムとして機能すべきメディアも当局から垂れ流されるリーク情報をもとに記事を書いているという情けない状況だ。
検察の暴走を「検察ファッショだ」と批判する声も上がりつつあるが、暴走というよりは「漂流している」というべきだろう。根本的な問題は、この国の政権がずっと脳死状態で権力の所在が、ひどく曖昧になっていることにある。この国を牛耳っているのは、政治家ではなく官僚であるとよくいわれるが、その官僚たちも先の見えない混迷の時代にあって行き場を見失って漂流している。国が漂流しているのだ。
そして、国家意志なき中で展開される「国策捜査」は、社会正義を振りかざす検察官とメディアによる「私刑(リンチ)」に限りなく近づく。
(カトラー)
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コメント
小生、経済音痴にて、貴殿に対して大きなことを言えるガラではありませんが、ホリエモンに関しては、「山根治」氏のブログを一読されることを、強くお勧めいたします。
投稿: 秀坊 | 2009.03.31 22:04
検察の機構が閉じた世界であり問題がある。
検察行動の規範を確立するために広い有識者構成の審議会を立ち上げ改革が必要である。
投稿: | 2009.03.31 23:09