ばらまき補正予算の影で進行する日本農業の緩慢なる死
政権交代を賭けた次回の衆議院総選挙では、自民党は農村部で絶対に負けるわけにいかない、そこで今回の補正予算案において、農業補助のためのさまざまな予算をばらまくことにしたのだ。民主党の農家に対する「所得補償」というのは、ネーミングが良かったので農家の支持を得たが、実際には転作農作物の販売価格が生産費を下回った場合にその赤字を補填する「生産費保証」に近いものだった。これに対して、現在、補正予算で審議中の農業補助は、総額で1兆302億円に上り、米粉用、飼料用米への転作支援、農地の貸し出しに対する助成金などのメニューが並ぶ。
農業向け補正、総額1兆302億円の大盤振る舞い
国内自給率の向上に繋がる米粉の増産や農地の集約化を後押しすること自体は間違っていないが、問題は単年度では、たいした金額にならないので、わざわざ基金までつくり、補正予算としては禁じ手ともいえる複数年度にわたる助成金としてをばらまこうとしていることだ。民主党の「所得補償」政策に必要とされるのは約1兆円といわれていたから、明らかにその金額に対抗させるために提出された補正予算案である。
問題は、こうした与野党の農家に対するバラマキ合戦で、この国の農業が再生する道筋が果たして見えるのかということだが、残念ながら、与野党ともに農村票を政権奪取のための手段としてしか考えておらず、誰も本気になって農業の再生などをやろうとしていないことが露呈している。
日本の農業の問題は、せんじつめると農地とその担い手の問題に集約される。日本の農地は、周知の通り、マッカサーの占領時代に農地解放が実行され、零細農家が小規模農地を分散化して保有するという現在の状態が生まれた。国際競争力を持った農業事業者を育成するためには、零細農家の土地を流動化させて集約化できるかどうかが根本的な課題と考えていたが、ゴールデンウィーク中に神門善久氏の「日本の食と農 危機の本質 (シリーズ 日本の〈現代〉) 」(NTT出版)を読んで、あらためてこれは一筋縄ではいかない問題だと実感させられた。
日本の農政の完全なる失敗をもたらしたもの
自民党、農林水産省そして農協(JA)が三位一体となって展開されてきた日本の農政は、戦後60年を経過して、完全な失敗に終わった。そして、今後も失敗しつづけるだろうということをこの本の著者、神門善久氏は明らかにしている。この本の後書きで自身のことを「トラブルメーカー」と自嘲気味に述べているだけのことはあって業界関係者には耳の痛い苦言が並ぶ、しかし、ここに書かれていることは、どれも紛れもない真実である。
神門氏は、規制緩和や法律改正など制度的な事柄をいくら変えても既に意味が無いと言い切る。これまでの猫の目行政のつけの結果、農業分野には膨大な法律、助成制度、省令、条例などが澱のように沈殿しており、それらは農水省のベテラン官僚でも理解不能な迷宮になっている。法律や行政のガバナンスも届かない機能不全状態に陥っているのである。
一例を上げれば、マスコミなどで農業分野での規制緩和がしばしば問題にされるが、実際は、日本の農地利用は無法状態もいいところで、農地がある日突然、道路や宅地に化けたり、工場団地の用地やショッピングセンターなどの建設用地に転用される。そして、そうした「宝くじ」に当たると、それまでほとんどタダのようなコストで保有していた「農地」から莫大な利益が農家に転げ込むことになるから、農地を簡単に手放したり、人に貸したりしないわけだ。
「転用」期待で流動化が進まない日本の農地
兼業農家のほとんどが、こうした将来の期待利益「宝くじ」として農地を保有しているために日本ではまじめに農業をやろうという事業者が育ってこない。政治の側でも「農業の近代化、集約による効率化」などの目標を表向き掲げてはいるが、効率化によって農家の数が減り、票田としてのうま味が薄れてしまうことを本音の部分では忌避していた面がある。土地成金になることを夢みているような、日本の農家の頽廃、そしてそれを是認し利用してきた、農協(JA)、農林水産省、そして政治家のもたれ合い「共犯関係」が日本の農業を駄目にしてきた。中には、こうした共犯関係に加担することを嫌って、独自の路線を選択した農業事業者も存在したが、その多くは村八分扱いをされて潰された。この本が静かに告発しているのは、そうしたこの国の農業のどうしようもない現実だ。
マスコミで垂れ流されているようなありきたりの農業改革論、すなわち「日本の農家は真面目にやってきたが、農政が駄目だからこんな体たらくになった」というような、農家を弱者として安全地帯に置いていないところが、この本の真骨頂である。日本の農業を駄目にしているのは、農家自身も含めた、行政、農協、政治家たちの農地利権を軸にしたもたれ合い、馴れ合いの構造にあるというのが、この本が示している苛酷な現実認識である。
なぜ、それが「苛酷な現実認識」か、といえば、この認識に基づけば、日本の農業は既に当事者たちに問題解決能力が失われていることを意味するからだ。だからこそ、これまで農業問題の現実には蓋がされてきて、国民的な議論の俎上に上げられることもなかった。気がついて見ると食料自給率は40%まで落ち込み、農業就業者の6割が65歳以上という崖っぷちに立たされており、あと5年もすれば、日本の農業は間違いなく崩壊する。要するに、日本の農業を乗せた木の葉は、今や滝壺に落ちる寸前の所にあり、しかもその木の葉に乗っている農業関係者、政治家は、この期に及んでもその現実を見て見ぬふりをしているのだ。
農業を開国し外国人労働力を受け入れるしかない
農業当事者たちに自らを改革する力がないとすれば、どうすればよいのか。この問に対して、神門氏は、農業の開国を提言する。
「まず提唱したいのは、日本農業への外国資本・外国労働者の導入である。残念だが、この視点は、これまでの農業論議で抜け落ちてきた。昨今の規制緩和論でも、企業、NGO、脱サラの農業参入がさかんに賞賛されるが、不思議なほどに外国からの参入は考慮の外に置かれている」(「日本の食と農」より)
農業開国論を主張する神門氏は、それだけ日本の農業が置かれている現実に対する絶望が深いということだ。日本の農業事業者が自ら変革する力を喪失しているのであれば、外の血を輸血するしか救命の方法はない。このブログでも農業の開国について取り上げたことがあるが、既に中国人農業研修生を日本の農村では受け入れが始まっており、その数は全国で2万人にも及ぶともいわれている。中国人労働者に頼らなければ、主食の米さえもまともに作れなくなるというのがこの国の農業の差し迫った現実だとすれば、「研修生」などという姑息な手段を使わずに、移民として受け入れ、腰をすえて日本の農業現場を担ってもらうのが長期的な食料安保上も望ましい。
農業の現場労働に耐えられない日本の若者
派遣切りが社会問題化し、職を失った彼らを農村に送り込んだらどうだという「徴農」発想でものを言う連中がいるが、現実がわかっていない。確かに、最近の不況で派遣切りにあって農業現場に飛び込んだ若者はいるが、そのほとんどが定着しないという。肉体労働のきつさと、農繁期には休みもとれないという労働サイクルに耐えられず、やめていってしまう。残念ながら、日本の若者に対して、農民として生きていく覚悟を要求すること自体に無理がある。米国でも、農業に従事しているのは、新参者の移民といわれるヒスパニック系の人々が半数を占めている。
「外国資本・外国労働者の導入は、とりわけ低所得国からの外国人労働力の受け入れは、さまざまな効果を持つ。・・・・・最初は雇われ労働者として就農するだろうが、やがて独立して農業経営を始める外国人も出てくるだろう。・・・そういう予想外の考え方との遭遇が、自分たちの欠陥を気づかせてくれるし、新たな工夫や技術を産む」(「日本の食と農」より)
農業に対して真摯な外国人農業事業者を受け入れることは、農家、農協(JA)、農水省、政治家によって形成されている馴れ合いの構造を打ち破る起爆剤になりうるのではという神門氏の指摘については全面的に同意する。やる気のある外国人に席を譲るほうが、この国の農業の将来にとって余程健全といえるだろう。
農業の再生ヴィジョンを持っていない政治
さて、もう一度、政治の世界に話を戻そう。自民党という政党は、歴史的に農村に軸足を持った政党であり、高度経済成長期には、都市と農村の経済格差を調整する利益再配分の調整弁となることで権力を掌握し続けた。農村は、都市に企業戦士を送り出し、見返りにこの国の外需産業が稼いだ富を補助金、公共事業という形で還流させてきた。自民党の地方選出議員は都市から農村への富の還流構造を支え、地元への利益誘導をはかることで、安定した票田を確保することができた。しかし、そのシステムは、明らかに破綻している。もはや国も地方自治体も公共事業で無駄なハコモノ、道路を建設できるような余力がなくなってしまったし、農村はもう老人ばかりで限界集落や耕作放棄地が急増し、数多くの村が存亡の危機に直面している。公共事業でカネが回せないなら、直接、農家にカネを落として票を確保しようというのが、農業分野でばらまきが行われていることの本質である。
愚かしいことは、様々な名目で農業にカネがばらまかれているが、誰ひとりとして、まともな日本の農業の再生ヴィジョン、プランを持ち合わせていないことだ。当事者の農家にしても、後継ぎを都会に送り出し、自分の代で農業は終わりと思っているわけだから、今更、何か事を起こそうとは考えないだろう。もちろん、一部には現状を憂いて先進的な改革志向の農業に取り組んでいる農家の方々もいる。しかし、そうした農家は、全体からすればほんの一握りでしかなく、大多数はこのまま朽ち果てていくだけだ。
政治が農業に対して無策なのは、ひょっとすると、こうした現状を全て承知した上で、確信犯的にあえて何もしないということにしているのではないかと勘ぐりたくなる。実際、日本農業の再生は、既に時間切れになっていると指摘する人もいる。というのも、農業という仕事は、標準化された工場労働とは異なり、経験とスキルが不可欠であり、農民として一人前になるには、どうしたって4~5年はかかってしまうからだ。現在の農家の方々が、超高齢化によって、あと5~10年しか農作業に従事できないことを考えれば、既に手遅れといっても良く、このままでは担い手問題から日本の農業は破綻する可能性が大きい。
こうしてみると、補正予算の農業へのばらまきは、緩慢な死に向かいつつある日本農業に対する最期のカンフル剤、消え入る花火の最期の輝きにも見えてくる。
(カトラー)
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コメント
ふーむ、そこまで日本の農業は深刻なのですか。
近郊の農家に弟子入りして、55歳から農業を始めようと思っていた私には、ショックな現実です。
カトラーさんのブログには、朝青龍問題のときの「品格」論議からときどき尋ねていました。ここで紹介されている「日本の農と食」、私も勉強してみます。
少ない収入で細々と生きる方法として農業に活路を見出していたのですが、法律や各種の助成が澱のように溜まっている状態というのは、わかるような気がします。(でないと、あんなにJAが幅を利かせるわけないですね)
社会に心を閉ざさず、善意ある市民として農業に取り組む方法をさらに模索したいです。
投稿: ふじこ丸 | 2009.05.21 14:24