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環境バブルの足音が聞こえる?「クリーンテック投資」競争が始まった

Cleantech 環境分野に膨大なマネーが注ぎ込まれようとしている。この数年のうちに環境バブルは必ずおきるだろう。

来週からコペンハーゲンで開催されるCOP15では、米国と中国を枠組み合意に引き込むことが期待されていたが、そこまでの合意形成は難しそうな雲行きだ。しかし、二酸化炭素の2大排出国である両国は、COP15の開催に先だって、早々と独自の削減目標値を発表していることからもわかるように、昔とはうってかわり、両国ともこの問題に積極的にコミットするという姿勢を見せている。そこには、二酸化炭素削減というグローバルな課題に関しても世界の主導権を握るという意志がありありと見えている。

環境がカネのなる木になった

かつては、「二酸化炭素削減を発展途上国にも強要するのは先進国のエゴ」と真っ向から否定していた中国政府、そして、ブッシュ前政権の時には、京都議定書を反故にした米国が、こぞって積極姿勢に転じているのには理由がある。環境がカネのなる木になる前提が揃ってきたからだ。

米国では既に4~5年前から環境分野のテクノロジーに対する投資が活発化しており、「クリーンテック」というキーワードがシリコンバレーを席巻している。2006~2008年の3年間でVCのクリーンテックへの投資は3倍に急増し、1200億ドルの規模にまで膨らんできた。オバマがグリーンニューディール政策を掲げて、当選してきたのには、こうした背景があることを理解しておく必要があるだろう。
クリーンテックとは環境テクノロジジーという意味だが、これまでいわれてきた「環境技術」や「グリーン(Green)テクノロジー」と何が違うかといえば、端的にいえば、これが「カネの臭いのする環境テクノロジー」という意味をもって使われている点である。

米国を席巻する「クリーンテック投資」

この分野のスポークスマン的存在で「クリーンテックリボリューション 」という本を著したRon Pernic は、以下の8分野をクリーンテックのカテゴリーとして示している。

①太陽光発電・太陽熱(solar power)
②風力発電(wind power)
③バイオ燃料(bio fuel)
④グリーンビル(green buildings)
⑤EV,pHV(personal transportation)
⑥スマートグリッド(smart grid)
⑦モバイルアプリケーション(mobile application)
⑧浄水(water filtration)

この著書の中でRon Pernicはクリーンテックという言葉に一応の定義を与えているが、先にものべたようにそれは明確なものではなく、もともと、シリコンバレーのベンチャーキャピタリストの間で流行っていたバズワード(Buzz word)を拾っただけのものなので、ちゃらちゃらした底の浅い概念だ。「原子力はクリーンでないからクリーンテックのカテゴリーには入れない」などともっともらしい説明を加えているが、要は、原子力のような分野はプレイヤーが限定されすぎていて、自分たちの出る幕がないと思っているだけだろう。

しかし、IT、インターネットの場合もそうであったように、バズワードでビジネスを盛り上げ、既成事実やデファクトを作りあげてグローバル市場を制していくのが米国流ビジネスの真骨頂であり、IT、インターネットで成功した同じ手法で米国は世界の環境テクノロジーのイノベーションについても再び主導権を握ると宣言しているのである。

「責任投資原則」のもとで進むEUの環境投資

ヨーロッパに目を向けると、米国などよりもっと本格的で真面目な動きが進行しつつある。
ヨーロッパの環境投資の主役は、ベンチャー企業やVCではなく、年金資金のような存在である。
米国でエンロンが破綻したことなどをきっかけとして、「責任投資原則」という考え方が広がっている。儲かれば何に投資しても良いのではなく、投資活動を行っていく上での社会的理念、投資家の責任原則を構築しようというものだ。

年金のように、本来、長期、安定的なリターンを求める資金にとって、たとえ大きなリターンが期待できるとしてもリスクの大きいベンチャー投資やヘッジファンドで運用することにはそもそも抵抗感があった。そうした所に今回のリーマンショック以降の金融危機でリスクマネーに対する投資が大きく裏目に出てしまった。ヘッジファンドに運用を任せていたために、リターンを得るどころかポートフォリオの1~2割を失ってしまった年金資金もあった。
しかも、ヘッジファンドは、投資の中味を明らかにしないので、自分たちの資金がどのように使われ、どんな理由やプロセスを通じて失われたのかを知ることさえできないということに大きな反発が広がっている。今後は、ヘッジファンドなどでの運用を行わないという意思決定をする年金資金も現れている。

長期、安定的なリターンに適した環境への投資

こうした金融秩序の混乱の中で、逆に関心を集めているのが、環境分野への投資である。
環境分野への投資は、本来的に未来の世代のためのものであり、リターンさえ伴えば、資金としての本質に合致している。日本も含めて、年金や保険の資金は、年利4~5%という利回りを前提に制度設計されており、要は、この利回りが可能であって、社会的にも良いことであれば彼等としては大歓迎ということになる。

たとえば、砂漠に太陽光発電パネルを敷き詰めてメガソーラー発電所を建造するプロジェクトを想定した場合に、膨大な初期投資を年金資金が担うということが、今後期待されてくることだ。砂漠から上がってくる電力を販売して得られるリターンが利回りで4~5%に相当すれば、年金資金としては十分に取り組む価値ありということになる。ヘッジファンドのように年利3,40%といった高利回りでなくてもいい、4~5%を安定的に実現できるのであれば、そちらの方がはるかに望ましい。

問題は、それだけのリターンが上げられるかどうかだが、ここで奥の手が登場する。政府である。つまり、電力の買い上げ額を投資のリターンに見合う水準にまで引き上げてしまえば良いのである。

政府もコミットする環境投資の仕組み

ドイツはこうした考え方と戦略によって、あっという間にシャープを追い抜いて自国のソーラーパネルのベンチャー企業Qセルを世界一の太陽光発電パネルメーカーに育て上げた。日本のマスコミなどでは、一夜にしてQセルのような企業が生まれたという表面的な現象ばかりが強調されるが、もっと重要なのは、その背後で政府もコミットする形で環境技術に対する投融資の仕組み、金融面のインフラ整備が進められていることだ。

Clean_tech_chart このことは、右の図のように示すことができる。
すなわち、環境技術の革新と投資、公共政策は、これまでも関連しあっていたとはいえ、それぞれ別々に動いていた。しかし「クリーンテック」という言葉の登場が象徴的に意味するように、その3つの領域が重なり合ってきたというのが現在見えてきた現実だ。

今後は、環境分野のテクノロジーイノベーションは、国家をまるごと巻き込んだ熾烈なグローバル競争となっていくだろう。米国も中国もEUも、そのゲームの始まりを前に、神経戦を開始している。

環境イノベーションに必要とされる戦略的な「強い政府」

翻ってこの国の状況はどうだろうか。
政権交代によって、環境問題に対する取り組みはとりあえず前に進みつつあるように見える。鳩山首相が打ち出した二酸化炭素の25%削減目標も国際社会からは評価を受けている。
しかし、問題はこの先だ。環境技術で日本は数多くの分野でトップレベルにあるといわれるが、総花的に優位でもこれからの環境戦争に勝てるとは限らない。むしろ、このままでは要素技術をたくさん抱えた単なる「環境デパート」で終わってしまいかねないと危惧を抱いている。
米国は、要素技術において、日本よりもプアだから、戦略分野をクリーンテックという言葉で8つに絞り込んできた。鳩山政権に求められるのも、ゲームの土俵そのものを創造していく戦略性だろう。

政府がコミットするというと、「大きな政府」を志向するのかと言い出す輩がいるが、「大きい政府」「小さい政府」が問題なのではなく、「強い政府」になることが必要なのだ。

(カトラー)

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花王エコナのトクホ失効の波紋と「リスクゼロ」という神話

Ecn_oil_00_img_l 花王の食用油「エコナ クッキングオイル」に発ガン物質「グリシドール」に変化する可能性のあるグリシドール脂肪酸エステルが多く含まれることが報告され、社会問題にまで発展した。

花王は、政府の食品安全委員会に対して、エコナのグリシドール脂肪酸エステルの含有量について報告し、エコナおよび関連製品の販売自粛に踏み切る一方で、消費者に対してはエコナの安全性そのものについては問題がないとアナウンスしていた。しかし、発足したばかりの消費者庁がトクホの認可取り消しに向けて再検討に入ったのを見て、花王は自らトクホの失効を申請した。

消費者庁の対応を巡って思い出されるのは、昨年のマンナンライフの「蒟蒻畑」をめぐる問題である。こんにゃくゼリーを喉につまらせ幼児や老人が死亡する事故が相次いだため、国民生活センターは注意勧告を出し、マンナンライフ側もパッケージにリスク表示を掲載するなど対応を進めたが、昨年の7月に幼児が同様の事故で死亡ことを受けて、当時の野田聖子消費者行政担当相は製造元であるマンナンライフを内閣府に呼び、再発防止策の徹底を要請したために、マンナンライフはついに製造中止にまで追い込まれてしまった。

新聞、テレビなど大マスコミは、「安全」を錦の御旗にメーカーにあくまで完璧を求める野田聖子の姿勢に同調した報道を行っていたが、ネットや一般消費者の中には「これはやりすぎ」という声があがり、製造中止に追い込まれたマンナンライフに激励の電話が殺到した。

こんにゃくゼリーバッシングと同じ構図

こんにゃくゼリーの問題については、私も当時の野田聖子消費者行政担当相がとった対応は明らかに行き過ぎだったと考えている。こんにゃくゼリーを喉に詰まらせて不幸にして亡くなられた幼児やご老人には同情の念を禁じ得ないが、同じような事故は、餅など他の一般食品でも多発している。こんにゃくゼリーだけを槍玉にあげるのは、いかにも公正さを欠き、これは安全に名をかりた、有権者への点数稼ぎ、ポピュリズムに過ぎないだろう。

今回のエコナの問題についても、同じ臭いが感じられる。福島瑞穂大臣は、消費者庁発足の最初の手柄にしようとしていたことが見えみえで、スケープゴートにされることを嫌った花王が、先回りしてトクホの失効を申請したというのが本当のところだ。

エコナの問題が発生した背景には、測定機器の精度が飛躍的に向上したという事実がある。問題となったグリシドール脂肪酸エステルは、エコナだけでなく、パーム油など他の一般の食用油にも含まれているが、エコナはそれらに比べ数十倍多いということが問題となった。
しかし、どの程度であれば、健康上問題なのかは、知見があるわけではない。グリシドール脂肪酸エステルが問題であるということであれば、一般の食用油も程度の差こそあれ「発ガンリスクがある」ということになる。

野田聖子大臣は、こんにゃくゼリーよる死亡事故が17件であるのに対し、餅による事故の方が168件も発生していることを問われて「餅は喉に詰まるものだという常識を多くの人が共有しているから」と訳のわからない説明をしていたが、今回のケースでも、逆に、エコナと同じようにグリシドール脂肪酸エステルが含有されている一般の食用油は安全である根拠はどこにあり、放置しておいていいのか?と問われたら、福島瑞穂大臣は何と返答するのだろう。

リスクを完璧に排除したら食べられるものが無くなる?

食の安全は重要だが、リスクを完璧に排除していったら、この世の中からそれこそ食べられるものが何も無くなってしまうだろう。しかも、そのリスクは、もともとその食品自体に内在していたものが、測定機器の能力向上やマスコミの報道によって可視化されただけで、本質は何も変わっていないかもしれないのだ。

考えてみれば、太古の人類にとって、食とは、命がけで獲物を捕ってくることであり、常に細菌感染や毒物を回避しなければならず、そもそもが大きなリスクを伴うものだった。それに対して、現代では、食物は安全であることが、当たり前とされ、例えば、食べ物の賞味期限が少しでも過ぎているだけで、ゴミ箱行きだ。私のようにチョット臭いを嗅いでこれは平気だと思えば食ってしまうような人間は、野蛮人扱いされてしまう。

日本人が食の安全性にこだわり、リスクを徹底的に排除しようとするのは、衛生観念が発達し完璧を求める国民性の現れであるというように説明されたりするが、私はそうは思わない。このことは、単に戦後日本人のリスクに対する考え方が幼いことを示しているに過ぎないと考えている。
食の安全を追求することを全て止めろとはいわないが、この世界には、コントロールできないリスクが存在していると考える方が、人間としては余程現実的であろう。こんにゃくゼリーをバッシングしても餅の飲み込み事故は無くならないように、物事のリスクを排除することには限界がある。
そうしたまともな現実感覚、バランス感覚が、この国の人々に欠如しているとすれば、それはリスクに対する感覚がどうしようもなく鈍磨しているからではないか。

あえて極論すれば、この国では戦後60年、戦争やテロで殺された人間がいないからだ。

リスクをゼロにすることよりヘッジすることを考える

華僑の人々は、戦争や政治クーデターなどで一夜にして全てを失うリスクというものと何世代にもわたり向き合ってきたために、リスクをヘッジする感覚や生き方が身に付いている。私の知り合いの華僑中国人は、息子や娘を、米国、日本、ヨーロッパといった世界各地に留学させている。ひとたびどこかの地域で致命的な事態が勃発しても、他の地域の兄弟がその危機から家族を助け出すことができるからだ。ようするに、リスクをゼロにすることではなく、リスクが存在することを認めた上で、そのリスクをヘッジすることを彼等は考えている。

食品の安全性、リスクゼロを追い求めること自体は否定しないが、反面、そうした内向きな議論ばかりをやっていることが、食に関するもっと大きなリスクを隠蔽することにつながっているのではないかと危惧している。例えば、それは、食糧危機のリスクだ。

Shibusawa_data2 世界の一人あたりの耕作可能な農地の面積は一貫して減り続けており、限界値といわれる10アールにまで減少している。農学者によれば、10アールの耕地が一人の人間が生きていくのに最低限必要な面積であり、これまで、何とかやってこられたのは、単位面積あたりの収量が農業・栽培技術の進歩などにより、一貫して伸びてきたからだという。しかし、現在では、ひとたび凶作などが世界のどこかで発生すると、食糧危機が全世界に広がるという状況下にあることは、ほとんど知られていない。

食料危機の巨大なリスクの下にある世界

食糧危機という巨大なリスクがあるから、食品の安全性のリスクには目をつぶってもいいなどと言うつもりはない。リスクをゼロにすることに血道をあげるより、リスクをヘッジすることに知恵を使う方が余程賢いといいたいだけだ。

花王エコナの問題が顕在化してから、トクホや機能性食品そのものを否定するような論調も出始めている。トクホの管轄が厚生労働省から消費者庁に移されたことで、トクホの認定が全く進まない状態になっており、業界から悲鳴が上がっている。

トクホの認定は、厚生労働省時代には専門家による委員会で検討されていたが、消費者庁に移管されてからは、消費者代表から成る消費者委員会に託され、結果的に果てしのない安全性論争が繰り広げられているという。彼等は至極まじめな信念の持ち主なのだろうが、リスクゼロをいうことは、宗教的信仰と何ら変わるところがない。
私自身は、自分が食べるもののリスクは、自分で判断したい。その判断材料は示してほしいと考えるが、消費者保護の名をかりて彼等の「宗教的信念」を押しつけてほしくない。
エコナの問題に即していえば、エコナをどれだけがぶ飲みすれば、ガンのリスクが生じるのか、そのデータを示してさえくれればいい。そうしたデータが無いのなら、無いということだけ言ってもらえばいい。

(カトラー)

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