« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

キンドル、iPadの上陸で窮地に追い込まれる日本の出版界

Ipad

<本稿は、日経BP 朝イチメール(2月16日配信)に掲載されたコラムです>

 アマゾンのキンドルに対して、アップルがタブレット型のデバイスiPadを3月に発売することを発表して、電子出版に俄然注目が集まってきました。iPodが音楽のiTuneに対応したように、iPadは本のダウンロード販売のプラットフォームとなるとアナウンスされています。スティーブ・ジョブズは、iPodで音楽配信の世界に革命を起こしたように本のコンテンツ流通にも革命を巻き起こすのでしょうか。不況で喘ぐ日本の出版界からは、期待と不安が入り交じった声が聞こえてきます。

電子出版という「黒船」

結論からいえば、不況に呻吟する日本の出版業にとって電子出版は、救世主になるどころか、逆に「黒船」になると考えています。電子出版の時代が到来しても広義のPublishingは形を変えて生き残っていくと思いますが、産業としての出版業の崩壊が加速するでしょう。

新聞、出版業界の不況の原因として若者の活字離れが言われて久しいですが、このことについて誤解してはいけないのは、彼等はテキスト情報そのものから疎遠になったわけでも、情報に対するリテラシーが低下しているわけもないことです。新聞業界には、新聞を買わない若い世代のことを「無読層」と呼ぶ、思い上がったとしか言いようがない悪習がありますが、「無読層」と呼ばれる若者たちは単に新聞や雑誌などを買わないだけで、ネットや携帯からむしろ主体的に取捨選択しながら情報を取り込んでいます。要はお金をかけて新聞や雑誌は買わなくても、膨大な情報の森の中から必要な果実(情報)を遊牧民(ノマド)のようにハンティングする感性とスキルを持ち合わせているということなのです。

出版コンテンツに対する総需要は拡大しない

だから、新聞が電子新聞になろうが、雑誌や本が電子出版に変わろうが、そうした情報空間に棲息するノマドたちには何ら影響を及ぼしません。上から目線の新聞や出版の情報ではなく、検索エンジンやTwitterのつぶやきから自分にとって必要な情報にアクセスしていきます。つまり、出版が電子化したとしても、そのこと自体により活字離れしている層を呼び戻すことができるわけではなく、電子出版によって出版コンテンツに対する総需要は結局のところ拡大しないでしょう。

一方、電子出版の普及は、既存の書籍の価格を破壊します。米国では、既にアマゾンのキンドルを通じた書籍コンテンツの流通が定着していますが、キンドルで流通する書籍コンテンツの価格は、アマゾンが決定権を握っており9.99ドルという標準価格を設定しています。ハードカバーの書籍の平均価格が20~25ドルですから、これは半値以下ということになります。紙や製本、物流費がかからない分だけ安くなるのは当然ですが、書籍の印刷・造本コストというのは、定価の20%程度なので、アマゾンの標準価格には明らかにダンピングが存在しています。
しかも、電子出版ではコンテンツ流通に関わるプレイヤーの力関係が逆転しており、出版社はプラットフォームのホルダー、すなわちキンドルの場合であれば、アマゾンに圧倒的に依存することになり、昔のように本を7掛けで書店(小売り)に卸すなどということはありえません。最近までアマゾンが6.5割、出版社が3.5割というのが、電子書籍のコンテンツ流通の常識になっていました(1月20日、アマゾンは条件付きで出版社7割のオプションも提示)。

電子書籍の流通は、従来の四分の一の条件

つまり、出版社にしてみれば、売価が二分の一になり、なおかつそこからの取り分が従来は7割あったものが3.5割に減じられてしまいます。リアル書籍の売価を仮に100とすれば、出版社の取り分は従来は70であったものが、電子書籍の場合は100×0.5×0.35→17.5となり四分の一になってしまうのです。

こんな条件にもかかわらず、出版社が電子書籍に踏み出さざるを得ないのは、日本の出版流通の世界がとうに崩壊している現実があるからです。日本の出版界には米国とは異なる特殊事情として再販制度の問題があります。本や雑誌が定価で販売される代わりに、書店は買い取りの義務を負わずに、取次会社を通じて売れない本は返本する仕組みになっています。問題はその返本率が、現在、出版業界全体で50%に達しようとしていることです。発行された本の半分が売れないまま出版社に戻され、倉庫に山積みされるか、廃棄処分に回されているのが出版界の現状なのです。

発行した本の半分が売れずに戻ってきて、しかもそれを処分しなくてはならないとすれば、例え売価が二分の一であっても在庫を持たないで済む分だけ出版社にとってはありがたい、取り分が大幅に減じるとしても、電子出版という新しいチャンネルを通じて、ひょっとしたら販売数量も増えて帳尻が合いはしないか、という甘い幻想が生まれているのです。

返本率50%という日本の出版界の現実

そもそも、情報コンテンツはトイレットペーパーや卵のような必需品ではないので、価格を下げることが需要の拡大には繋がりません。本来的にはコンテンツの価値を高め、プレミアム化させることでさらに価格を上げることを考えることがマーケティング上は望ましい選択といえるでしょう。
しかし、このコラムも含め、世の中にはフリーのコンテンツが溢れかえっているために、よほど差別化された内容でない限りプレミアム化は難しいのです。

かくして、既存の出版業は、アマゾンやアップルが仕掛けてくる価格破壊に抵抗するどころかむしろ自ら進んでその流れにコミットしていくしかないでしょう。

口惜しいのは、キンドルやiPadによって本のコンテンツ流通のプラットフォームづくりを仕掛けてきたのが、結局のところアマゾンやアップルであったことです。この間、ソニー、パナソニックといった日本企業も電子出版には取り組んでいましたが、e-bookという狭いカテゴリーの中で競争していただけで、世界に通用する大きな仕掛けを今回も構築することができませんでした。

もっとも、仮にプラットフォームホルダーがアマゾンやアップルでなくソニー、パナソニックになったとしても既存の出版業にとって状況は変わらないでしょう。出版社が供給側の論理で出版ビジネスを展開できた時代は終わってしまったのです。

(カトラー)

日経BP社が配信する朝イチメールの毎週火曜日のコラムを担当しています。以下からぜひご登録ください。

http://mobile2.nikkeibp.co.jp/p/asaichi/

| | コメント (3) | トラックバック (1)

映画「アバター」に仕掛けられたキャメロン監督の企み、あるいは「胡蝶の夢」

Avater

ジェームズ・キャメロン監督の3D映画作品「アバター」が世界的な大ヒットになっている。

私は昨年の年末の封切り直後に、近所のシネコンまで見に行ったが、構想14年、製作に4年を費やした3D映画の大作という触れ込みに、見せ物小屋にでも行くような興味が先行していただけで、正直なところ、映画の内容などにはほとんど期待を持っていなかった。が、実際に観て、いっぺんに虜になってしまい、既に2回この作品を観るために映画館に足を運んでいる。

この映画の誕生によって、映画を観るという行為の持つ意味が根本から変えられてしまうだろう。それぐらい、これからの映像表現にとってこの映画は画期的な意味を持つ作品だ。
14年前にアバターという映画の構想の方が先に生まれ、3D映像の技術が後から追いついてきて、その最新技術をブラッシュアップさせながら作品が創り上げられていったそうだ。キャメロン監督は、当初予定されていた公開日程を延期させてまでも、新しい3D技術の採用にこだわったようだが、映画を観てその理由がはっきり理解できた。

反戦、反アメリカ映画として第一級の作品

この映画は様々な観点から評価できるだろうが、私はこの作品が反戦、反アメリカ映画として第一級のものであることを指摘したい。
この映画の映像体験の対極に位置するのが、米軍の圧倒的な軍事テクノロジーのショーとなった1991年の湾岸戦争の映像だ。コンピュータゲームの世界のようにミサイルが海上を渡り、何百㌔も離れた軍事標的を寸分違わない正確さで破壊する映像がCNNを通じて全世界のテレビから繰り返し流された。ただ、それはゲームではなく、今、この現実に起きていることであり、その映像の先にはリアルな人間の死が存在していた。
その最もリアルであるべき人間の死をコンピュータゲームの中で進行している出来事のように感じてしまった後では、全てのイメージ、映像表現は、単なる見せ物になってしまう。

湾岸戦争後、全ての映像作家たちに課せられた十字架は、巡航ミサイルが現実にビルを打ち壊している映像を超えるリアルを誰も表現できなくなってしまったということだ。

キャメロン監督は、その十字架を3Dという魔法を手にしたことで解き放った。
3D映像によって観客は侵略戦争のただ中の空間に引きずり込まれ、圧倒的な力により、一方的に破壊が進行していく様を目の当たりに体験させられる。その体験を通じて観客は、20年前にテレビゲームのように見ていた映像の背後にあった本当の現実を追体験させられるのだ。さらに、この映画を観た人たちは、米国という国家が常に侵略行為と不可分であった歴史の記憶をも呼び醒まされる仕掛けになっている。
この映画に登場する青色の肌をもった異星人ナヴィ族は、自然と感応する霊的能力を持った種族として描かれ、スペイン人ピサロによって滅ぼされたインカの民や白人の西進とともに殺戮され故郷を追われたアメリカインディアンの姿が彷彿とさせられる。

正義のカウボーイの歴史を真っ向から否定

未開の地を切り開き、野蛮な原住民を蹴散らかして西進するというのが、米国のフロンティアスピリットの本質であったとすれば、そうした正義のカウボーイの歴史をこの映画は、真っ向から否定しているといってもよいだろう。
この映画は、日本と同時に米国でも封切られている。ナヴィ族が体現している自然と共生するアニミズム的な世界観への共鳴は、私たち日本人にはむしろ馴染み深いものだが、米国人はこの映画の隠された反カウボーイ、反アメリカメッセージをどのように受けとめているのだろうか。
米国の私の友人によれば、この作品に対して保守派の反発も生まれているが、むしろ、前政権のカウボーイ・ブッシュによって主導された「ブッシュの戦争」で深く傷ついた米国人の自信や心のトラウマを癒している作品としてとらえられるという。

物語では、過去の戦闘で負った脊椎損傷で半身不随となった主人公の元海兵隊員ジェイクが、傭兵として、物語の舞台、惑星パンドラにやってくる。ジェイクはアバターとリンクしてナヴィ族にスパイとして潜入するミッションを与えられるが、ナヴィ族との接触を通じて徐々にその世界観を学び、遂にはナヴィ族の一員として受け入れられるまでになる。物語のクライマックスでは、地球人(スカイ・ピープル)の侵略に対して、ナヴィ族の戦士として立ち向かう。

米国の贖罪と新たな再生神話の創造

ネタばれになってしまうが、ラストシーンで主人公のジェイクはナヴィの一員として生まれ変わる。つまり、キャメロン監督が、この作品で明確に意図しているのは、米国のこれまでの侵略や開発至上主義的な自然破壊に対する贖罪と新たな再生神話の創造といえるだろう。

米国でもこの映画が大ヒットしている背景には、アメリカ国民が深く傷つき、新たなアメリカン・ドリーム、希望の物語を欲しているということがあるだろう。ただし、その希望の物語とは、きらびやかな車やプール付きの家やシャンパンで彩られたものではない、
荘子が2300年前に語った「胡蝶の夢」のように、夢の世界で舞うはかない蝶のようなものだ。

アバターと荘子の「胡蝶の夢」

「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」

アバターとは、この荘子の説話に登場する胡蝶のようなものといえる。胡蝶の夢の説話と同様にアバターの世界では、夢と現実が混じり合い、その境界が無意味なものとなる。もっとラジカルにいえば、アバターという作品によって提起されたものは、その境界線を無化してしまうことで世界を変えてしまおうという高度な企みなのだ。ジェームズ・キャメロンが、3D映画に見た戦略的な可能性は正にその点にこそ存在しただろう。

この映画を観ながら、3D映画のテクノロジーを使って、等身大のロールプレイゲームをやったらどんな感じだろうと考えていた。パソコンの平面世界のネットゲームでさえ、はまりこんでしまうゲーマーが数多くいるくらいだから、仮に3Dのゲーム空間が登場したら、一生そこから出てこない若者も出てきて社会問題化するかも知れない。アバター的な現実とは、産業的にも大きな広がりを持ってくるだろう。

キャメロン監督の次回作のテーマは「原爆」

昨年の年末、ジェームズ・キャメロン監督は、日本を訪れ、広島の病院で一人の老人を見舞っていた。
その老人は、山口彊(つとむ)さんといい、戦時中は三菱重工の技術者だったが、広島、長崎の両方で被爆するという苛酷な運命を背負った。ずっとその二重被爆という重い体験を誰にも話していなかったが、次男を2005年にガンで亡くしたことをきっかけにその体験を公に向かって語りだした。
山口老人は、オバマ大統領にも手紙を書いたが、ジェームズ・キャメロン監督が、次回作品で「原爆」をテーマにしているという話を聞き、直接会って話したいと希望していたという。

キャメロン監督は山口老人に面会し「あなたのような稀有な経験をした人を後世に伝えるために会いに来た」と語りかけたそうだ。面会後、山口さんは「使命は終わった」と話し、今年の1月4日、93歳で死去した。

ジェームズ・キャメロンは、次の原爆を題材とした作品で、山口老人の体験を全世界の人々に共有させることを企むのだろう。それは、果たして、人類の犯した過ちに対する贖罪と再生の物語になるだろうか。

(カトラー)

| | コメント (3) | トラックバック (4)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »