漂流する日本政治とファシズム化する市民目線
「陸山会」の土地取引事件に絡んで東京地検特捜部が小沢一郎を不起訴処分としたのを検察審査会が「起訴相当」と議決、政界に激震が走っている。
議決書によれば、政治資金収支報告書を提出するにあたり、小沢一郎が「確認することなく、担当者がすべて真実ありのままを記載していると信じていた」と供述したことを「きわめて不合理・不自然で信用できない」とし、「『秘書に任せていた』といえば本人の責任は問われないで良いのか」「『政治とカネ』にまつわる政治不信が高まっている状況で、市民目線からは許し難い」としている。
そして、この検察審査会の「起訴相当」の議決は11人全員一致によるものだったという。
マスコミ各社もこの議決書にある「市民目線」というキャッチフレーズを捉えて、翌日の新聞各紙の朝刊にはこの言葉が「起訴相当」という見出しと共に踊った。
全員一致で小沢一郎を糾弾する「市民目線」
私は、この議決書の文中に「市民目線」という言葉を見いだした時に異和感と気味悪さを感じざるを得なかった。
かつて検察庁が金丸信を政治資金規制法違反で略式起訴した際に、上申書を提出させただけで事情聴取さえも行わなかったことに猛烈な批判が集まり、検察庁の看板に黄色ペンキが投げつけられたことがあったが、この時の黄色ペンキこそが「市民目線」だということをこの言葉を無批判に使った多くのマスコミは理解していただろうか。
全員一致で「起訴相当」が決まったことで「市民」と称する人々は溜飲を下げたのかも知れないが、それはひょっとすると「市民」の名をかりた公開人民裁判に他ならないのではないか。司法制度改革によって創設された、市民参加の裁判員制度や検察審査会等の制度自体を否定するつもりはないが、「市民目線」を自ら標榜し、全員一致で小沢一郎を糾弾する「市民」とは一体何者なのかと自問してみる価値はある。
小沢一郎の「起訴相当」のニュースが流れている最中、独立行政法人、公益法人を対象とした第二弾の事業仕分けが行われた。支持率の急降下に浮き足立つ鳩山政権にとって、政権を浮揚させるための唯一の切り札となっていることもあり、前回以上に「政治ショー」として演出されたものになったが、仕分け人側から独立行政法人、公益法人の担当者や官僚たちに投げかけられたのは「国民目線からは著しく無駄使いである」というフレーズだった。
民主党が、「国民目線」という言葉に乗っかって、官僚や天下り役人を糾弾する一方で、民主党政権にかろうじて残された統治(ガバナンス)を握っている小沢一郎が、その同じ「市民目線」によって窮地に立たされている。そこに日本政治の不毛と漂流を招いている共通の意識構造を見いだすことができるのではないか。
「統治(ガバナンス)」の実現が大衆の本音
私は政治や政治家という人種が嫌いだが、それは、政治の本質が権力(暴力)であり、その力を源泉としたガバナンス(統治)であるからだ。しかし、私が他方で小沢一郎という政治家を評価するのは、日本の政治家で唯一このことを理解し、ガバナンス(統治)としての政治を確信犯としてやっている職業政治家、プロフェッショナルと思われるからだ。
日本の政治家は誰もが「民主主義」を標榜するが、実は、大衆にとってはもっとクリティカルなものがある。それは生活の安寧につながる「統治(ガバナンス)」の実現である。自分の身の安全と財産の保障とそこそこの自由が認められるのなら、例え非民主的な政府や暴君であっても構わない、平穏無事が一番と考えるのが「大衆」の本音であり本質であることは、過去の歴史や現在の中国が証明している。市民的な自由や民主主義が不必要だといっているのではない、生活者にとってそうしたイデオロギーよりも「統治」の実現、別の表現をすれば小市民的平和の方がしばしば優先されてきたということだ。
現在の民主党政権でいえば、こうしたガバナンス(統治)としての政治の為政者として全く無能なのは鳩山由紀夫であり、有害なのが、仙石由人のような政治家である。鳩山由起夫の統治者能力の欠如については今更並べ立てるつもりはないが、そもそも人が人を支配することが求められる「政治」の世界とは無縁な人物であり、鳩山家の長男でなければ、政治家などになるはずもなかった。彼の頭の中にはそもそも「統治」という概念自体が存在していないと思われる。しかし、現実の政治は統治の問題が8割方を占めるので、小沢一郎のような政治家が後見役として存在しなければ、一日たりとてまともな政権運営ができないだろう。
普天間問題では、自分の指導力を発揮しようと精一杯力んだが、暴走する鳩山に小沢一郎が黙りをきめこんだ結果、にっちもさっちも行かない袋小路に入ってしまった。
批判者にはなれても統治者にはなれない
仙石由人が有害というのは、市民目線や党内民主主義を唱え、一見リベラルな姿勢をとっているが、この人物が常にガバナンス(統治)を毀損させる方向でしか政治行動を行っていない点にある。仙石自身は批判者になれても統治者にはなれないという意味では鳩山由紀夫と一緒だが、常に反権力という立ち位置に自分をポジションさせようという意識がある分だけ鳩山よりも悪質だ。
この仙石タイプの人間は、全共闘世代の典型であり、戦後民主主義を盲目的に信奉し、「市民目線」「国民目線」という言葉を持ち出せば、全ての問題が解決すると思いこんでいる。
仙石は、国民の喝采を浴びた事業仕分けについて「文化大革命が起こってますよ」という発言を度々行って自画自賛しているが、これは言葉のアヤだけの問題ではないだろう。人民の名において、全ての既存権力を反革命として否定した毛沢東の文化大革命に対する礼賛の記憶が意識の底に澱のように沈殿しているから、こうした発言が事ある毎に浮かび上がってくる。
革命ごっこに興じているだけの政治家
ところで、毛沢東はイデオロギー世界の「人民」ではなく、現実の中国人民をこれっぽっちも信じていなかった。が、この言葉を利用して自身の権力闘争のために「文化大革命」を巻き起こし、敵対する政治勢力や多くの有能な人々を人民の名の下で虐殺した。
「革命ごっこ」に興じているだけの仙石のような政治家に極悪人の毛沢東を重ね合わせること自体愚かしいことであるが、「市民」や「民主主義」というものに何の疑いももっていない、仙石のような頭でっかちのイデオロギストの下で「国民目線」を掲げて事業仕分けを行っていけば、いつしかそれが「公開人民裁判」と化してしまうことは必至である。
文化大革命では、人民の名の下、毛沢東の政敵に対する糾弾に始まった運動が、地方で利権を握っていた官僚、地主、革命前に資本家だった者、医者や知識人などへの粛清へと拡大し、中国の経済、文化に計り知れない打撃と深い傷跡を残した。恐らく、文化大革命の後期に見られた粛清運動の広がりは当の毛沢東も予想だにしていなかったものだろう。「市民(人民)目線」は時に暴走し、誰も制御ができなくなるのだ。
小沢一郎の問題に話を戻すと、「起訴相当」と全員一致で議決されたことで、今後は再審査、再議決、強制起訴というシナリオが現実味を帯びてきた。強制起訴に持ち込まれれば小沢の政治家としての生命は終わる。とすれば、夏の参議院選を控え、選挙戦に一番有利な時点で「引退カード」を切って、政界を去るという展開もありうる。
小沢一郎が去れば千々に乱れる民主党政権
小沢一郎という要が外れれば、民主党政権のガバナンスはますます弱体化し千々に乱れるだろう。そこに政界再編を期待する向きもあるが、イデオロギー軸で収斂できるほど日本の政治家も有権者も成熟していない。最近、馬糞の川流れのように自民党から流れ出た「新党」が文字通りクソのような存在でしかないことを見てもそのことは明らかだ。かくして、日本の政治の漂流と混迷は今後も続く公算が強い。
そして、更なるガバナンスの低下が行き着く先は「市民目線」の独り歩き現象だ。もっとはっきり言えば、ネオ・ファシズムの登場である。既にその兆候はあちらこちらに現れている。
あちこちに兆候が見えるネオ・ファシズムの登場
21世紀のネオ・ファシズム現象については、別の機会に取り上げたいが、例えば阿久根市、竹原信一市長による市職員の懲戒免職問題や河村たかし名古屋市長と議会の対立などにその兆候を見ることができる。
マス・メディアは、この問題を首長と議会の対立という形でオブラートに包んで報じているが、この問題の本質は、有権者の議会政治への幻滅と否定。そして、その反動としての強力なガバナンスの登場に対する期待の高まりである。
阿久根市の竹原信一市長、河村たかし名古屋市長の両者に共通しているのが、市の職員や議員の給与水準を引き下げると公言している点だ。阿久根市長は、市職員の年収を公表し、市庁舎内にその一覧表を貼りださせたが、その掲示物を破った市の職員を懲戒免職にした。裁判所は市長が下した処分を行き過ぎであり不当と撤回を命じたが、意に介さない。そうした強気の背景にあるのは、竹原市長に対して有権者の喝采があるせいだ。
竹原阿久根市長や河村名古屋市長のことをファシストよばわりするつもりは毛頭も無い。ファシズムの兆候が見られるのは、独り歩き、あるいは漂流を始めた「市民目線」のほうだ。
ナチス・ドイツもそうだったが、ファッショとは市民の喝采とともに生まれてくる。
いったん「市民目線」が漂流と独り歩きを始めれば、ヒトラーのような狂信的などこといって取り柄のない中年オヤジでもファシストに祭り上げられてしまう。
ファシズムとは、決して市民社会、民主主義の対極にあるものではなく、腹違いの兄弟のような存在である。それがファシズムと名付けられたとたんに、人々は自分とは関係ないような顔をするが、それはまぎれもなく市民社会が産み落とした祝福されない私生児のようなものなのだ。
ファシズムの再来を懼れよ。
(カトラー)
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