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顔の無い「市民目線」に振り回される日本政治

小沢一郎の再・強制起訴をめぐり、小沢一郎サイドから申し立てられていた議決の無効申し立てを東京地裁が却下した。
前回のこのブログのエントリー記事でも取り上げたように、検察審査会の2回目の議決内容には、告発した市民団体の告発内容や検察当局の訴追内容に含まれない事柄が含まれている。小沢一郎サイドもこの点をとらえ「今回の議決そのものが検察審査会の権限を逸脱した違法なもので無効」と主張し、議決の取り消しとともに、東京地裁が進めていた指定弁護士を決める手続きの中止を求めていた。東京地裁は、そうした問題も含め、法廷で争うべきとし、この申し立てを却下したことで、今後の舞台は法廷に移ることになる。

今回のエントリー記事で考えて見たいのは、小沢一郎を告発し、強制起訴の起点となった市民団体のことである。小沢の告発にどのような市民団体が動いたのかについてこれまで大マスコミは、なぜか触れてこなかった。
というのも、ネット上では既に話題になっていたが、在特会(在日特権を許さない市民の会)という極右団体が告発をおこなったことを、この会の桜井誠代表のブログ等で公表していたからだ。こうした団体が、在日外国人の参政権取得に前向きだったとされる小沢一郎の追い落としという政治的意図を持って仕掛けた告発であったとは、大新聞、テレビメディアはさすがに取り上げることができなかったのだ。

小沢一郎を告発した「真実を求める会」という市民団体

ところが、最近になって、朝日新聞のasahi.comが、小沢の強制起訴に向けた告発をおこなった市民団体として「真実を求める会」という正体不明の団体を探しだし、その団体に関する記事を掲載した。

Asahi.com 10月8日記事
小沢氏告発の団体とは 「保守」自認、政治的意図なし

取材を受けたこの団体の代表者は、小沢一郎という時の最高権力者の強制起訴に向けた告発を行うことで「命の危険があるから、名乗ることはできない」と言っているらしく、記事中でも、関東近郊に住む60代の元新聞記者、元教師、元公務員、行政書士などの集まりとしか説明されていない。こうした団体のことを取り上げる朝日新聞asahi.comの見識も疑うが、この団体のような自称「市民の会」が、在特会などより、考えようによってはよほど質が悪い。

在特会の場合は、善し悪しは別にして、立ち位置や主張が明らかである。何故、小沢一郎を強制起訴に持ち込みたいのかも理解できる。しかし、「真実を求める会」とやらは、そうした自分たちの立ち位置をことごとく隠蔽している。あえて顔を隠しているのだ。
「命の危険」という言い草もちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。民主的な手続きによって告発を行った日本国民を一体誰が抹殺できるというのか。いい歳をして仮にそれを本気に恐れているのだとしたら、顔を世間に出し、自らの団体を公知のものにするほうがよほど身を守る上で安全だし賢明だよと言ってやりたい。

安全な場所に身を置きつつ批判だけは行いたい

要するに彼らは自分の姿は見せないで安全な場所に身を置きつつ、他人(この場合は小沢一郎)の批判だけは行いたいのだ。このように書いてくるとほとほと情けなくなってくるが、こうした似非(えせ)インテリの連中が、常に「市民」を詐称してきたのであり、この国における「市民意識」「市民目線」なるもののどうしようもない底の浅さを物語っている。

何かに向かって喧嘩する時は、自分も返り血を浴びる覚悟が不可欠であることは、子供だって知っている。それが嫌なら大人しくしていれば良いのだ。
ともすれば「無名性」に逃げ込み、「空気感」を醸成し、「おまえらも空気読めよ」と強制するのが、残念ながらこの国の世論やメディアの常道、常套手段になっている。

「真実を求める会」に集まっている人々も、心のどこかで自分たちは、議決書で謳われているところの「市民目線」や「世間」を代表しているとでも思っているのだろう。だからこそ、朝日新聞asahi.comも「世論」の代表として、名前すらも明らかにしないこの団体を取り上げている。根拠なきヒステリックな小沢批判を繰り広げる朝日新聞にとって、告発の起点が在特会のような団体であってはまずいので、自分たちの醸成している「空気感」に近い「市民団体」としてこの「真実を求める会」に飛びついたのだ。

ひと昔前まで、新聞TVに登場してくる「市民グループ」とは、共産党や社会党、労働組合などの支持組織・グループの別名だった。そうした詐称のお作法がメディアでは今でも性癖として続いているのかもしれないが、「市民」というものが言葉の正しき意味において実体化した例はない。

「市民」なんてものはこの世のどこにも存在しない

あえていえば、この国に「市民」なんてものは無かったし、これからもないだろう。
それでは、民主主義の先進国といわれる欧米諸国において「市民」なるものが存在しているのかといえば、日本のように自分のことを「市民」という顔の無い無名の存在として捉えるような習性は誰も持ち合わせていないだろう。

要するに、朝日新聞をはじめとした日本の大手メディアが重宝がる「市民」や「市民目線」なんていうものは、そもそも世界中のどこにも存在しない幽霊のようなものなのだ。この世の中に存在しているのは、生身を持って切れば血が出る「あたな」であり「私」である。
様々な異なる生き方、考え方、異論を持った人間たちがいるだけなのだ。にもかかわらず、その幽霊のような「市民目線」に一国の総理になってもおかしくない政治家が追いつめられ、日本の政治全体が振り回されている。

検察審査会の討議内容を公開せよ

検察審査会についても同じことがいえる。審査会のメンバーについては、性別、年齢だけが公表され、どのような議論がされたのかは全くのブラックボックス状態である。
この場合、無名性と匿名性を分けて考えることが重要だ。個人名を公表しなくとも、取り交わされた議論の内容を匿名で公開すれば良い。議論のプロセスが明らかにされていない今の状態では、下された議決が妥当なものかどうか誰も判断できず、異論・反論の余地のない「市民目線」として独り歩きを始める。異論の余地がない言説が独り歩きする世界、これこそがファシズムである。

ファシズムとは、もともと実体的なものではない。それは、人々の心が招来する亡霊のようなものだ。

市民たちよ!己が心のファシズムを恐れよ

(カトラー)

まめにつぶやいてはおりませんが、Twitterもやってます: katoler_genron

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小沢一郎の再・強制起訴と漂流する市民目線の行方

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検察審査会の二度目の議決が下り、小沢一郎が強制起訴されることになった。

小沢一郎の資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐって、前回の検察審査会では全員一致で「起訴相当」とされ、趣旨文の中では、そうした判断を「これぞ市民目線である」と高らかに自画自賛していた。
新聞、テレビなど多くのマスメディアは、この「市民目線」に対して喝采を送ったが、私は逆にそうした全員一致の「市民目線」に「公開人民裁判」と同じ臭いを感じて強い違和感を抱いた。今回の検察審査会でもその「市民目線」のあり方は変わっていないように思える。

小沢一郎の強制起訴にまで至った今回の陸山会事件について、実体的な内容を理解している「市民」や「国民」は、果たしてどれほどいるだろうか。

陸山会事件の実体的内容を理解していない国民

今回の事件では、小沢一郎の政治資金団体「陸三会」が2004年に購入した土地取引にからみ、購入原資となった小沢からの借入金4億円を04年分の収支報告書に収入として記載せず、支出(土地購入)についても05年に支出されたように収支報告書に記載したこと、そして、小沢氏からの借入金4億円は07年に返済されたが、その記載が無かったことが問題とされている。要するに、政治資金報告書に意図的に虚偽の記載をしたということが今回の事件の焦点であり、言い換えれば、それ以外のことは何も訴追していないのである。

マスコミは、一般国民のこの事件の実体的な内容に対する理解度をなぜ調査して公表しないのかと思うのだが、大多数の国民は、「小沢一郎がゼネコン等から賄賂性の高い金をもらって土地を買い、そのことを隠すため政治資金報告書に嘘の記載をした」というように、この事件の背景で「汚職」や「贈賄」行為が行われたと捉えているのではないか。
というのも検察当局も捜査の初動段階で同様の「見立て」を行っており、メディアに情報をリークし、強引な捜査を行ったのだが、そうした見立てを立証する証拠は何ひとつ出てこなかった。

今回の事件で小沢一郎の元秘書たちが告発、逮捕された時のことを思い出してほしい。マスコミや検察OBたちもテレビや新聞に登場して「政治資金収支報告書の記載の問題は、入り口に過ぎず、もっと大きな山がこの後にあるはず」と大見得を切っていたのだが、結果は見ての通りである。
もともと今回の事件の「見立て」は、三重県の中堅ゼネコン、水谷建設の虚言癖のある水谷功元会長の証言に端を発している。水谷功元会長は、当時すでに脱税容疑で起訴されていたが、検事の心証を良くしたい一心から「胆沢ダム工事の下請け受注の見返りに計1億円を小沢の秘書に渡した」などと証言した。特捜本部が、この証言に飛びついたのが、小沢一郎をめぐる一連の事件の発端である。水谷証言に基づく情報は、検察当局からリークされ、新聞各紙はそれをあたかも見てきたように書き散らしていたが、前福島県知事の汚職疑惑などの裁判を通じて、水谷元会長の証言の信頼性そのものが根本的に否定されている。

検察の強引な「見立て」と国策捜査の破綻

すなわち、マスコミが喧伝する小沢一郎をめぐる「政治とカネ」の問題とは、現在、検察当局を根底から揺るがしている、厚生労働省の元局長の不正斡旋疑惑事件と同様に、検察の誤った「見立て」による国策捜査が破綻した結果なのである。
厚生労働省の元局長の事件と異なるのは、東京地検には、フロッピーの証拠データをねつ造した前田検事のような「まぬけ」が存在していないことと、検察当局が、本当の山と見立てていた水谷建設および大手ゼネコンからの資金流入が事実無根であること(少なくとも立証不可能であること)を悟って、誤った「見立て」に従って強引に事件化することを諦めたことだ。

多くのマスコミが問題なのは、こうした検察が当初の「見立て」やそれに基づく見込み捜査が根本的に瓦解していることを知っているにも関わらず、そのことには口を塞いだままで、小沢一郎という記号に対して相変わらず「政治とカネ」や「説明責任」といったステロタイプ化したキーワードを投げつけることを繰り返していることだ。

想像するに、大メディアは検察当局のリークに従って、小沢一郎の「ゼネコン資金流入疑惑」をあたかも現場を見てきたように書いてきた手前、今更、そうした「見立て」が間違っていましたなどとは口が裂けてもいえないのだろう。大メディアは小沢一郎の犯罪を検察当局と一緒になって既定事実化した「共犯者」であるから、「説明責任を果たしていない」という言説に逃げ込むしかなくなる。

「政治とカネ」「説明責任」というステロタイプに逃げ込むマスコミ

かくして、小沢一郎という記号に対する「一般市民」の「疑惑」は払拭されず、延々と「説明責任」が求められることになる。しかも、その大メディアや「市民」たちは、小沢一郎が何を説明すれば納得するのかは、一度たりとも示していない。政治家という公人の立場を考慮したとしても、「何事かをやっていない」ことの説明や証明などは誰にもできやしない。痴漢をしていない人間がそのことをやっていないという証明をするのが不可能であるのと同じことだ。

誤解されては困るが、私は小沢一郎という政治家を擁護しようとしているのではない。小沢一郎という政治家のことを好きでも嫌いでもなく、このブログで何回か取り上げたが、常に権力を掌握することに貪欲かつ真摯な政治家である点を評価しているだけである。
小沢一郎の強制起訴をめぐる今回の事件で考えなければならないのは、小沢一郎の「政治とカネ」「説明責任」などではなく、むしろこうした実体の無い言葉の周りをふらふらと漂流しているだけの「市民目線」なるものである。

新聞やテレビで「市民目線」という言葉が躍っているのを見ると心底、嫌悪感から鳥肌が立つ。「市民」という言葉を「人民」と言い換えれば、人民の名のもとで無辜の人々を処刑台に追いやった毛沢東の文革や現在の北朝鮮の世界と何ら変わるところがない。「市民目線」なるものがこのまま受け入れられていけば、早晩それは絶対視され、「市民目線」に異を唱えるものは「非市民」と断罪されることになるだろう。

今回の2回目の検察審査会の議決で危惧を感じたのは、告発した市民団体や検察当局も問題としてこなかった小沢一郎の借金の不記載まで犯罪事実として認定していることだ。このことは、検察審査会なるものが、本来付与されている検察に対するチェック機能から大きく逸脱して、「市民目線」を絶対化した「人民裁判」にまで変質していることを示しているのではないか。

民主主義に奇跡などありえない

小沢一郎の起訴議決が発表された翌日の5日の未明、名古屋市議会解散の直接請求(リコール)に向けた署名が46万通あまり受理されたことが発表され、そのことが同じ5日の朝刊に載っていた。
河村市長は記者会見で「民主主義の奇跡が起こった」と運動の結果を自画自賛したが、そもそも民主主義に奇跡がありえるはずがない。

「民主主義」というシステムは、個人や集団の利害がせめぎ合う中、殺し合いを避けるための最も現実的な知恵、妥協の手法として生まれてきたのであり、河村が言うような「奇跡」とは縁遠い存在だ。法制度、政府、議会といった民主主義の仕組みは、現実の諸問題に関して対立する意見や立場を調整するための装置であり、その装置から生み出されてくるものは、しばしば妥協の産物である。それは、ナイーブな「市民目線」には、黒白のはっきりしない曖昧性を帯びたものに映るだろうが、現実というものが、そもそも黒白のつけがたいものなのだ。

人類の歴史は、人をしてありのままの現実に向き合うことを可能にする民主主義という制度の優位性を教えている。また、同時に、政治家が「奇跡」を口にし、国民がそれに喝采する時には、おうおうにして「民主主義」はたやすくファシズムに陥ることも教えている。

民主主義とファシズムは別ものではなく、異母兄弟のようなものだ。

(カトラー)

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