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蒼井そら(苍井空)の闘いと中国の怒れる若者たち

Aoi_sora

中国の男性に圧倒的な人気を誇っているセクシータレントの蒼井そらが、自身の誕生日である11日に中国のポータルサイト、新浪(sina.com)でミニブログを開設し、1日で20万を超えるフォローを獲得した。ファンの反応などを鳳凰網が伝えた。(searchinaより

 日本のAV女優「蒼井そら」(苍井空)が中国全土の若者たちの心をつかみブレイクしている。
自身の誕生日にあたる11月11日に中国のポータルサイト新浪(sina.com)でミニブログ(中国版Twitterサービス)を開設したところ1日で20万人ものフォロアーが殺到した。
中国では、蒼井そらをはじめ日本のAV女優の海賊版DVDが大量に出回っていて、若者たちの間では蒼井そらはセクシーアイコンとして絶大な人気を博していたようだ。
彼女のミニブログのフォロアーは、既に76万人に達しており、その人気を裏付けるとともに、最近の中国における社会現象のひとつとして取り上げられるまでになった。

カマトトぶるわけではないが、私は「蒼井そら」という女優のことを全く知らなかった。アダルトビデオ、DVDも見たことがなく、アダルト系といえば日活ロマンポルノの時代で思考停止しているような状態だったので、上海生まれの中国の知人から蒼井そら(苍井空)の中国での人気について聞かされた時には、誰のことを言っているのか見当がつかなかった。

蒼井そらのミニブログに中国の若者が殺到

 その話を聞いた後、遅まきながら彼女が出演しているAV作品をiPadにダウンロードして見たり、You tube上のインタビューや著書を読んでとても興味を持った。
というのも、蒼井そらというAV女優が、それまで私がアダルト系の女性タレントに対して持っていたイメージとは大きくかけ離れていたところに存在していたからだ。
例えば、亡くなった飯島愛などが、私にとってアダルト系タレントのイメージの原型だ。飯島愛は、過去において複雑な家庭環境や非行の経験などを持ち、コンプレックスや心の傷を抱きながらも逞しく生きていた。私はそうした飯島愛の陰影半ばしたタレントが好きだったが、蒼井そらからはそうした飯島愛が抱えていた傷のようなものや暗さが見えてこない。

彼女の著書「ぶっちゃけ蒼井そら 」(ベスト新書)を読むと、彼女を突き動かしていたものは、飯島愛が持っていたような「過去の傷や影」ではなく、ある種の「空しさ」であったことがわかる。

 蒼井そらは、その著書の中で「うちはお金持ちでも貧乏でもなかった」と述べているようにごく一般的な家庭で両親の愛情を受けて育ち、公立の普通の高校生として青春を送り、卒業後は短大に進んで保育士の資格を取る。そのまま、保育士になれば、結婚して主婦となり子供を持ち普通の人生を送ったことになったのだろうが、渋谷でスカウトされたことをきっかけにAVの世界に飛び込んでしまう。

彼女の場合は、他のAV女優のように風俗などの仕事を経て、ずるずるとAVの世界に引きずりこまれたのではなく、普通の生活から決心して、一気にあちら(AV)の世界に飛び込んでいる。彼女を跳躍させたものは何なのかと考えてみると、それは、普通の人生を送ることへの嫌悪、空しさであったのではないかと思う。

普通の人生を送ることへの空しさ

若者には、普通の人生を嫌悪し、拒否する権利があると思う。
私自身も含め、かつて若者だった親たちの世代が、「普通で真面目な人生」を送ってきたことを否定するつもりはないが、それは、時代がそうさせたことでしかないとも思っている。

今の親たちが若者だった頃は、この時代の若者たちが置かれている時代とは違って、社会全体が成長・変化していたことで、未来に対する期待や希望が確かに存在していた。しかし、蒼井そらのように、幼年時代を「失われた10年」に育った世代の若者たちには、社会というものは大きな壁のような存在にしか見えないだろう。その内側で生きている限りはそこそこの人生は保障されるかもしれないが、壁の外側の世界は見えない。その壁の外側の世界に出てみたいと思い、それが蒼井そらの場合は、たまたまAV業界だったに過ぎない。

蒼井そらは、初めてのAV作品の収録を終えた後、母親にAV女優になる決心を打ち明ける。

「母の目は赤くなっている。でも母も泣いていない。『そう・・・わかった。ジュン(蒼井そらの本名)ちゃんは昔からやると言ったら聞かないもんね。でも必ず最後までやる子だもんね』・・・母は『賛成はしないけれど応援はする』といってくれた」(「ぶっちゃけ蒼井そら 」より)

AV女優になることを賛成はしないが応援する

 長じた娘を持つ同じ親として、私だったら蒼井そらの両親のような言葉はとても吐けなかっただろう。しかし、あえて繰り返せば、若者には、親の世代が認めた普通の生き方を拒否する権利がある。中国風にいえば、「造反有理」だ。

蒼井そらが心に抱え、彼女自身を壁の外側の世界(AV)へと跳躍させたもの、それは、彼女のフォロアーとなった中国の70万の若者たちも同じよう共有している閉塞感、空しさではなかったか?
高度成長期の日本のように発展著しい中国と閉塞感や空しさは無縁のものと思うかもしれないが、実態は逆だ。共産党幹部にコネを持っている連中、苛酷な弱肉強食の生存競争を勝ち抜いて海外に留学したり、不動産などを取得した一握りのエリート層や富裕層を除けば、大半の中国の若者にとって未来は閉ざされたままである。

そのことを端的に表しているが、最近の不動産価格の高騰である。中国では2000年から住宅取得ブームが続いてきたが、不動産価格の上昇とともに経済も成長しているので、バブルとは考えられていなかった。しかし、リーマンショック後の世界的な景気後退の中で、中国政府が金融緩和に動いたことから、2009年から上海の不動産価格は急騰し、住宅は一般勤労者が一生かかっても取得できない高嶺の花となってしまった。

 今、上海の女性たちが結婚相手を選ぶ最優先の条件は、相手が住宅を持っているかどうかだという。国の経済規模は拡大しているがその恩恵を得られないばかりか、チャイナドリームが蜃気楼のように目の前から遠ざかっていく繁栄の中での空しさ、閉塞感を今の中国の若者たちは苦々しく受け止めているのだ。そして、彼らのその空しさが、海を越えて日本の平成のセクシーアイドル、蒼井そらの抱いていた空しさと共鳴している。

蒼井そら(苍井空)の「空」に共鳴する中国の若者

蒼井そらは、中国のメディアのインタビューに答えて、「AVという仕事を職業として認めさせたい。AVに対して偏見を持っている人たちに制作現場の人たちのプロ意識や真剣さを伝えたい」と述べている。敵が誰だかわからない高度にシステム化されてしまったこの国において、蒼井そらは、誹謗中傷が渦巻くAVの世界にあえて身を置くことで、闘う相手を見つけたのかもしれない。

私は夢想する。いつの日か天安門広場で渦巻く反日デモの若者たちの先頭に蒼井そらが立ちはだかり、中国の若者たちに呼びかける「造反有理!」と。しかし、その旗印に掲げられるのは、「反日」ではなく、「空」の一文字だ。

(カトラー Twitter: @katoler_genron )

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前田元検事は特別公務員職権濫用罪で裁かれるべきだ

Photo_2 郵便不正事件の証拠を改ざんしたとして、証拠隠滅罪で起訴された大阪地検特捜部の元主任検事・前田恒彦被告(43)について、最高検は、特別公務員職権乱用容疑は不起訴とする方針を固めた。村木厚子・厚生労働省元局長=無罪確定=が無実と認識しながら職権を乱用して逮捕、起訴した疑いがあるとして、市民団体が同容疑で告発していた。 (朝日新聞12月16日朝刊より

一昨日の朝日新聞朝刊が、郵便不正事件で「証拠隠滅罪」で起訴されていた大阪地検特捜部の前田元主任検事について、最高検は「特別公務員職権濫用罪」では不起訴とする方針を固めたと報じている。
この記事中で言及されている、前田元検事を「特別公務員職権濫用罪」で告発した市民団体とは、私も発起人の1人となっている「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」のことを指す。
しかし、当の「・・・声をあげる市民の会」には、このブログ記事を書いている時点で、最高検からは何の通達も届いていない。したがって、この記事は最高検からのリーク情報によって書かれたということがわかる。

何の権力も持っていいない市井の人々が集まって行った告発に、わざわざご丁寧に大新聞にリーク情報まで流すとは、検察当局は一体何を恐れているのだろう。

検察が恐れる特別公務員職権乱用罪での告発

それは、私たちが告発により投じた一石が、水面の輪のように広がり、前田元検事の処罰のあり方があらためて問題化され、そのことを通じて、国民の目が検察全体の体質に対する批判に向かっていくことを恐れているからに他ならない。
郵便不正事件で明らかになった前田元検事のFDデータの改ざんに対して検察当局は、当時の前田元検事の上司まで起訴した。こうした一連の対応は、一見徹底した処罰対応をおこなっているように見えるが、実はその逆で、この問題の本質の隠蔽工作に他ならない。

そのことは、「証拠隠滅罪」と私たちが告発をおこなった「特別公務員職権濫用罪」の違いを見ていけば理解できる。

会のホームページでもこのことは詳しく解説しているが、前田検事がフロッピーディスク(以下FD)を改ざんしたことには、重要な2つの問題がある。
それは、本来、村木さんの無実を証明する証拠であったFDを、改ざんによって有罪の証拠にしようとしたという点だ。つまりこれは、(1)無罪の証拠を隠滅し、(2)有罪の証拠をでっち上げた、ということで二重に裁かれるべき行為といえる。

最高検では、「FDを改竄した時点では、村木さんが無実であるという確証がなく、他の証拠で有罪を立証できると考えていた」という理屈にならない理屈で、前田検事が、意図的に冤罪をでっち上げようとしたわけではないとし、そのことを以て証拠隠滅罪で起訴したわけだが、最高検がいうように前田元検事が「他の証拠で有罪を立証できると考えていた」のであるなら、そもそもFDを改ざんする動機も生まれなかったはずだ。
FDの日付は、村木さんの無実を示す明らかな証拠であり、それを前田元検事は有罪をでっち上げる意図を持って改ざんしたのである。

証拠隠滅罪と特別公務員職権濫用罪の違い

ここで証拠隠滅罪というものがどういうものか見てみよう

(証拠隠滅等)
第104条 他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

ここだけを読むと、前田元検事のやったことに該当しているようにも見えるが、この条文はその前後も含めて読む必要がある。

第7章 犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪
(犯人蔵匿等)
第103条 罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

(証拠隠滅等)
第104条 他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

(親族による犯罪に関する特例)
第105条 前2条の罪については、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる。

つまり、証拠隠滅罪とは、前後の条文(緑字)の中においてみれば明らかなように「犯人自身、または、犯人の味方をする立場の者が、犯人の罪を軽くするために犯した罪」を裁く法律に他ならない。だからこそ、犯人自身や親族の刑は免除され、それゆえの軽い刑となっている。

仮に前田検事が「何らかの理由で、(実は有罪である)村木さんの罪を軽くする(あるいは無実にする)ために、証拠を改竄した」のであれば、この証拠隠滅罪が適用されるのは、まったく妥当と考えられる。しかし、前田元検事がやったのはその逆で、あえて繰り返すなら、「無実の証拠を改ざんして、有罪の証拠に変えた」のである。

それでは、前田元検事がおこなったことの罪は、どう扱われるべきか。ここで浮かび上がるのが、「特別公務員職権濫用罪」である。

(特別公務員職権濫用)
第194条 裁判、検察若しくは警察の職務を行う者又はこれらの職務を補助する者がその職権を濫用して、人を逮捕し、又は監禁したときは、6月以上10年以下の懲役又は禁錮に処する。

検察当局は、「村木さんが無実であるという確証がなく、他の証拠で有罪を立証できると考えていた。だからFDを改ざんした時点では有罪をでっちあげようとしていたわけではない」という、ほとんど理屈にもならない奇妙な論理を盾に、あえて証拠隠滅罪という軽い罪に前田元検事を処することで、この問題を早期に決着させ封印しようとしている。

証拠隠滅罪で問題の早期決着を図った検察

村木さんの問題が、検察のでっち上げによる冤罪、すなわち「特別公務員職権濫用罪」として裁かれたらどのようになるだろうか。

これまで大メディアは、証拠隠滅罪での起訴という検察当局が用意した前提をアプリオリに受け入れて、FDのデータを改ざんしたのが意図的だったのか、偶然だったのかというような些末な問題しか騒ぎ立てていない。しかし、もしこの問題が特別公務員職権濫用罪として訴追されれば、前田元検事が冤罪づくりを行った過程が検察組織全体の問題として問われることになるだろう。当然、そのことは過去の冤罪事件や他の係争中の事件などにも大きな影響を与える。取り調べの全面可視化の議論などにも弾みがつくことだろう。

検察当局が、前田元検事の行った行為に強引に証拠隠滅罪を適用し、さらに、私たちの行った特別公務員職権濫用罪による告発を却下するようなことがあるとすれば、それは、抜本的な検察改革を拒む思考あるいは勢力が、検察全体を支配しているからと考えざるをえない。

繰り返しになるが、今回の事件の本質は、証拠を隠滅したかどうかということではなく、検察組織そのものが、有罪をでっち上げる冤罪づくりの主体となっていたという、そのことだ。その真実が覆いかくされてしまうことで、逆に民主主義の基盤である司法や検察に対する信頼が、湿った空気に晒された砂糖菓子のようにグズグズと崩れていってしまうだろう。

これまで国民は、司法や検察に高い信頼を抱いてきた。善し悪しは別にして、多くの国民は、政治とカネの問題などを追及してきた、この国の自浄装置としての検察に対して喝采を送ってきたのである。しかし、いつしか特捜部に象徴される検察組織は、無謬性の神話にあぐらをかいてしまい、その神話を護ることに汲々とするようになってしまった。神ではない人間は、そもそも過ちを犯すものである。本来、人間が創り出した法には、そうした弱き存在としての人間への理解が根本にあったはずだ。

人間は過ちを犯す、しかし、悔いあらためることができる。そのことを検察の人々は法曹人としてもう一度自問し、過ちを認めた上で抜本的な検察改革に立ち向かうべきではないか。

前田元検事を証拠隠滅罪によって裁き、真実に蓋をしてしまうのだとすれば、それは民主主義の自殺行為というべきだ。

(カトラー Twitter: katoler_genron )

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