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暴走検察は、村木厚子さんに一体何を謝罪したのか?

村木さんに最高検謝罪 村木さん「もっとしっかりして」

郵便不正事件で無罪判決が確定した厚生労働省元局長の村木厚子さんに最高検の小津博司次長検事が面会し、謝罪していたことが明らかになった。大阪地検特捜部の証拠改ざん・犯人隠避事件を受けて法相が設置した「検察の在り方検討会議」(座長・千葉景子元法相)の13日の会議で、小津次長が「謝罪する旨申し上げた。村木さんからは全般について厳しいお言葉を頂いた」と述べた。(Asahi.com より

最高検が、郵政不正事件で逮捕・拘束された村木厚子さんの所に出向き謝罪していたことを各メディアが報じている。直接詫びたと聞けば、いかにも殊勝な態度を示しているようだが、今更何を詫びるというのか。

実は最高検が、村木さんの無罪確定後3ヶ月も経った今になって謝罪の意向を示さざるを得なくなったのは、年末に提出した本事件の検証報告書のあまりにお粗末な検証姿勢に批判が集中したためだ。先のエントリー記事でもとりあげたように、当の村木厚子さんが、この検証報告に対しては「事実と異なる調書が大量に作成された過程や組織の機能の在り方が十分検証されていない」、「検証過程で自分への聴取がなかった」と批判する一方で、国や当時の取り調べを担当した検事を相手どり国家賠償訴訟を起こした。柳田前法務大臣の指揮のもとで組織された私的諮問委員会「検察の在り方検討会議」の委員である弁護士の郷原信郎氏やジャーナリストの江川昭子さんも、検証報告書は前田元主任検事が行った「犯罪」を単に前田被告の個人的犯罪として矮小化するものと厳しく批判している。

前田個人の犯罪と矮小化する検察

最高検の幹部が村木さんに謝罪に出向いたとしても、「このたびは前田とその上司がトンデモナイことをいたしまして・・・・」と謝るのが関の山で、村木さんが指摘している検察の組織的な関与については決して認めはしなかっただろう。
その証左に、私も発起人の1人となっている「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」がおこなっていた告発、すなわち、前田元主任検事を特別公務員職権濫用罪で裁くべきという告発の申し立てを昨年末の段階で、何らの理由も示さず、あっさりと不起訴処分としているからだ。

もし私たちの告発通りに、前田元主任検事が「職権濫用罪」で裁かれることになれば、その「職権」の前提となっている検察組織の在り方全体が問われることになるだろう。村木さんが「組織の在り方」に言及しているのは、正にこの点を問うているのだが、検察当局は、組織全体の問題として今回の事件が取り扱われることを頑なまでに拒んでおり、あくまで、この事件を単なる証拠隠滅罪という軽犯罪、前田元主任検事および当時の上司により構成された特殊な事件として片づけようとしている。つまり、このことからも明らかなように検察当局は、世間の風圧をとりあえずかわすために村木厚子さんに対して謝罪のポーズをとっただけであり、組織的責任は、いささかも認めていないのである。

これまで、この国の人々は、巨悪に立ち向かう「正義」の番人としての検察に無条件に喝采を送ってきた。しかし、組織防衛に汲々とする現在の検察のどこにも、かつての「正義」の番人の姿はない。逆にかつて彼らが追いつめてきた政治家たちが、トカゲの尻尾切りのように秘書を防波堤にして保身していた姿と全くダブって見える。

検察審査会に申し立て書を提出

 残念ながら、もう、検察組織の自浄能力に期待することはできないと考え、私たちは先々週の11日、新たな行動に出た。前田元主任検事を「特別公務員職権濫用罪」で裁くべきとした我々の告発に対して、最高検が不起訴としたことを不服として、検察審査会に対して申し立てをおこなったのだ。

組織防衛の観点から最高検が、私たちの告発を取り上げないだろうということは、当初から予想していたが、実際に告発が却下された時点では、「付審判請求」という方法で再度申し立てを行うという選択肢もあった。しかし、あえて「検察審査会」への申し立て一本に絞り勝負することにしたのは、検察審査会の場合は、そこに市民の目線が働く可能性があるからだ。

検察審査会については、小沢一郎氏の強制起訴をめぐり、その在り方自体について様々な議論や疑問の声が巻き起こっていることは承知している。私自身このブログで「全員一致」で強制起訴を決定した先の検察審査会での決議を「市民目線という名のファシズム」と批判したことがあるが、ここはあえて、その「市民目線」に期待したいと考えている。

というのも「検察」という「正義の番人」の威信が崩壊してしまった現在、市民がそれぞれの立場で、この国の正義や公正について、じっくりと考えてみる必要があると思えるからだ。

検察の正義は死んだ?

起訴された事件の99%が有罪となる、世界中のどの国にでもありえない有罪率を誇る?この国の司法において、これまで「正義」は実質的に検察が握っていた。我々もそれがこの国の治安の高さや公正さの表れと誇っていた面さえあったが、郵政不正事件は、その検察の無謬神話を根底から壊してしまった。前田元検事が、フロッピーディスクの証拠データを改ざんし、でっち上げ冤罪に村木厚子さんを陥れたその日に、検察の正義は死んだのだ。

このことは、見方を変えると、市民側にとっても相当シンドイことである。検察の威信が地に堕ちれば、一体誰の言うことが正義なのかもわからなくなってしまうからだ。だが、正義とは、本来、検察や大新聞など、誰かの手中にあるものではない。水戸黄門の印籠よろしく、物事の結末に懐から取り出して種明かしのように示してくれるものではないのだ。

正義の味方を演じるようになってしまった検察

よくよく考えれば、ここまで検察を暴走させ、その正義を地に堕ちさせた責任の一端は、われわれ市民の側にもある。なぜなら、特捜検察に対して、「正義の番人」の姿を投影し、法の行使者たる役割だけでなく、あろうことか「世直し」まで彼らに求めたからだ。
かつて、ホリエモンを逮捕・訴追した当時の特捜部長が、「額に汗して働いている人々が、策を弄して金儲けする連中に出し抜かれ、不公正がまかり通るような世の中にしてはならない」と発言していた。当時、堀江氏ほど額に汗して働いている経営者はいなかったと思うが、世間やメディアはこの大鶴基成東京地検特捜部長の発言に喝采を送った。このあたりから検察組織は、ある種のポピュリズムに陥り、法の番人であることを超えて、「正義の味方」を演じるようになってしまった。かくして、検察の正義は規律を失い暴走し、今回の前田元検事の事件が引き起こされたのである。

検察の正義は死んだ。しかし、そのことは、この世界に正義が存在しないということを意味するものではない。マイケル・サンデル先生風にいえば、「正義とは何なのか」と問いかける、その不断の問いの中にしか「正義」は立ち現れてこない、その問いを生きること自体が正義の実現につながるのだ。

そして、私たちの行動も、ささやかではあるが、そうした正義への問いかけを形にしたものに他ならない。最高検が私たちの告発を却下したことで、戦いの舞台は、検察審査会に移った。そこで、問われるのは、「市民の判断」である。検察審査会のメンバーとなった市民の人々に私たちの問いかけの声は、必ず届くものと信じている。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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村木厚子さんが上げた静かな声が、検察の「正義の壁」を穿つ日

 昨年の師走、24日、最高検が厚生労働省文書偽造事件に関する検証結果報告を公表した。また、私が発起人の1人になっている「健全な法治国家のために声を上げる会」が、本件の中心人物である前田元主任検事を「特別公務員職権濫用罪」で告発していた件に関しては、最高検から「却下する」との正式の通達が、25日、市民の会宛に届いた。会としてはこれを受けて次のアクションに取りかかりつつある。

最高検が公表した検証結果報告は、105ページにも及ぶものだが、その内容は、予想していたとはいえ極めて空疎なものだった。報告書は、事件の原因を結局のところ前田元主任検事の個人プレーおよびその監督責任を持っていた当時の上司、大坪元特捜部長、佐賀元副部長の監督能力の欠如にあったとしている。

しかし、私たちは、今回の事件の本質は、大阪地検特捜部が自分たちが作り上げた事件の「見立て(ストーリー)」に合わせて、村木さんの無罪の証拠をわざわざ改ざんして、強引に有罪に仕立て上げた「組織的なでっちあげ冤罪」であると見ている。そして、そうした冤罪を生み出したのは現在の検察組織そのものの体質にあると考えている。従って、前田元主任検事は、証拠隠滅罪ではなく、特別公務員職権濫用罪で裁かれなければならないと考え、特捜検事を市民が告発するという前代未聞の行動をあえて行ったわけだが、検証報告書においてこうした論点への言及は残念ながら皆無だった。

前田元主任検事の個人プレーによるものと問題を矮小化

 報告書では、今回の事件は前田元主任検事ような一部の「不良分子」が行った行為であると問題を矮小化し、後は綱紀粛正やら再発防止策を並べ立てることで世論をかわしたいという、その場しのぎの組織防衛の意図しか見えてこない。そもそも検察が犯した犯罪を当の検察組織が検証することなど土台無理な話だったのだ。

検察当局としては、年末に検証報告書を上げる一方で、私たちの市民の会が行った告発を却下し、心安らかに新年を迎えたかったのだろうが、そこに思わぬカウンターパンチが入ってきた。

村木厚子さんが声を上げたのだ。

今回の事件に勝訴して無罪が確定し、村木さんは、当初、一日も早く職場に復帰し、元の静かな生活に戻りたいと希望していたという。無理からぬことだろう、突然身に覚えのない事件で罪人に仕立てあげられ、検察のリークを垂れ流す広報メディアと化した大新聞・テレビからバッシングされる中、数ヶ月に及ぶ拘留生活を女性の身で耐え抜いてきたのだ。そんな苛酷な体験は誰だって悪い夢を見たとして忘れてしまいたいところだが、27日、検察の犯罪に対して国家賠償を求め、東京地裁に提訴を行ったのだ。

村木さんは、この提訴の中で「不当な逮捕・起訴で精神的苦痛を受けた」として、国と大坪元特捜部長、前田元主任検事、そして取り調べを担当した国井弘樹検事=現法務総合研究所教官の3人に対して計約3600万円の国家賠償を求めた。提訴の相手に前田元主任検事、大坪元特捜部長だけでなく、新たに現職の国井弘樹検事も加えているところが大きなポイントだ。つまり、検察当局が起訴し、報告書の中で描いた、前田元主任検事とそれを監督する立場にあった上司のおこなった犯罪という構図ではなく、現在は何の罪も問われていない、現職の検事も含めた組織ぐるみの犯罪として本件を再び告発することを村木さん自身が決意したのである。

検察組織ぐるみの犯罪として告発することを決意

 そのことは、村木さんの最高検の報告書に対するコメントを見れば明らかである。以下、その全文を引用する。

「今回の事件では私の関与はなく、また、そうしたことを示す客観的証拠も全くなかったにもかかわらず、私が関与したとする事実に反する供述調書(特信性が否定されたもののみならず、判決においてその信用性が否定されたもの)が大量に作成されました。検証報告では、逮捕、起訴、公判遂行の各段階における判断の誤りについて率直に認めていただいたものの、そうした取り調べの実態、すなわち、多数の検事により事実と異なる一定のストーリーに沿った調書が大量に作成された過程そのものは検証されませんでした。

 取り調べの実態解明には、容疑者や参考人などの関係者から事情を聴く必要があったと思います。私自身も検証への協力は惜しまないつもりでしたが、最高検からの接触は一切なく、事情を説明する機会もなかったことを非常に残念に思っています。検察官からの事情聴取を中心に検証が行われたのであれば、検証が不十分なもの、偏ったものになっているのではないかという疑念をぬぐえません。

 また、大坪弘道特捜部長(当時)や前田恒彦検事(同)の仕事の進め方に大きな問題があったことは検証結果からよく分かりましたが、そうした幹部を育ててきた組織の風土・文化、そうした仕事の進め方を許してきた組織の機能の在り方などが十分検証されていないように感じました。こうした点の解明について外部の方々の『検察の在り方検討会議』に大きな期待を寄せています。

 また、自らも訴訟という手段を通じこれに関わっていくことを決めました。国民からの信頼を取り戻すための検察のこれからの努力をしっかり見守っていきたいと思います」

村木さんの静かなコメントの中で驚かされたのは、最高検が今回の検証報告作成にあたり、最も中心的な当事者である村木さんに対して聴取を全く行っていない事実が明かされていたことである。最高検が今回の問題の本質解明に及び腰であり、小手先の改善策でお茶を濁そうとしていることはこのことだけをとっても明らかである。

検察の身内の犯罪を当の検察組織が調べられるのか?という声が、今回の検証作業にあたっては、当初から存在していたが、「検察組織は捜査のプロであり、そのプロを調べるのはプロである最高検がやらなければ不可能」というような議論を特捜OBが新聞・テレビマスコミに出てまき散らしていたが、実態はといえば、見てのとおり、村木さんに対する徹底的な事情聴取さえ行われていないという体たらくだ。これで「プロ」とは聞いて呆れる、ちゃんちゃらおかしいとしかいいようがない。

「検察の正義」そのものが問われている

 検察、特に特捜部は、過去においてロッキード事件に代表される政治家の疑獄事件を手がけ、この国の「正義」の担い手として国民の喝采を浴びてきた。
しかし、あえていうなら、今問われているのはその「検察の正義」そのものである。
リクルート事件、ライブドア事件、小沢一郎の陸山会政治資金事件など、近年、特捜が主導し捜査・立件した事件を巡り、その強引ともいえる捜査手法や社会の実態とは余りにかけ離れた立件の姿勢に対して批判が巻き起こっている。そうした批判の声は、まだ社会全体の声にはなっていないが、今回の村木さんの厚生労働省文書偽造事件をきっかけに、私たちが行っている運動も含めバラバラだった流れがひとつの奔流となり、現在の状況を根こそぎ変えてしまう力になるだろうと確信している。

この国の人々も何事かあらば水戸黄門のように何処からか正義の味方が現れて巨悪を正してくれるという幻想からは、そろそろ目を覚ました方がいい。というのも、正義とは「○○の正義」というように、誰かの専有物ではなく、市民の絶えざる自問と対話の中からしか生まれてこないからだ。

村木厚子さんが、静かに声を上げたそのことこそが、この国の新たな正義のあり方を模索する第一歩になると信じている。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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