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3.11後の現実と歌の力

先週、木曜日の夜、赤坂のB♭(ビーフラット)で素晴らしいライブがあった。
「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」で一緒に活動している音楽家・作家の八木啓代さん(vocal)を中心に、なんと元特捜検事の郷原信郎さんがサックス奏者として登場し、それに阿部篤志さん(piano)大熊ワタルさん(clarinet)河村博司さん(guiteer)、福田大治さん(charango)といった、そうそうたるミュージシャンが共演した。

こんなありえないライブが、何故成立したのかというと、ジャーナリストの岩上安身さんのパーティーで郷原さんがサックスを吹くことが判明、一緒にライブをやるという話が盛り上がり、「気がついてみたら本当にやることになってしまった」(八木さん)。

2月頃から八木さんから、「いよいよ4月に本当に赤坂ビーフラットでやることになった」という話を聞き、郷原さんがサックス奏者としてプロのミュージシャンと共演したら一体どんな事態になるのだろうと、ほとんど怖いもの見たさ(失礼!)から期待していたのだが、そこに思わぬ事態が発生した。3.11東日本大震災である。

得体の知れない喪失感に苛まれる人々

3.11は、好むと好まざるとに関わらす、この国の全てを変えようとしている。
誰もが変わらなければならないと思いながらも、今、直面している現実とは一体何なのかをつかみあぐね呻吟している。いや、「変わらねばならない」などと考えているのは、ごく一握りの人間たちだけで、大半の人々は、「自分の身にはとりあえず何事も起きていないのだから大津波もレベル7に至ったフクシマの問題も全てテレビの向こう側の現実」と思い込みたいだけなのかも知れない。しかし、自分が立っている安全・安心なはずのこちら側の現実も、気がつくと大津波の引き潮が足下の砂を猛烈な勢いで奪い去っていくように崩れ去っていく・・・そうした得体の知れない喪失感にこの国の全ての人々が苛まれている。

東京電力のような巨大企業が、一瞬の震災により、巨大な賠償責任を抱え、事業継続そのものが危ぶまれる事態に陥ることなど誰も予想できなかった。しかし、想定外の出来事を想定することが、リスク管理の根本であり、特に東京電力のような社会インフラを担う大企業の場合は、最低限の社会的責務といっても過言ではない。それを「想定外の災害に見舞われた」と言い切ってしまった所に、東京電力のみならず、この国の企業や組織体がダメになっている底知れない病理がある。

「想定外」という言葉で防波線を張った東電

実は東京電力が、震災直後に記者会見で「想定外の災害」と言ったことには明確な根拠がある。原子力損害賠償法により、原子力発電所を運営する電力会社は、事故が発生した場合でも賠償義務は1200億円が上限、それ以上は国が対応するものと法律上は定められており、なおかつ、その事故が「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」などによる場合は一切を免責されるという規定がある。東京電力の経営幹部は、この規定に基づき、わざわざ「想定外」という表現を使っていたのである。

つまり、原発周辺の福島県民に苛酷な避難生活を強い、世界中を震撼させている原発事故の真っ直中において、東電経営層の頭の中を占めていたのは実はこの「法律」のことであり、それに基づいて防波線を張っていたのである。

ライブのトークの中で、郷原信郎氏は、東京電力の危機管理の姿勢に言及し、「この会社のコンプライアンス啓発に多少とも関わった人間として責任を感じている」と述べた。
郷原氏が言いたかったことを解説すれば、この国の企業、官僚組織にとって、コンプライアンスといえば「法令遵守」のことしか意味していない。つまり、法律に書かれていることを神学的に解釈し、それを企業行動と紐づけることが「コンプライアンス」と勝手に翻訳されている。法律を守るのは当然のことだが、実は法律に規定されていない事柄や事態に直面した場合に、企業や組織が、社会的存在としてどのように行動するのか、その無形の行動規範となるのが本来のコンプライアンスであるべきだった。

コンプライアンスの本来の意味を理解しない企業組織

東京電力には、この本来の意味での「コンプライアンス」が皆無であったことが露呈してしまった。「想定外の災害」と記者会見で責任逃れの防波線を張る前に、避難地域に社員を送り込み、住民退避の手助けをする。経営トップが現地に先ず入り陣頭指揮する。対策本部を福島原発の近隣に設置し、住民が置かれているリスクを共有するといった行動を起こすべきであったであろう。こんなことは、法律のどこにも書かれていないが、企業市民、人間としてとるべき当然の行動である。

郷原氏は、東京電力の危機対応が硬直的で現実に即応できていない理由を「安全神話」の盲信にあると指摘していた。「原発は安全である。なぜなら何重もの安全防護策が講じられており事故が起きるはずがないから」この思考ループの中を堂々巡りするのみで、想定外の事故は、結局想定されることがなかった。本当に想定不可能だったわけではない、そもそも事故を前提としない「安全神話」によって思考停止状態に陥っていただけだ。
そして、このことは、東京電力だけでない、例えば、前田元検事の証拠改竄事件のような検察組織の問題とも通底している。すなわち、検察組織の「無謬神話」があらかじめ存在し、その神話を護るために現実が改竄されていったように。

ロラン・バルトは、30年以上前にこの現代の「神話作用」について次のように指摘している
「ものごとは神話の中に、それらの製造の記憶を失うのだ。世界はさまざまな活動の、人間の行為の弁証法的関係として言語の中に入り、諸本質の調和に満ちた一幅の絵として神話から出て来る。一種の手品が行なわれたのだ。現実をひっくり返し、そこから歴史をからにして自然で満たしたのだ。ものごとからその人間的意味を抜きさり、人間的無意味を意味させるようにしたのだ。神話の機能は現実をからにすることだ」(ロラン・バルト「神話作用」)

ロラン・バルトは神話には強制力が発生するといっている。というのも神話の常套手段は話者を巧みに消し去ることだからだ。「原発は安全である」と述べているのが誰であるのかがわかれば、その言説の是非を問うことができるが、神話においては、その発語者は常に隠蔽されてしまい、一切の異議申し立ては抑圧され、人々は思考停止状態に陥り、言葉は沈黙する。

神話的現実を破壊する武器としての歌

そして、こうした神話作用に抗い、神話の対極にあるものが詩であり歌である。
詩や歌は無力だが、神話やシステムの中に隠蔽されていた人間的な意味をあらためて呼び起こし、顔の見える声や調べとして甦らせ、現実のまったく違った側面、秘められた意味や手触りを鮮やかに示してくれる。現実とは、もともとモノのようにあらかじめ私たちの外部に存在しているものではなく、それがいくら強固に見えたとしても、結局、私たちの意識が作りだしたイリュージョン、神話的現実でしかない。詩や歌は、そのことに気付かせてくれ、神話なるものをぶち壊す武器となりうる。

多くの人々の命を不条理に奪った3.11大震災に、もし「意味」と呼べるものが唯一あったとすれば、それはこの国の現在を覆っている「神話的現実」を粉々に壊し去ったことではないか。絶対安全神話が福島原発とともに粉々に飛び散った今、これまでアプリオリに受け入れていた様々な約束事やお作法も全て無効になった。そして、私たちがこれからどうやって生き延びていくかは、政府や法律も組織やメディアも教えてくれないことが、白日の下に暴かれてしまった・・・

だいぶ話が横道にそれたが、4.20ライブの報告に戻ろう。
八木啓代さんを初めとした参加ミュージシャンは、全てが素晴らしかった。3.11後の現実の中で、歌こそが輝きを増していることに気付かされた。個人的には3.11以降、鬱々とした気分で過ごしていたが、初めて曇天に青空を見た思いがし、歌の力に感動し、感謝した。

郷原信郎さんのサックス演奏もお世辞で無く素晴らしかった。あの目つきの悪い、元特捜検事の郷原氏がサックスを奏で、甘い声で謳う姿を日本中の誰が想像しただろうか。その姿は、3.11後の現実のなかで個々人が自由に生きるしかないことを身をもって示してくれ感動的でさえあった。

甦ったヴィクトル・ハラの歌「平和に生きる権利」

この日の朝、私はたまたまベトナムから戻って来たのだが、ライブの終盤で懐かしいヴィクトル・ハラ(Vivtor Jhara)の「平和に生きる権利El derecho de vivir en paz」がフィーチャーされたことに驚いた。この歌は、70年代の初頭、世界的に広がったベトナム反戦運動のシンボルだった。その歌が、この日のライブでフクシマバージョンとして甦ったのだ。

「平和に生きる権利・FUKUSHIMA ver.」作詞:八木啓代、河村博司

静かに暮らし/生きる権利を/いま問いかける/FUKUSHIMAの空から/生まれた故郷を/追われる悲しみを/分かち合えない/痛みを/

稲穂たなびく/緑の大地よ/遠く広がる/青い海原よ/月さえ砕ける/悲しみの叫びに/祈りの歌よ/届け

静かに暮らし/生きる権利を/平和に暮らし/生きる願いを/FUKUSHIMAの空から/TOKYOの街から/取り戻すまで/歌うよ

静かに暮らし/生きる権利を/平和に暮らし/生きる願いを/HIROSHIMAの空から/OKINAWAの島から/取り戻すまで/歌うよ

La La La ・・・・・

消せはしないだろうこの歌を

ヴィクトル・ハラは、1973年、軍事クーデターの動乱の中で虐殺された。ライブを見ながら私は、同じように関東大震災の混乱の中で虐殺された大杉栄の「美は乱調にあり」という言葉を思い出していた。この言葉が似合う美しいライブだった。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

・ヴィクトル・ハラ(Vivtor Jhara)の「平和に生きる権利El derecho de vivir en paz」youTubu video

・B♭ライブ 第1部演奏

・B♭ライブ 第2部鼎談

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Comments

美は乱調にありって、栄というより主題は...野枝では?

瀬戸内寂聴の由来の情報しか知りませんが...。

Posted by: 大山千恵子 | 2011.05.01 at 09:56 PM

大杉栄に「生の拡充」という文章があり、「美は乱調にあり、階調は偽りなり」という有名な言葉はその中で使われています。

Posted by: katoler | 2011.05.04 at 04:18 PM

そうでした。失礼しました。青空文庫で読めるんですね。思い出しました。

同名の瀬戸内晴美の評伝で、記憶が塗り替えられてしまいました。

Posted by: 大山千恵子 | 2011.05.08 at 07:38 PM

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