検察が死んだ日

 小沢一郎が強制起訴された陸山会事件を巡る虚偽捜査報告書作成の問題で、最高検は、27日、私も発起人の一人となっている「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」が虚偽有印公文書作成およびその行使により刑事告発していた田代政弘検事を「嫌疑不十分」で不起訴とする決定を下した。田代検事の当時の上司ら6人についても、「嫌疑なし」で不起訴となった。

 先月から、田代検事以下が近々不起訴処分になるだろうという観測記事がしきりと流されていたが、ロシアのサイトから捜査報告書の現物や石川元秘書と田代検事の録音記録の反訳書がネット上に流出したり、小川前法相が退任会見でこの問題に絡んで指揮権発動を検討したことを口走るなど、検察当局にとって想定外のハプニングが相次ぎ、処分決定はその都度先送りされてきた。今週になって世間の目が、消費税導入と民主党の分裂騒ぎに向かっている、そのドサクサに紛れて検察は処分に踏み切ったのだろうが、最高検察庁の示した調査・報告なるもののあまりのお粗末さ加減に、検察寄りのリーク記事を流していた大手マスコミさえも「身内に甘すぎる処分」と一斉に反発の声が広がった。

田代検事の故意性を否定する最高検の調査報告

 田代検事が書いた捜査報告書の記載と録音された実際の供述内容を比較すれば、誰の目からみても、とても「記憶の混同」で説明できるものではなく、田代が意図的に供述内容を捏造していたことは明らかであるにもかかわらず、今回の最高検の調査結果では、「大筋で一致するやり取りがあったと思い違いをした可能性を否定できない事情が複数認められ、虚偽公文書作成の故意があったと認めるのは困難」と田代検事の故意性を否定している。

 例えば、その例としてあげているのが、「記憶の混同」の核心となっている再聴取における石川元秘書の発言「ヤクザの手下が親分を守るために嘘をつくようなことをしたら選挙民への裏切りだ検事にいわれて、(小沢元代表の関与を)認めた」という箇所。これは、田代検事が捜査報告書に石川元秘書とのやり取りとして記載しているが、録音された供述内容には一切出てこない。最高検は、この点について石川元秘書の拘留中の取り調べの記憶と混同したという田代検事の説明を鵜呑みにして故意性を認めることはできないとしている。

 今回の最高検の調査報告は、捏造捜査報告書と録音された供述内容の食い違いを田代検事の「記憶の混同、思い違い」に無理矢理こじつけることだけに終始しており、事実や証拠に基づく論理性のかけらも無く、身内の犯罪を隠蔽することだけに汲々としている検察組織の醜い姿ばかりが浮かび上がってくる。
27日の処分決定の発表とともに行われた記者会見では、こうした支離滅裂な調査報告に記者から質問が相次ぎ、答えに窮して立ち往生する場面が度々見られたという。

田代検事を起訴できない検察当局の事情

 そもそも検察当局は、陸山会事件の公判で、録音の存在と捜査報告書の捏造が明らかになり、我々が虚偽有印公文書作成同行使で告発した時点で、田代検事の「記憶の混同」とこの件を弁解するしかない状況に追い込まれていた。というのも、田代検事が意図的に捜査報告書を捏造したことになれば、田代に再聴取を命じた組織の意図、すなわち、検察審査会を利用して、小沢一郎を強制起訴に持ち込むという特捜検察の上層部の一部の意図までが遡って問題とされてしまうからだ。

また、「記憶の混同」という弁解を崩せば、少なくとも偽証罪が成立することとなり、「記憶の混同」という説明を田代検事に指示した検察上層部の組織的責任、あるいは犯人隠避罪までも問われることになってしまう。あくまでも今回の問題は、田代検事の個人の「記憶の混同」と言い張る必要があったのだ。

かくして、当局は、田代検事を結局は起訴できないだろうという見通しを我々は当初から持っていたが、それでも心の片隅で、この世の正義の番人といわれた特捜検察なのだから、どこかの時点で自浄作用が働くのではないかと一縷の望みをもっていた。

しかし、残念ながらその望みは完全に絶たれた。今回発表された調査結果の内容を見ても組織防衛だけに終始しているのが明らかであり、そこには組織としての自浄能力も彼らが体現すべき「正義」のかけらも存在しなかった。

2012年6月27日は、この国の検察組織が死んだ日として記憶されることになるだろう。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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特捜検察の歪んだ体質とマスメディアの劣化が生んだ陸山会事件

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陸山会事件の裁判で小沢一郎に対して無罪の判決が下った。

検察官役の指定弁護人が控訴する可能性がまだ残っているが、3年に及ぶ不毛な裁判にやっと決着が着いた。
この裁判が元々不毛なものであったことは、大久保元秘書の取り調べを担当した前田恒彦元検事(村木厚子さん事件の証拠改竄で有罪確定)が、東京地裁の公判に証人として出廷して行った証言を見ればよくわかる。

前田元検事は、陸山会事件というものが、4億円の土地原資がゼネコンからの闇献金と考えた当時の東京地検、佐久間特捜部長ら当時の捜査責任者たちの「見立て違いの妄想」によるものであり、「現場は当初から厭戦ムードだった」と証言している。
また、前田元検事が大阪地検特捜部から応援のために捜査に参加した際に、吉田主任検事から「これは特捜部と小沢一郎の全面戦争だ!小沢をあげられなければ我々の負けだ!」と言われたとも証言している。

特捜検察の見立て違いの妄想から始まった

検察組織では法と証拠に基づく捜査が粛々と行われていると考えていたとしたら、それは全くの幻想に過ぎない。前田元検事が述べていたように、そこは真っ当な捜査が行われる場ではなく「全面戦争」の場であり、親分の首をとると息巻くヤクザ組織の抗争と何ら変わるところがなかった。いや、ヤクザだったら、最終的には警察や法律が取り締まることができるが、特捜の場合は、自らが法の番人面をして無法行為を行うのだから始末におえない。
実際、小沢一郎を起訴するに値する証拠が得られず、起訴を断念せざるをえなくなったことで、今度は検察審査会を利用すべく捜査報告書を捏造し、検察審査会の市民を欺き、まんまと強制起訴に持ち込んだ。しかし、その違法な調書捏造プロセスが、ICレコーダーの隠し録音により今回の裁判では露呈してしまい、検察は逆に窮地に陥った。

大善裁判長は、そうした検察の取り調べ方法を「明らかに違法であり、容認できない」と糾弾し、調書を証拠採用せず、判決文の中でも検察の捜査の在り方をあらためて厳しく批判した。

不毛な裁判に更に不毛を重ねたのが、大手マスメディアの一連の報道だった。
「政治と金」というステロタイプの枠組みにこの事件を当てはめて、小沢一郎という政治家の人格破壊を行った。

特捜検察の不当な捜査手法を黙認したマスコミ

政治資金収支報告書の虚偽記載というが、実質的には記載ミスと変わらない程度の事柄で、元秘書らを逮捕するという異常な捜査を行ったのは、そもそもが小沢一郎の首をとる「全面戦争」という前提認識があったからに他ならない。

本来、マスコミは、そうした強引な捜査手法を批判しなくてはならいない立場にあったはずだが、「これは、捜査の入口であり、この先にもっと大きな山があるはず、検察は小沢一郎に関する決定的な証拠をつかんでいるはず」とご丁寧に捜査の先読みまでして、検察の動きを擁護するコメントを、若狭勝、宗像紀夫といったヤメ検の解説者の口を通じて垂れ流させた。

実際には小沢一郎に対する裏献金を示すような事実や証言などは、全く出てこなかった。前田元検事が証言したように陸山会事件とは、そもそもが特捜の「妄想」の産物でしかなかったのだ。

その結果、検察は、裏献金という元々の見立て(本線)からは、大きく逸脱した「政治資金収支報告書の虚偽記載に関する承認と共謀」という傍線の問題でとにかく、小沢一郎に有罪のレッテルを貼ることに血道を上げることになった。この時点でも大手マスメディアは検察の捜査姿勢を批判することは無く、相変わらず、小沢一郎の説明責任を問うというステロタイプな言説ばかりを垂れ流し続けた。

こうした、検察の捜査姿勢に対するマスメディアの無批判な態度が、捜査報告書の捏造という「明らかな違法行為」(大善裁判長)、すなわち検察の犯罪を生み出したといっても過言ではない。最終的な法の番人、検察の行動をチェックするのは、第一義的にはマスコミをおいて他にない。その無批判な報道姿勢が、検察の暴走を助長させたことは明らかである。

政治とカネ、説明責任を連呼することで問題を隠蔽

 昨日(土曜日)の朝、辛坊治郎がキャスターをやっている読売テレビのウェークアップという番組に、小沢一郎に近い森ゆうこ議員が出演していた。
小沢派の議員は、マスメディアからは締め出されていると聞いていたので、無罪判決が出たことで、この手の番組にも出られるようになったのかと思って見ていたら、辛坊キャスターを含めコメンテーターたちの態度・発言に呆れてものがいえなかった。

森ゆうこ議員が、陸山会事件における検察の捜査姿勢の問題に触れようとすると、「論点をすりかえるな」とことごとくその発言を辛坊はさえぎり、あげくの果ては、局が行った世論調査のパネルを取り出して、「小沢一郎氏は説明責任を果たしているか?」という問いに9割以上の視聴者が「果たしていない」と回答しているという結果を我が意を得たりという顔で示していた。

論点をすりかえているのは、辛坊の方である。この事件を「政治とカネ」というステロタイプの問題にすり替えることにより、特捜検察の誤った見立てとそれに続いた違法捜査、さらにはマスコミを利用してフレームアップするという歪んだ世論操作の実態を隠蔽することになる。小沢一郎の説明責任に関する世論調査を実施する事自体は否定しないが、ならば、なぜ同時に、検察の捜査手法やマスコミの報道姿勢についても調査して伝えないのだろうか。

御用メディアに成り下がったマスコミの劣化

マスメディアの多くは、検察情報を鵜呑みにして垂れ流してきただけのこれまでの報道姿勢を検証・自省することもなく、相変わらず「小沢一郎の説明責任」だけを馬鹿のように言い続けている。中には、検察審査会の制度的な問題点を指摘している解説記事などもあったが、論外である。検察審査会に非があったのではなく、彼らを嵌めた特捜検察の歪んだ体質こそが、陸山会事件を生みだした本質である。

繰り返し言おう、そもそもこの事件の起点にあった、特捜検察の歪んだ特権意識、大物政治家を標的にすることの背景にあった彼らの功名心や出世欲、そして特捜の無謬神話に加担するだけの御用メディアに成り下がった大手マスコミの劣化、そうしたひとつひとつの問題を徹底的に問い直さなければならない。

大善裁判長は、判決文の中で特捜検察の在り方を厳しく批判した。裁判所が判決文で検察を直接批判するということ自体、前代未聞のことである。検察がこうした裁判所の指摘に対して、正対した答えを出すためには、法の番人として先ず違法捜査に加担したものを法的に処分することが第一歩になる。

佐久間元特捜部長ら5名を刑事告発

私も発起人の一人になっている「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」は、陸山会事件の判決がでる前日の4月25日の時点で、陸山会事件で虚偽の捜査報告書を作成したことが明らかになっている田代政弘検事の上司だった東京地検特捜部の佐久間元特捜部長ら5名に対する告発状を提出した。

告発にあたっては、当会の会員にネットで呼びかけた。告発状を作成して、呼びかけから提出まで数日しかなかったにもかかわらず、25日までに全国から125人もの告発状が続々と集まった(写真)。検察庁に持ち込み担当官に告発の趣旨を説明するとともに、125人分の告発状を直接手渡した。ドサッと重い告発状は、数を確認するだけで小一時間を要した。

既にこの5名に対しては、虚偽の捜査報告書の作成に加担した可能性や他にも検察審査会を誘導・利用しようとした別の捜査報告書を作成したことについて質す質問状を送付していたが、告訴に踏み切ったことで、今後は法廷の場で真実を明らかにしていきたいと考えている。

陸山会事件は、最初から最後まで不毛な事件であったが、その過程で特捜検察のお粗末な実態や検察とマスメディアのもたれ合い構造が覆い隠すべくもなく露呈してしまった。
その結果として、特捜の無謬神話が壊れ、検察組織やマスメディアに対する不信と深い失望(絶望と言ってもよい)が生まれた。パンドラの筺が開けられてしまったのだ。

そのパンドラの筺のギリシヤ神話に倣っていえば、特捜の無謬神話が壊れたことで、ひょっとすると、これからの日本では「不信」や「疑心暗鬼」が跋扈するのかもしれない、しかし、そうした絶望的状況のなかにあって、125人の市井の人々が、自ら覚醒して声を上げたことは、パンドラの筺の底に残された、唯一の希望となるはずだ。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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暴走検察VS市民の最終戦争が始まった

 私が発起人の一人になっている「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」に一般市民からの入会申込が殺到している。

きっかけは、当会が先週の4月16日、東京地検に出向き、その直後に行った司法記者クラブでの記者会見だった。

当会は、陸山会事件の捜査の過程で虚偽の捜査報告書を作成したことが明らかになっている田代政弘検事について、本年1月12日付で、虚偽有印公文書作成・同行使及び被疑者不詳の偽計業務妨害罪で告発し、1月17日付で東京地検刑事部に受理されている。しかし、その後、捜査の進展が見られないことから、捜査を促す捜査要請書を2回(2月9日、21日)にわたり提出するとともに、先週4月16日には、田代政弘検事の上司で、陸山会事件の捜査を指揮していたと考えられる元東京地検特捜部長、佐久間達哉など5名に対して質問状を提出した。

 その質問状の中では、田代検事が作成した捜査報告書以外にも複数の捜査報告書が検察審査会に提出され、小沢一郎を強制起訴に持ち込むために意図的に利用された可能性があることについて質している。現時点で、彼らからの回答は無いが、オリンパスの粉飾決算問題などをすっぱ抜いた月刊FACTAが、4月20日発行の最新号で、我々が指摘した別の捜査報告書が実在していることを初めて報じた。FACTAは、記事中でその別の報告書の文言を具体的に取り上げつつ、検察審査会の決定を強制起訴へと誘導するために捜査報告書が利用されたことを詳しく述べている。

田代検事の起訴見送り報道に怒りが爆発

また、先週の記者会見の後、4月20日の日本経済新聞と朝日新聞が検察関係者の見解として「田代検事の起訴は見送りへ」と報じた。マスコミ関係者の話によれば、当会が16日に行った記者会見の後、各マスコミが一斉に取材に動き、検察関係者が火消しにやっきになった中で、田代の起訴見送りの可能性について言及したらしい。

この記事で検察に対する一般市民の怒りが一気に爆発した。

当会には、毎月数件の入会申込がコンスタントにあるが、この記事が出てからは、数日で、200件近い入会申込が殺到している。おかげで事務局はパンク状態だが、それだけ、田代検事を不起訴に持ち込もうとする検察の組織防衛の姿勢に対して、一般市民の怒りが強いということだ。

(福岡在住、女性)
「小沢氏の個人的な支持者ではありませんが、司法界、官界の腐敗ぶりには怒りを感じております。今、日本は本当の近代国家になれるかどうかの岐路にあると考えております。民主主義と人権が尊重される社会を目指して、できることから始めてゆきたいと思います」

(町田市、女性)
「70才を過ぎた老婆ですが、日本の法相界の腐敗には年寄りだからって黙って見ていられぬほど腹が立ちます。小沢さんの無罪有罪にかかわらずこれからも『しつこく、しつこく』司法界の不正を正して行かねばと思います。とかく日本人は熱しやすく冷めやすい民族ですので、その点が一番心配です」

(大阪府、男性)
「個々個人には何程の事も出来無し、金も名も無いけど、歴史の傍観者には成りたくない。是非、片隅にでも加えて下さい」

(東京都世田谷区、男性)
「先日の『記憶の混同』田代が不起訴ということにはあきれ果てました。
本当に危機感を感じます。まさに明日は我が身と言うことを、全国民が理解してほしいと思います」

 これらは、当会に寄せられたほんの一部の声に過ぎない。仮に検察が田代検事を不起訴にするのであれば、当会は、検察審査会に本件を持ち込むことになるだろう。そうなったら、検察審査会を欺いた特捜検察の起訴の是非を検察審査会が審査するという前代未聞の事態に発展する。もし、そんな事態に陥るなら、それは検察の自浄機能が完全に崩壊したことを意味する。

それでもなお彼らは、陸山会事件の時と同様に嘘っぱちの捜査報告書をでっちあげ、審査会の市民たちを再び欺き、嵌めようとするのだろうか、まるで醜悪で滑稽なブラックジョークである。

確かに、これは笑えない話だが、そうなる確率はかなり高い。というのも検察の立場にたってみれば、田代検事を起訴するということは、結果的に組織全体の問題に波及するからだ。
陸山会事件では、石川元秘書が、たまたまICレコーダーで録音していたから、捜査報告書の虚偽内容が明らかになった。ところが、平気で調書や捜査報告書を作文する強引な捜査手法は、特捜内部で日常的に常態化していたのであり、田代検事の問題は、氷山の一角に過ぎない。もし、田代が起訴され全てが明るみに出されたら、特捜検察の組織全体の問題、特捜解体にも繋がりかねないという恐れが彼らを震撼させ凍りつかせている。

田代の起訴は検察組織そのものを裁くこと

 村木厚子さん事件のフロッピーデータの改竄問題では、検察組織は、前田元検事およびその上司を起訴することで、まさしくトカゲの尻尾切りをしようとしたわけだが、田代検事の問題では、そうはいかないだろう。なぜなら、田代検事は、前田元検事の改竄行為のように分かり易い単独ミスを犯しているわけではなく、一貫して組織の全体意志にそって行動しているからだ。田代検事を裁くということは、検察組織そのものを裁くということに直結する。

現在、検察内部では、守旧派と改革派の熾烈な綱引きが行われているのではないかと推察する。FACTAが報じたように、検察審査会を誘導するために田代以外の検事によって作成された別の捜査報告書の現物が存在しており、それは、複数のマスコミ関係者に流されているようだ。このことは、田代検事を不起訴にしようとする動きに反発する改革派が検察内部にも存在していて、彼らがディープスロートになって内部情報をリークしていると想像できる。

我々市民が上げる声が、そうした自浄能力のある人々を動かし、特捜検察の解体的出直しに繋がることを切望する。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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裸の王様「特捜検察」を即刻解体せよ

既に報道されているように、小沢一郎の政治資金団体「陸山会」の土地購入をめぐり政治資金規制法違反の容疑で起訴された元私設秘書、石川知裕衆院議員に関する供述調書の大半が証拠採用されないことが決まった。
これは石川元秘書が、特捜の田代検事による再聴取の模様をICレコーダーで密かに録音したものを裁判所に提出し、そのやりとりから供述調書の作成にあたって「威迫行為」が存在したことが認められたことによる。

大手マスメディアはこの裁判所の決定をほとんど何の解説も加えず、申し訳程度に報じていただけが、村木厚子さんを冤罪に陥れた郵政不正事件の場合と同様に、核心となる供述調書のほとんどを証拠採用しないという裁判所の異例の決定は、特捜検察の決定的な敗北を示唆するものに他ならない。

特捜検察の決定的な敗北と小沢一郎の帰還

これで石川知裕衆院議員の無実はほぼ確実となったし、その供述調書を根拠に検察審査会にまで持ち込んで強制起訴した小沢一郎の裁判にも大きな影響を与え、立件の根拠を失った検事側は、今後の公判の維持さえままならなくなるだろう。政界では早くも小沢復帰後の政局シナリオまで囁かれ始めている。

ニコニコ動画で、渦中の石川議員、郷原信郎弁護士、江川昭子氏、そして「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」代表の八木啓代氏と元暴言検事こと市川寛氏による緊急討論「検証!徹底討論:検察調書大量却下は何故起きたか」が行われた。

この中で印象的だったのは、「威迫行為を行った」とされた特捜の田代検事の対応だ。
威迫というと、検事が暴力的な言葉を浴びせるような場面を創想像するが、それとは逆に田代検事は「特捜部は恐ろしいところだ。何でもできるところだ。(シナリオ通りの調書がとれないと)捜査の拡大がどんどん進んでいく」と言って石川議員に供述書へのサインを迫ったという。
かつて容疑者を恫喝して供述をとったことから「暴言検事」として世間からバッシングされた経験を持つ市川寛弁護士は、「田代検事のとった態度は、自分の場合とは正反対に見えるが、上層部の見立てに沿った証言をとるために追いつめられていた点では全く同じ」と指摘していた。

見立て通りの供述をとるために追いつめられる検事

特捜検事が、自分の属する組織「特捜部」を「何をするかわからない恐ろしい所」といっている構図は、暴力団の下っ端構成員が、ミカジメ料を取り立てるために堅気の人間を脅す時の常套句と何ら変わらない。しかも、この田代検事は、自身がその暴力装置の一部となっている自覚を持ちつつ、無実の人間に対して強引に罪を認めさせようとしているわけで、考えようによっては暴力団よりも性悪の頽廃行為といえよう。

市川寛元検事の暴言行為が問題となった時は、世間やメディアは、その行為を彼自身の個人的資質の問題に帰して、検察全体の構造問題として議論する動きを封じてしまった。しかし、この田代検事や郵政不正事件で証拠を改竄した前田検事のケースから浮かび上がってくるのは、特捜検察という組織全体が頽廃しきっているという事実である。問われているのは、個々の検事の問題ではなく冤罪を生み出す検察の組織構造、体質そのものである。

今や裸の王様になってしまった特捜検察だが、過去において日本人の特捜に対する信頼には特別のものがあった。「お天道様はどこかで見ている」という言葉に表れているような素朴な庶民的心情を背景に、特捜検察は、世が乱れると必ず登場してきて世直しを行う正義の味方として世間から喝采を浴びてきた。

特捜検察のルーツはGHQの占領政策

しかし、特捜検察とは、そもそもお天道様などではなかった。
特捜のルーツを辿ると戦後のGHQの占領政策につき当たる。占領直後、旧日本軍部によって隠匿されていた金塊、ダイヤモンドなどがフィクサーを通じて政界等に流れていた隠退蔵物資事件が発覚する。この退蔵物資の行方については、当の占領軍の要人が深く関わっていたといわれこの事件自体が深い闇に包まれているが、この捜査を担当する組織としてGHQによってつくられた隠退蔵事件捜査部が、現在の特捜の前身だ。つまり、GHQという絶対権力者の手足として動くことが特捜という組織に与えられた最初のミッションであり、GHQの権力を背景に当時の官僚・政治機構に対して超越的な立場で捜査を行った。端的にいえば、特捜はGHQの手先機関(エージェント)だったのだ。

現在の特捜検察が、官僚組織であるにも関わらず、政治に対して独立して二重権力のように振るまうのはこうした出自によるのであり、特捜とは本来的に、政治家、官僚を取り締まる超越的な存在であり、自分たちが国を動かしているという強烈なエリート意識もこうした出自から生まれている。

同時期にGHQによって、もう一つの重要な占領政策が実行された。それはメディアに対する「検閲」である。この検閲問題の存在そのものを明らかにしたのは、江藤淳氏の研究とその著書「閉ざされた言語空間、占領軍の検閲と戦後日本」によるところが大きい。

GHQがメディアに強制した自主検閲

GHQが行った検閲は、旧日本軍部の言論統制のように検閲した部分を黒く塗りつぶすような稚拙なやり方とは異なり、メディア側の自主検閲という巧妙な仕掛けで行われた。すなわち、検閲行為は存在していたにも関わらず、そのことは一般国民にはわからぬように仕組まれたのだ。GHQは、メディアに対して検閲のガイドラインを示し、それに従わぬ報道機関は、有無を言わさず取り潰すという圧力を加えた。その結果、日本のメディアは検閲ガイドラインを念頭に置きつつ、あたかもタブーを自己増殖させるような形で閉ざされた言語空を形成していった。日本のマスメディアの多くは、何かを伝えようとするのではなく、逆に伝えてはならないタブーを常につくりだし、そのタブーを中心とした、閉ざされた言語空間の「空気を読む」ことで生き延びるという道を選択したのだ。

そして、ここ数年で手の内がすっかり明らかになってしまった特捜検察とメディアの共犯関係も、この占領期の闇の時代にその原型が形作られた。特捜検察が獲物を捕らえると、メディアが総動員で検察からのリーク情報をもとに血祭りに上げ、裁判がスタートする以前に犯罪者としてのイメージが作り上げられてしまう。この基本構造はGHQの占領政策の下で政官支配のために仕組まれたものであるが、占領時代が終わっても特捜とメディアの共犯関係はそのまま存続したのである。

実はそうした共犯関係に基づく特捜事件およびその報道とは、日本というムラ社会にある種のカタルシスをもたらす祭りのような機能を果たした。これまでの特捜事件を通じて逮捕、起訴された政治家、官僚、経営者は、その祭りのスケープゴートにされたといってもよい。

特捜とメディアの共犯関係の底流にある祭りの構造

もちろん、これまでの特捜事件が全て冤罪であったなどというつもりはない。しかし、この国の人々が、特捜検察によって新たなスケープゴートが祭り上られる度に喝采の声を上げてきたのは紛れもない事実であり、生け贄の血を欲したのは、特捜検察やメディアというより、この国の人々のほうなのだ。

郵政不正事件をめぐる村木厚子さんの冤罪事件などに関わることを通じて、冤罪を生み出すものとは結局何なのかと折ある毎に考えてきたが、多くの場合、冤罪を最初から意図的に仕組む極悪人がいたわけではない。冤罪が生まれるきっかけとなっているのは、検察組織の中で上層部の見立てには逆らえないというサラリーマン根性であったり、特捜にいるうちに手柄を立てて昇進コースに乗りたいというような卑しい出世欲であったりする。

そうした小さな劣情の連鎖が、結果として冤罪を生み出し、無実の人間の人生を大きく狂わすわけだから、法曹人はより高い品性を持って仕事をしなければならないというのは当然だ。しかし、そうした議論以前に、そもそも特捜という組織が、日本ムラの生け贄祭りの祭司として機能しているのだとしたら、その構造自体が冤罪を生み出す土壌、根本要因になっているといえよう。

歴史的使命を終えた特捜という組織

特捜の本来のミッションは、占領時代が終了した時に終わっている。ところが、その後も組織はゾンビのように存続したために「お天道様」として振る舞わざるを得なくなり「検察無謬神話」が作り上げられていった。しかし、その無謬神話に縛られたことで、逆に冤罪をつくりだし、証拠を改竄し、供述を捏造するような組織に成り下がってしまった。さらに、ライブドア事件など最近の経済事件などにおいては、郷原信郎氏などが指摘しているように、時代錯誤な法律運用や経済音痴による弊害ばかりが目につく。今や裸の王様と化した特捜は即刻解体すべきだ。

特捜検察に屠られたスケープゴート、例えば、江副浩正、鈴木宗男、堀江貴文といった人たちは、国策捜査のまさしく被害者だと考えているが、ここで繰り返し指摘しておきたいのは、彼らが成功者の座から引きずり下ろされる姿を見て喝采していたのは、他ならぬ私も含めたこの国の愚かな国民だったということだ。もういい加減、特捜検察に「世直し」を期待したり、彼らを世の不正の全て暴いてくれる「お天道様」に準えたりすることからは卒業しなくてはならぬ。我が心の「特捜」を解体することこそが特捜検察解体の第一歩となる。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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冤罪デパート大阪地検が、次の標的にした羽賀研二

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芸能ニュースなどは日頃はほとんど目にしないが、4年前にタレントの羽賀研二が、恐喝と詐欺の容疑で逮捕され、その後の一審では無罪となったことは記憶していた。逮捕が報じられた当時、メディアを通じて私が得た事実の印象とは大凡以下のようなものだった。

「タレントの羽賀研二は、保有していた未公開株を不動産会社社長に不当な高値で売りつけた。その後、その未公開企業が倒産したため、その社長は、生じた損害を賠償してほしいと申し入れた。これに対し羽賀研二は元プロボクサー世界チャンピオン、渡辺二郎と共謀し、示談の話し合いの場に暴力団組員を同席させるなどして恐喝し、4億円に上る賠償額を1千万円という不当に低い金額で示談に持ち込むことで差益3億7千万円を詐取した」

梅宮パパがインタビューに答えて、「俺の目に狂いは無かった。あんな奴に娘を取られなくてよかった」とコメントしていたのを見て、やはり羽賀研二とは、とんでもなく胡散臭い奴だったのねと何の疑いも持たず思い込んでいた。
ところが、驚くべきことに、私のそうした印象は、どうも根本から間違えていたようなのだ。
逮捕の翌年に東京地裁で無罪判決が出て、「あれ?どうして無罪になったのか」と初めてこの事件に疑問らしきものを感じたのだが、それ以上調べたりすることはなかった。亡くなった梨本勝芸能リポーターが当初からこの事件は冤罪であるといっていたことなどを後になって知った。

そしてこの事件は、先々週の6月17日、二審(高裁)の判断が出て、一審の無罪を覆し、恐喝未遂と詐欺罪で有罪、羽賀研二には懲役6年の実刑判決が下された。

先週の23日、私が発起人の一人になっている「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」が主催したシンポジウムに彼が急遽参加して驚くべき真実を語った。

都合の悪い証人を偽証罪で起訴する検察

詳しくはその模様を岩上安身氏のユーストリーム放送やニコニコ動画で流しているので是非見ていただきたいが、羽賀研二は被害者とされている不動産会社社長に元値(40万円)を偽って高値(120万円)で売りつけたとされ、そのことが詐欺罪成立の根拠とされていた。しかし、決定的なことは、実はその社長が未公開株の取得価格・元値をあらかじめ知っていたことを証言した証人がいたのだ。この証人は、羽賀研二の知人の歯科医だが、一審ではこの証言が決め手となり、羽賀は無罪となった。
では何故、二審では有罪になったかといえば、検察側がその決め手となった証人を偽証罪で在宅起訴し、その証言の信憑性が崩れたことで結果的に詐欺罪が成立してしまったのだ。
この歯科医の記憶や証言内容に不自然な点が多いとされたのだが、それは糖尿病のため最近になって失明してしまったことが大きな要因だ。

シンポジウムに参加した郷原信郎氏をはじめとしたそうそうたる弁護士の面々も全員が指摘していたが、検察側にとって都合の悪い証言をする証人を検察の権限で片っ端から起訴するとしたら、誰も尻込みして証言などしなくなるだろう。

証言の是非や信憑性は当該の裁判の中で問われるべきで、証言者を別途偽証罪で起訴するというのは、国家権力による恫喝に他ならないし、あってはならない話だ。

そもそも詐欺罪を適用したのが大間違い

また、シンポジウムでは、そもそも未公開株の取得や譲渡に関わる損得の問題は民事案件として取り扱われるべきであり、詐欺罪を適用しようとしたこと自体に大きな間違いがあると指摘されていた。被害者とされた不動産会社社長が損害を被ったのは、当該の未公開企業が倒産したためで、他方で羽賀研二が売り抜けて儲けているなら、相手を騙したという言い分も成立するが、実際には、羽賀研二はその社長に未公開株を譲渡した差益で更に同じ未公開株を買い増して、大損を被っている。

当時、未公開株は、額面の何百倍にもなると考えられていて、羽賀研二もその社長も欲の皮が突っ張っていた点で同じ穴のムジナということはできても、一方的に騙した、騙されたとは、とても言えるような関係ではない。
報道では、暴力団関係者が示談の話し合いの際に同席し、羽賀研二側の代理人として恐喝行為に加わったかのように書かれているが、この暴力団関係者と不動産会社社長は実は知り合いだった。しかも、この示談の後には架空の債権譲渡の覚書をもとに、今度は羽賀研二に対して取り立てをかけたりしている。そもそもどちらが被害者、加害者かもわからない仲間内のどろどろした話なのだ。

暴力的な取り調べを受けた羽賀研二

そして、こうした理不尽な裁判が何故行われているのかと言えば、羽賀研二の事件が、組織暴力(ヤクザ)を取り締まる大阪府警四課によるものだからと、前回のシンポジウムでデビュー?した元暴言検事こと市川寛弁護士が詳細に解説してくれた。

前回のシンポジウムで正に彼が言っていた「ヤクザと外国人には人権が無い」という歪んだ検察の常識を地でいったような事件なのだ。実際、羽賀研二は取り調べの最中に蹴りを入れられたり、髪を掴まれて振り回されるなどの暴力行為を何度も受けたという。
それにしても、無罪の決め手となった弁護側の証人を偽証罪で起訴することまでして、この事件を強引に有罪にしたてようとした検察の姿勢は何に起因しているのだろうか?

それは、この事件の所轄が大阪地検であったからに他ならないだろう。
つまり、村木厚子さんの冤罪事件に続き、羽賀研二のように知名度の高いタレントの裁判で負けて、結果的に強引な立件や操作手法が問題化すれば、東日本大震災の発生で、せっかく検察問題からそれていた世間の目が、再び検察や大阪地検の上に注がれ、元の木阿弥になりかねない、だからこそ、この事件はなりふり構わず何としても有罪にしなくてはならなかったのである。

シンポジウムで羽賀研二は、自分の無実を証明するために証言台に立ち、逆に偽証罪で起訴された歯科医師のことに話がおよんだ時、思わす声を詰まらせ涙ながらに訴えた。

「詐欺や恐喝は断じて行っていないが、結果的に私がこうした立場に追い込まれたのは、一攫千金をねらった罰だと個人的には猛省している。でも、真実を証言してくれた徳永先生(歯科医師)まで罪人の立場においてしまったことは本当に申し訳ないと思っている。私のことはともかく、どうか皆さん徳永先生を救ってください!」

二審では、この徳永歯科医師の証言が偽証ではないことを示す別の証人も証言台に立ち、不動産会社差長が未公開株の元値をあらかじめ知っていたことを裏付ける証言を行ったが、なぜかこの証言が証拠採用され判決に反映されることはなかった。

証言の核心とは関係ない言葉尻を捉えて偽証罪で起訴

しかも、歯科医師が偽証罪に問われたのは、不動産会社社長が未公開株の元値を知っていたという証言の核心にかかわることではなく、羽賀研二との関係を「知人」と述べたことに対して、この医師が羽賀の結婚式などに出席していることなどを持ち出し、知人以上の関係にあったとし、「知人」と証言台で述べたことが偽証とされたのだ。
正に言葉尻を捉えられて無理矢理、偽証罪に仕立て上げられたとしか言いようがない。歯科医師の証言を補強する別の証人がいたにもかかわらず、そのことは顧みられることはなく、この言葉尻を捉えた起訴によって徳永歯科医師は偽証を行ったとされ、証言者としての信憑性を崩されたことにより、羽賀研二も無罪から一転有罪となってしまったのだ。

村木厚子さんの冤罪事件をめぐり、大きな社会的批判を浴びた大阪地検だが、その冤罪をつくりだす体質、やり口は今も何も変わっていない。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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管直人首相が目論む?「脱原発解散総選挙」というウルトラ延命策

   
自然再生エネルギーによって発電された電力の全量買い取り制度を導入する「再生可能エネルギー促進法」が正念場を迎えている。
退陣表明をしながら、なお政権続行に意欲を見せる管直人首相が、成立に並々ならぬ意欲を示していることなどが報じられており、政局との絡みで一気にこの法案の帰趨に注目が集まっている。

結論からいえば、日本の自然代替エネルギーシフトを後押し、環境ビジネスの推進をこの国の新たな成長戦略の柱としていくためには、是が非でもでもこの法案は通す必要がある。逆にこの法案を通すことができなければ、今後の日本の環境ビジネスは世界的なイノベーション競争から取り残され、卓越した要素技術を持ちながら、事業展開で後塵を拝するというこれまでの負けパターンを繰り返すことになるだろう。

「再生可能エネルギー促進法」は孫正義を利する保護法案か?

一部でこの法案は、メガソーラー事業などへの参入を既に表明しているソフトバンクグループ孫正義氏、および彼を中心に組織された「自然エネルギー協議会」を利するだけの保護法案であるといったトンチンカンな議論をするような輩も出てきているが、馬鹿を言ってはいけない。
福島原発事故が発生した3.11以降にこの「再生可能エネルギー促進法」が公に議論されているために、脱原発との関わりでこの法案が取り上げられ、あたかも管首相が孫正義に乗せられてこの法案を提出しているかのように思われているが、お門違いもはなはだしい。実際は、民主党が2009年の政権交代によって自然代替エネルギー重視の姿勢を打ち出し、鳩山前首相が二酸化炭素の25%削減を国連で公約した時点から法制化作業が進められてきたものである。

この法案が孫正義を利するものだというような質の悪い皮相な議論をしている連中は、この法案に盛り込まれている「電力の全量買い取り制度」が、今後の自然代替エネルギーの普及にとってクリティカルポイント(決定的要素)であるということを、全く理解していない。あるいは、そのことを承知した上で「送、発電分離」という、日本の電力行政史上、初めて陽の目を見た議論を再び封殺するために悪質な確信犯的議論を流布しているに他ならない。

余剰電力買い取りと全量買い取りの本質的な違い

現在、日本では余剰電力の買い取りが制度化されている。拙宅でも10年前に二世帯住宅を建築した際に太陽光発電を屋根にのせ、発電した電気を東京電力に売電しているが、発電した電気は先ず家で消費して、余った分を東電に売るという形になっている。
それが全量買い取りになると、いったん発電した電気は全て電力会社が買い取ることになる。制度上の違いは、いってみればそれだけである。売電価格にもよるが、個人の場合は、売電収入の実入りが2~3割良くなるかどうかの違いでしかないが、企業にとっては、全量買取制度の有無は、電力事業に参入するかどうかを左右する決定的判断要素(クリティカルポイント)となる。

つまり、余剰電力の売却制度が想定しているのは、あくまでも自家消費を前提とした発電だが、全量買取制度の下では、自家消費とは関係なく発電だけを行う事業主体が想定できるようになる。そして、こうした発電事業への参入を意図する企業、投資家にとって、全量買取制度があることで、太陽光発電等の発電設備の設置にかかる費用を「投資」、そして、そこから得られる電気の売電による収入を「リターン(金利)」として見なすことが可能になるのだ。

投資とリターンの関係を明確化する全量買取精度

別の言い方をすれば、「投資」と「リターン」の関係が明確化されることで、逆に投資活動が活性化されることになる。単純化していえば、1億円で建設された発電設備から発電される年間の電力量が、仮に500万円で買い上げられることが明らかであれば、その投資に対するリターン(年利)は5%と計算できる。安定的に年利5%のリターンが期待できるとなれば、投資機会が見えなくなった日本のような先進国にあって、それはラストリゾート(最期の投資機会)になるといっても過言ではない。

事実、世界で計画されているメガソーラープロジェクトの投資主体として名乗りを上げ初めているのは、安定的なリターンを上げる投資機会を世界中で探している、年金資金のような巨大な資金を保有する機関投資家である。欧州を中心に責任投資原則という考え方が広がっており、食糧や資源を舞台にハイリターンだけを追い求めて「投機」を繰り返してきた従来の投資姿勢は厳しく制限されるようになった一方で、メガソーラープロジェクトのような環境分野への積極的な投資が始まっている。

安定的なリターンをもとめる世界の年金資金、環境投資マネー

年金資金は、その本来的性格からしてハイリスク・ハイリターン投資とはもともと馴染まない。ただ、年金制度を存続させるためには、平均で年利5%程度のリターンを実現することが不可欠であることから、大儲けはできなくとも安定的なリターンが期待でき、なおかつ地球環境問題の解決にも貢献できるメガソーラープロジェクトのような環境セクターへの投資に世界の年金資金等の関心が集まっているのだ。そして、彼らが投資判断を下す上で最低限の条件となるのが、投資とリターンの関係が明確化されていること、すなわち発電ビジネスの問題でいえば「全量買取制度」が施行されていることである。

日本の問題に話を戻すと、福島原発事故により発生した電力不足危機をチャンスに変えるためには、発電、送電を地域電力会社が独占してきた体制に風穴を開け、新たな事業者、新たな資金を呼びこむ仕掛けが不可欠なことは明らかである。巨大な賠償債務を抱えることになる東京電力に既にあらたな投資余力はなく、赤字財政に呻吟する政府とて同じような状況だ。だとすれば、電力の世界に新たなプレイヤーと新たな投資を呼びこむことをしなければ、自然代替エネルギーへのシフトは進まず、原発の新設や再稼働も困難な中で、電力不足が今後も長期にわたり解消されない事態に陥る。そうなれば、早晩、国内製造業の本格的な国外逃避が始まるだろう。

グローバル環境投資マネーを呼び込め

「再生可能エネルギー促進法」が、特定事業者を利するだけの保護法案だと揶揄する前に、3.11以降の現実を見通してエネルギー産業への参入をほぼ1週間で決断した孫のような企業家が、この日本に存在していた幸運をむしろ前向きに評価すべきだ。
孫が提唱するメガソーラープロジェクトが、どこか1箇所でも、この日本で実現すれば、世界の投資家の目は、日本の自然代替エネルギー開発投資に一気に向かうだろう。
自然代替エネルギーによる発電を20~30%にまで高めると仮定すると、その発電設備に対する投資規模だけで10兆円は下らない。もともと地域電力会社だけで手に負える規模ではないのだ。従って必要なことは、世界に目をむけ、グローバル環境投資マネーを呼び込む仕掛けつくりを一刻も早く進めることだ。それが結果的に3.11後の復興事業の加速にもつながる。

菅直人首相は15日、国会内で開かれた「再生可能エネルギー促進法」の集会に参加し、「国会には“菅の顔は見たくない”という人がたくさんいるが、ならばこの法案を早く通した方がいい」と述べ、早期退陣を求める与野党議員を挑発した。集会での菅首相は、法案の支持者を前に終始上機嫌で、内心ではひょっとすると「一点突破、全面展開」を考えているのかもしれない思わせるほどだった。

「一点突破、全面展開」とは、菅直人がよく口にする、自身が得意とする行動パターンのことだ。これを今の状況にあてはめ、管直人になったつもりで今後の行動を勝手に想像すれば、仮に「再生可能エネルギー促進法」が通らない場合は、解散権を行使し、衆議院解散、総選挙に打ってでるのではないか。その場合に実施される総選挙は、「脱原発解散総選挙」とされ、脱原発の是非を問う実質的な国民投票となるだろう。

私は管直人という政治家については、お遍路姿を公開するよう所が昔から虫が好かず、顔も見たくないくらいだが、仮にそうした状況が到来したら、迷わず官直人政権を支持する。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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検事失格!外国人とヤクザに人権は無いと教えられた元暴言検事が上げた叫び

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先週の月曜日、明治大学大学院が主催し、私もメンバーとなっている「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」の協力でシンポジウム「検察、世論、冤罪、」が開催された。そのシンポジウムに登壇した元検事、市川寛氏の検察体質批判の発言が大きな波紋を呼んでいる。

市川氏は、現在は弁護士として活動しているが、5年前に佐賀地方検察庁の検事をある事件をきっかけに辞職した。そのきっかけとは、冤罪事件として当時のマスコミにも大きく取り上げられた「佐賀農協背任事件」だ。

この事件は、10年前の2001年、当時の佐賀農協の副島組合長が不正融資を行っているという内報を受けた佐賀検察庁が独自捜査を行い、副島勘三組合長を背任罪容疑で逮捕・起訴するのだが、全く身に覚えの無かった副島組合長は、法廷では一転無罪を主張する。副島組合長は、取り調べを行った検事から「なんだこの野郎!ぶっ殺してやる」などの暴言に脅され、やむなく調書にサインしたこと、検察の主張する犯行時にはアリバイがあったことなどを涙ながらに訴えた。裁判では担当検事が暴言行為を認めたことやそもそもアリバイの確認を行っていないことが明らかとなり、自白調書の任意性が否定され証拠採用されず、結果無罪が言い渡された。検察側は即控訴するが、その後、副島組合長のアリバイ証拠を地検当局が隠匿していたことが明らかとなり、控訴は棄却され2005年無罪が確定した。

元暴言検事が、被疑者の家族を訪ね謝罪

この事件で、副島組合長に「ぶっ殺してやる」等と暴言行為を行ったとされた検事が、市川寛氏である。シンポジウムの前日にテレビ朝日のザ・スクープで検察の一連の冤罪事件を取り上げた特集があったが、この番組の中で、市川氏は副島組合長の長男、健一郎氏のもとを訪れ、土下座をして謝罪する。
副島氏の取り調べにあたりこの事件の主任検事だった市川氏は「暴言検事」としてマスコミから激しいバッシングを受けた。しかし、TBSの番組やシンポジウムでの発言を通じて逆に明らかになったのは、そうした暴言検事へと市川氏を追い込んでいった検察組織の驚くべき実態だった。

詳しくは、テレ朝ザ・スクープの番組シンポジウムの動画がアップされているので是非見てほしいが、市川氏が検事を辞めざるをえなくなったのは、容疑者の人権を無視した暴言を吐いたからでも結果的に裁判に負けたからでもない。検事として自らの暴言行為を認めてしまったからなのだ。

シンポジウムで市川氏は、任官した1年目のとき、先輩検事から「ヤクザと外国人に人権はない」と教えられたことを暴露した。この言葉に激しい違和感を抱いたが逆らうべくもない。佐川農協背任事件についても、実はこの事案を立件しようとしたのは、当時の彼の上司であった佐賀検察庁の次席検事であり、事件のシナリオは全てその次席検事が描いていた。市川氏はほとんど事件の内容もわからぬままに主任検事として担当させられ、副島組合長から無理矢理自白調書を取ることを求めら、そのプレッシャーから暴言行為に及んでしまう。そもそも、副島組合長の自宅や事務所を家宅捜査したものの有罪を立証できるような証拠は一切得られず、市川氏を含め現場の担当官たちは全員が立件は無理と反対したのだが、次席検事の鶴の一声で半ば強引に起訴に持ち込まれてしまう。

次席検事の出世欲が、強行捜査、立件の背景にあった

何故こんな強引な捜査が強行されたかといえば、それは驚いたことに、次席検事の出世欲だった。その次席検事は独自捜査で実績を上げ、東京地検特捜部へ栄転することを狙っていたのだという。そんな些末な一人の検事の我欲が、罪も無い個人を冤罪に陥れ、人生を大きく狂わせた事件の原因だったのかと俄には信じられないくらいだが、市川氏はそれが紛れもない検察組織の実態だという。

市川氏によれば、もちろん検事の中にはそうした理不尽な捜査や立件に対して異議申し立てをおこなう強者もいるが、大多数は先輩検事のいいなりのロボットになるか、市川氏のように内心に大きな疑問を抱きながらも反抗できない「半端者」になってしまうのだという。

こうしたある種の「暴力」によって組織の構成員を「教育」するシステムは、一般には「体育会系」とかいわれて日本の企業・組織社会の土壌のもとではむしろ推奨される傾向があるが、検察組織の場合は、それが著しく度を越しているばかりか、内向きな組織の論理自体が自己目的化し、先輩検事から受けた暴力が代々受け継がれていくような暴力の連鎖が形成されている。

軍隊やヤクザ組織であってさえも組織の暴力連鎖は、最終的には組織の底辺部の人間がしわ寄せを食うという地点で止まるものだが、検察組織の場合は、それが一般人にまで及んで冤罪をつくりだす分だけ罪深い。

暴言行為ではなく組織の掟をやぶったから辞めさせられた

市川氏は、冤罪事件を契機に検事を辞めるが、それは、暴言行為に対して責任をとらされたからではない。なんとなれば、被疑者に対する暴言や恫喝行為は他の検事たちも日常的に行っているからだ。市川氏が検察組織にいられなくなったのは、そうした暴言行為を行ったことを公の場で認めてしまったから、つまり検察組織の暗黙のルール、掟破りをしてしまったからに他ならない。

「私は、検察庁を離れて5年ほどになりますがようやく夢から覚めました。私は大変な、取り返しのつかない過ちを犯した輩ではありますが、そうであるがゆえに、その償いとして、検事になってはならなかった人間として・・・。私が見てきたこと、聞いてきたこと、経験したことを償いとして伝えていくのが、ひょっとしたら、私に与えられた償いの道であるとともに、役目ではなかろうかと考えています」

シンポジウムでの発言を市川氏はそう言って結んだ。市川氏は検察組織の掟に従えなかった半端者であり、その意味では「検事失格」であったのかも知れない、しかし、そのことは人間として失格であったことを意味しない。逆に人間の顔を忘れた検察組織のあり方こそ糾弾されるべきである。

取り調べの全面可視化が不可欠

「検察のあり方検討会議」の委員でこのシンポジウムにパネリストとして参加していた郷原信郎氏は、市川氏の発言を受けて、取り調べの全面可視化など、検察改革を本気になって進めなくてはならないと訴えた。
村木厚子さんの郵政不正事件での前田元検事による証拠改ざんなどを契機に法務大臣の私的諮問機関として召集された「検察のあり方検討会議」は、数回の討議の上、3月末に早々と提言書を提出した。検討会議の発足当初は、検察批判の世論の後押しを受けて、改革に前向きな議論が展開されていたが、3.11以降は、ガラリと流れが変わってしまったという。世の中の目が震災や福島原発問題に向かう中で、検察・法務官僚の露骨なまでの巻き返しが行われたのだ。取り調べの全面可視化については、江田法務大臣の指示でかろうじて試行的な取り組みが行われることになったが、とても十分とは言いがたい。

そうした状況の中、シンポジウムでの市川氏の告発発言は、当局にとっては、正に寝耳に水のはずで、たったひとりのヤメ検が上げた声に過ぎないかもしれないが、検察組織という巨大なダムを揺るがす一穴、小さな亀裂となりうる可能性を持っている。シンポジウムの模様は岩上安身氏のユーストリームやニコニコ動画でライブ中継されたが反響が殺到している。今回の催しを企画した「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」としても次の手を考えている。

3.11がもたらした神話の破壊と目覚め

シンポジウムの終了後、市川氏と話す機会があり、検事を辞めて5年が経過した今、なぜ改めて検察組織の問題について公の場で話すつもりになったのかと問うてみた。
市川氏は即座に「村木厚子さんの冤罪事件を見て、あまりに自分のケースと同じなので、検察の現状の体質にあらためて危機感をもった。また、3.11を経験して、人間はいつ死ぬかわからないという感を強くもち、今行動しなくてはと思い立った」と答えた。

3.11の衝撃は、確かに世間の目を検察改革からそらしたかも知れないが、他方で、この国を支配していた「神話」を破壊し、今、此処にある真の現実を人々の眼前に顕にさせた。市川氏が声を上げたのも、その神話の「夢から覚めた」からに他ならない。そしてその独りの目覚めは、多くの人々の目覚めにつながり、やがて奔流となってダムの壁を打ち崩すだろう。

このシンポジウムの翌日、24日には布川事件の再審無罪の判決が出た。この事件で無期懲役囚とされていた両被告は、43年ぶりの無罪を勝ち取った。2人の顔は勝利の喜びで晴れ晴れとしていたが、髪には白いものが混じり、その額には深い皺が刻まれていた。もう、二度とこうした冤罪事件を繰り返してはならない。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

参考:

・岩上安身チャンネル(市民の会HPより) 

・ニコニコ動画

・テレビ朝日「ザ・スクープ」

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原発と知識人、墜落した鉄腕アトムたち

福島原発の1~3号機でメルトダウンが発生していたことが大きく報じられている。
東京電力の記者会見で「メルトダウンが起きていることではないのか?」という記者の質問に対して「炉心の核燃料が原型をとどめない形で圧力容器の底に崩れ落ちているという定義がメルトダウンというならその通りだ」と相変わらず木で鼻をくくったような自己韜晦的な言い回しに苛立たしさを覚えるとともに、こうした幼児的な応答しかできない連中にこの国の命運がかかっているのかと空恐ろしくなった。

福島原発の事故が発生して以来、テレビや新聞には、数多くの識者、大学教授といった知識人が登場し、コメントや解説を行っていたが、彼らの誰ひとりとして現在の事態を予測できなかった。むしろその逆で、NHKに出ずっぱりだった東大の関村教授に象徴されるように、「制御棒が既に入っているからチェルノブイリのような事はありえず、過剰な心配には及ばない」と、安心デマを垂れ流し続けた。しかし、現実はその言葉を嘲笑うかのように進展し、水素爆発が連続して起こり、大量の放射性物質による広域の環境、食物汚染が現実のものとなり、未だに収束の見込みさえ立っていないことは周知のとおりだ。

一方、米国やフランスは、電源が喪失され冷却機能が失われた直後から、現在の事態を想定しており、フランスは事故発生1週間後にはチャーター機を早々と日本に派遣して自国民を日本から引き揚げさせた。

地に墜ちた原子力村の威光

その後、大手マスコミに登場して安心デマを流し続けていただけの識者連中に批判が集まり、さらには、彼らがいわゆる「原子力村」の住人であり、東電や電事連の紐付き御用学者であったことが露呈したためにその威光は地に墜ちてしまった。あの関村先生もさすがにNHKも使いづらくなったのか、この頃はとんとテレビ画面に登場しなくなった。
ただし、日本の知識人の名誉のために言っておけば、原発の世界には、御用学者ばかりではなく、原子力村の外で警鐘を鳴らし続け、今日の事態を正確に予測していた人々もいた。
 京都大学原子力実験所の小出裕章助教もその1人だ。大手メディアもようやく最近になって彼のコメントや分析をとりあげ始めているが、事故当初から小出氏は電源喪失を経てメルトダウンに至った可能性が高いことを指摘していた。

小出氏はもともと原子力の平和利用の研究に志し、研究者としてスタートしたが、女川原発の反対運動で地元住民たちと相対するうちに、研究者としても原発の持つ不条理性と危うさに気付き、一転、反対側に立つようになる。助教というのは助教授という意味ではなく、国公立大学が独立法人化された時につくられたポストで、昔でいう「助手」に相当する。かつての助手と違うのは、任期が5年で切られているということで、小出氏もあと数年で退官扱いとなるはずだ。もし、福島原発の事故が起こらなければ、小出氏は、原発に反対する奇矯な原子力研究者として封印されたまま広く世間に知られることにはならなかったかも知れない。

 小出氏は、確かに原発反対論者ではあるが、イデオロギーにこり固まった人ではない。その講演や著作に触れればわかるが、一研究者としての立場と良心を真摯に保ち続けているだけで、名声や権力欲とは無縁の人物であることが良くわかる。

女川原発反対運動で覚醒した小出氏

小出氏は、他の原子力村の御用学者とは何が違っていたのか。インタビューに答えて、「自分の考え方を変えたものは、大学院生だった頃、女川原発の建設に反対する地域住民が発した一言だった」と述べている。当時小出氏は、原子力の研究者として住民を説得する立場にあったが、住民から「そんなに安全なものなら何で都会に作らないで女川に作るのだ?」と問われた。小出氏は、それに回答すべく色々調べるが、その過程を通じて原発技術の脆弱さと抱えるリスクの巨大さに逆に覚醒するようになっていった。

仮に原子力発電の技術が「絶対安全」な技術であれば、論理的にはそれは東京や大都市に建設しても問題ないはずだ。それをあえて女川に作らなければならないのは他の事情が関与しているからに他ならない。原子力の平和利用にバラ色の未来を信じていた若き科学者、小出青年は、住民の素朴な一言から、テクノロジーというものは、社会から切り離されて中立的であることはありえず、常に倫理性や政治性を伴うものだということを学んだのだ。

小出氏は反原発に転じるまでの自分を「鉄腕アトム」の世界に憧れをもって科学者となったと表現しているが、それは他の御用学者も同じことであったろう。原子力開発は、他の国においては、核兵器開発と直結した最も政治性の高い科学分野だが、世界中でこの日本においてだけ「鉄腕アトム」に象徴される夢の技術分野であり得たのである。

原子力技術とは人類にとって夢の技術なのだろうか?こういう問いが生まれてくること自体、この国の特殊事情に起因している。つまり、他の欧米諸国にとって原子力開発とは、核兵器の主要原料プルトニウムの生産と表裏一体のものであり、原発が持っているリスクを勘案しても、核抑止力を保有する必要があるという明確なバランスシートが存在している。他方、日本においては、原子力エネルギーの「平和利用」のみの片肺飛行であるために、原子力技術は「絶対安全」でなければならず、いわゆる「安全神話」を形成するしかなかった。

核武装の隠れ蓑としての原子力平和利用

本当は日本においても原子力が国策となっていく過程では、中曽根康弘がその中心的役割を担っていたことからもわかるように、日本のエネルギー供給を安定化させるという国際社会に対する表向きの理由とは別に、核武装の能力を担保するという極めて政治的な裏の意図が存在した。その密かな意図を隠蔽するためにも、原子力開発の技術者は「技術オタク」に徹すること、あわせて「原子力安全神話」を護る神官としての役割のみが求められたのである。

今いわれている「原子力村」とは、核兵器による武装を放棄しているこの国において、原子力技術を開発すべく必然的に形成された政治的装置であり、去勢された宦官組織に他ならない。石原慎太郎や安部晋三、甘利明といった自民党のタカ派議員がこの期に及んでなお原発推進を唱えていると報じられているが、どのマスコミも彼らが何故原発推進を言っているのかについては明確に解説していない。すなわち、もともと原子力平和利用とは、核保有のための隠れ蓑であったからこそ、連中はその旗を簡単に降ろすわけにはいかないのだ。

オタク化した原発知識人

かくして、原子力の平和利用、原発開発に関わる知識人、科学者たちは、現実世界とは切り離された「鉄腕アトム」の世界の住人として際限なく幼児化することとなり、政治的、社会的文脈から切り離されて、特殊な技術用語だけが行き交う「オタク世界」が形成されていったのである。今回のメルトダウンに関する東電の会見や原子力保安院の対応を見ていると、全人的な判断が求められるはずの国難の真っ直中においてさえ、技術用語や手続き論ををこねくり回す救いようのない幼児性が露呈する。

「オタク」の世界が個人の趣味のことであればむしろ結構だが、原子力は一国どころか世界の存立にも関わる巨大リスクを孕んでいる。こんな現実とかけ離れた言葉遊びをやられている間に、原子炉は空だきされメルトダウンが発生してしまったのではないかと、世界中がこの原子力村の幼児性に恐怖とフラストレーションを募らせている。
国内からも「もう、東電や原子力村のオタク連中に任せておけない、米国やフランスの分別のある奴らに全てを任せて事態を収拾してもらおう」というような声さえ上がり始めている。

しかし、私にいわせれば、困った時の外国頼みというのも、この国の知識人の幼児性の現れに他ならない。人類が経験したことのない未曾有の事態に発展している今回の原発事故の対応に解決策を持っている者などこの世界中のどこにもいないのだ。
もっと、いってしまえば、既に事態の収拾に、知識人の果たす役割は相対的に低下してしまっている。知識や知恵は、何かの事態が発生する前にこそ役立てられるべきで、物事が起きてしまってからでは遅すぎる。福島原発の問題でいえば、東電本社や原子力保安院のオタク連中やIQの高い連中がいくら頭をひねったところで、魔法の杖などあるわけがなく、既に解決オプションはどうしようもなく限られていて、問題はそれをどう実行できるかどうかだけだ。

先日、元住友金属工業の技術者だった山田恭暉氏が呼びかけ人となって「福島原発暴発阻止プロジェクト」というグループが立ち上げられた。60歳以上の退役技術者が志願して福島原発の現場作業を担おうと呼びかけている。現代版「肉弾三勇士」と揶揄する向きもあるが、福島原発事故収束に向けた対応は、こうした人々の犠牲的行動を必要とするぐらい逼迫している。小出裕章氏も志願しているという。身一つで現場に飛び込む覚悟のできている知識人が存在していること、これが絶望的としかいいようがない今後の原発対応を考えた時、かすかな希望でもある。

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3.11後の現実と歌の力

先週、木曜日の夜、赤坂のB♭(ビーフラット)で素晴らしいライブがあった。
「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」で一緒に活動している音楽家・作家の八木啓代さん(vocal)を中心に、なんと元特捜検事の郷原信郎さんがサックス奏者として登場し、それに阿部篤志さん(piano)大熊ワタルさん(clarinet)河村博司さん(guiteer)、福田大治さん(charango)といった、そうそうたるミュージシャンが共演した。

こんなありえないライブが、何故成立したのかというと、ジャーナリストの岩上安身さんのパーティーで郷原さんがサックスを吹くことが判明、一緒にライブをやるという話が盛り上がり、「気がついてみたら本当にやることになってしまった」(八木さん)。

2月頃から八木さんから、「いよいよ4月に本当に赤坂ビーフラットでやることになった」という話を聞き、郷原さんがサックス奏者としてプロのミュージシャンと共演したら一体どんな事態になるのだろうと、ほとんど怖いもの見たさ(失礼!)から期待していたのだが、そこに思わぬ事態が発生した。3.11東日本大震災である。

得体の知れない喪失感に苛まれる人々

3.11は、好むと好まざるとに関わらす、この国の全てを変えようとしている。
誰もが変わらなければならないと思いながらも、今、直面している現実とは一体何なのかをつかみあぐね呻吟している。いや、「変わらねばならない」などと考えているのは、ごく一握りの人間たちだけで、大半の人々は、「自分の身にはとりあえず何事も起きていないのだから大津波もレベル7に至ったフクシマの問題も全てテレビの向こう側の現実」と思い込みたいだけなのかも知れない。しかし、自分が立っている安全・安心なはずのこちら側の現実も、気がつくと大津波の引き潮が足下の砂を猛烈な勢いで奪い去っていくように崩れ去っていく・・・そうした得体の知れない喪失感にこの国の全ての人々が苛まれている。

東京電力のような巨大企業が、一瞬の震災により、巨大な賠償責任を抱え、事業継続そのものが危ぶまれる事態に陥ることなど誰も予想できなかった。しかし、想定外の出来事を想定することが、リスク管理の根本であり、特に東京電力のような社会インフラを担う大企業の場合は、最低限の社会的責務といっても過言ではない。それを「想定外の災害に見舞われた」と言い切ってしまった所に、東京電力のみならず、この国の企業や組織体がダメになっている底知れない病理がある。

「想定外」という言葉で防波線を張った東電

実は東京電力が、震災直後に記者会見で「想定外の災害」と言ったことには明確な根拠がある。原子力損害賠償法により、原子力発電所を運営する電力会社は、事故が発生した場合でも賠償義務は1200億円が上限、それ以上は国が対応するものと法律上は定められており、なおかつ、その事故が「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」などによる場合は一切を免責されるという規定がある。東京電力の経営幹部は、この規定に基づき、わざわざ「想定外」という表現を使っていたのである。

つまり、原発周辺の福島県民に苛酷な避難生活を強い、世界中を震撼させている原発事故の真っ直中において、東電経営層の頭の中を占めていたのは実はこの「法律」のことであり、それに基づいて防波線を張っていたのである。

ライブのトークの中で、郷原信郎氏は、東京電力の危機管理の姿勢に言及し、「この会社のコンプライアンス啓発に多少とも関わった人間として責任を感じている」と述べた。
郷原氏が言いたかったことを解説すれば、この国の企業、官僚組織にとって、コンプライアンスといえば「法令遵守」のことしか意味していない。つまり、法律に書かれていることを神学的に解釈し、それを企業行動と紐づけることが「コンプライアンス」と勝手に翻訳されている。法律を守るのは当然のことだが、実は法律に規定されていない事柄や事態に直面した場合に、企業や組織が、社会的存在としてどのように行動するのか、その無形の行動規範となるのが本来のコンプライアンスであるべきだった。

コンプライアンスの本来の意味を理解しない企業組織

東京電力には、この本来の意味での「コンプライアンス」が皆無であったことが露呈してしまった。「想定外の災害」と記者会見で責任逃れの防波線を張る前に、避難地域に社員を送り込み、住民退避の手助けをする。経営トップが現地に先ず入り陣頭指揮する。対策本部を福島原発の近隣に設置し、住民が置かれているリスクを共有するといった行動を起こすべきであったであろう。こんなことは、法律のどこにも書かれていないが、企業市民、人間としてとるべき当然の行動である。

郷原氏は、東京電力の危機対応が硬直的で現実に即応できていない理由を「安全神話」の盲信にあると指摘していた。「原発は安全である。なぜなら何重もの安全防護策が講じられており事故が起きるはずがないから」この思考ループの中を堂々巡りするのみで、想定外の事故は、結局想定されることがなかった。本当に想定不可能だったわけではない、そもそも事故を前提としない「安全神話」によって思考停止状態に陥っていただけだ。
そして、このことは、東京電力だけでない、例えば、前田元検事の証拠改竄事件のような検察組織の問題とも通底している。すなわち、検察組織の「無謬神話」があらかじめ存在し、その神話を護るために現実が改竄されていったように。

ロラン・バルトは、30年以上前にこの現代の「神話作用」について次のように指摘している
「ものごとは神話の中に、それらの製造の記憶を失うのだ。世界はさまざまな活動の、人間の行為の弁証法的関係として言語の中に入り、諸本質の調和に満ちた一幅の絵として神話から出て来る。一種の手品が行なわれたのだ。現実をひっくり返し、そこから歴史をからにして自然で満たしたのだ。ものごとからその人間的意味を抜きさり、人間的無意味を意味させるようにしたのだ。神話の機能は現実をからにすることだ」(ロラン・バルト「神話作用」)

ロラン・バルトは神話には強制力が発生するといっている。というのも神話の常套手段は話者を巧みに消し去ることだからだ。「原発は安全である」と述べているのが誰であるのかがわかれば、その言説の是非を問うことができるが、神話においては、その発語者は常に隠蔽されてしまい、一切の異議申し立ては抑圧され、人々は思考停止状態に陥り、言葉は沈黙する。

神話的現実を破壊する武器としての歌

そして、こうした神話作用に抗い、神話の対極にあるものが詩であり歌である。
詩や歌は無力だが、神話やシステムの中に隠蔽されていた人間的な意味をあらためて呼び起こし、顔の見える声や調べとして甦らせ、現実のまったく違った側面、秘められた意味や手触りを鮮やかに示してくれる。現実とは、もともとモノのようにあらかじめ私たちの外部に存在しているものではなく、それがいくら強固に見えたとしても、結局、私たちの意識が作りだしたイリュージョン、神話的現実でしかない。詩や歌は、そのことに気付かせてくれ、神話なるものをぶち壊す武器となりうる。

多くの人々の命を不条理に奪った3.11大震災に、もし「意味」と呼べるものが唯一あったとすれば、それはこの国の現在を覆っている「神話的現実」を粉々に壊し去ったことではないか。絶対安全神話が福島原発とともに粉々に飛び散った今、これまでアプリオリに受け入れていた様々な約束事やお作法も全て無効になった。そして、私たちがこれからどうやって生き延びていくかは、政府や法律も組織やメディアも教えてくれないことが、白日の下に暴かれてしまった・・・

だいぶ話が横道にそれたが、4.20ライブの報告に戻ろう。
八木啓代さんを初めとした参加ミュージシャンは、全てが素晴らしかった。3.11後の現実の中で、歌こそが輝きを増していることに気付かされた。個人的には3.11以降、鬱々とした気分で過ごしていたが、初めて曇天に青空を見た思いがし、歌の力に感動し、感謝した。

郷原信郎さんのサックス演奏もお世辞で無く素晴らしかった。あの目つきの悪い、元特捜検事の郷原氏がサックスを奏で、甘い声で謳う姿を日本中の誰が想像しただろうか。その姿は、3.11後の現実のなかで個々人が自由に生きるしかないことを身をもって示してくれ感動的でさえあった。

甦ったヴィクトル・ハラの歌「平和に生きる権利」

この日の朝、私はたまたまベトナムから戻って来たのだが、ライブの終盤で懐かしいヴィクトル・ハラ(Vivtor Jhara)の「平和に生きる権利El derecho de vivir en paz」がフィーチャーされたことに驚いた。この歌は、70年代の初頭、世界的に広がったベトナム反戦運動のシンボルだった。その歌が、この日のライブでフクシマバージョンとして甦ったのだ。

「平和に生きる権利・FUKUSHIMA ver.」作詞:八木啓代、河村博司

静かに暮らし/生きる権利を/いま問いかける/FUKUSHIMAの空から/生まれた故郷を/追われる悲しみを/分かち合えない/痛みを/

稲穂たなびく/緑の大地よ/遠く広がる/青い海原よ/月さえ砕ける/悲しみの叫びに/祈りの歌よ/届け

静かに暮らし/生きる権利を/平和に暮らし/生きる願いを/FUKUSHIMAの空から/TOKYOの街から/取り戻すまで/歌うよ

静かに暮らし/生きる権利を/平和に暮らし/生きる願いを/HIROSHIMAの空から/OKINAWAの島から/取り戻すまで/歌うよ

La La La ・・・・・

消せはしないだろうこの歌を

ヴィクトル・ハラは、1973年、軍事クーデターの動乱の中で虐殺された。ライブを見ながら私は、同じように関東大震災の混乱の中で虐殺された大杉栄の「美は乱調にあり」という言葉を思い出していた。この言葉が似合う美しいライブだった。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

・ヴィクトル・ハラ(Vivtor Jhara)の「平和に生きる権利El derecho de vivir en paz」youTubu video

・B♭ライブ 第1部演奏

・B♭ライブ 第2部鼎談

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3月11日以降の世界

 3月11日、午後2時46分。10日前のこの時点を境に日本は大きく姿を変えてしまった。大地震と巨大津波が東北の人々を襲い未曾有の人命が失われ、同時に発生した福島第一原子力発電所における大事故は、現在も進行中であり、日本ばかりか世界中の人々をも震撼させている。

 この国が天災に襲われたのは今回だけのことではない、ここ数十年を振り返っても、日本の国土は繰り返し地震や洪水に見舞われてきたが、その対応力と高度な技術力により、「安全、安心」な国という「ブランド・イメージ」を世界に向けて発信してきた。しかし、今、そのイメージが根底から揺らぎ日本から世界中の人々が逃げ出している。

今回の災害によりこれまでとは一体何が違ってしまったのか?東北関東大震災が発生してから、ずっと考えてきたのはそのことだ。

 今回の災害を解説する学者たちの弁によれば、1万年に一度のM9.0の巨大地震が発生し、千年に一度の大津波が東北の海岸都市を襲った。その結果、何重もの安全策によって守られていたはずの原発があっという間に機能停止状態に陥り、原子炉のメルトダウンの危機に瀕している。
「想定外」というフレーズが度々地震・津波学者、原子力関係者の口からのぼってくるが、このことは、我々が築き上げてきた技術、あるいは我々の持ち合わせている想像力や言葉が、今、進行している現実に対してほとんど無力であったことを表明しているに他ならない。誤解しないでほしいが、私はその無力さを取り上げることで、地震・津波学者や原子力関係者たちを「思い上がっていた」などと非難するつもりは毛頭ない。

制御できないリスクに満ちてしまった世界

 むしろ、その逆だ。今回の災害や原発事故に対して防災担当者や原発の技術者の「想定外だった」という発言を非難したり、逆に反省してみせたりするという態度には、どこかで「この世界のリスクは予測可能であり、対処ができるものだ」という思考が潜んでいると思う。今、私が抱いているのは、それとは正反対の見方。つまり、この世界は3月11日以降、予測不可能な制御できないリスクに満ちてしまったのではないかという認識である。

このブログで過去にも取り上げたことがあるが、ウルリッヒ・ベックというドイツの社会学者が「世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊 」という本の中でもこのことに言及している。

この本の中で著者のベック氏は、以下のような逸話を紹介している。

「数年前、アメリカの議会がある科学委員会に放射性廃棄物の最終貯蔵地の危険性を1万年後の人々に説明すべき言語またはシンボルを開発するように要請した。言語学者や芸術家、古代学者、脳研究者などさまざまな分野の専門家が集められ討議されたが、人類の創り出すことのできるシンボルの有効性はたかだか数千年で、1万年後に意味を伝えられるシンボル・言語を構想することは結局できなかった。」

 このことからベック氏は、人類が言語化できない、その意味で制御不可能なリスクを背負う「世界リスク社会」に立ち会っていると指摘している。
1万年後の人類に対して、核廃棄物質の危険性を伝える手段を持たないという点において、核の時代とは、人類にとって予測不能なリスクの時代の幕開けを意味した。原爆投下からから66年、人類はこれまで核戦争こそかろうじて回避することができたが、福島原発事故の勃発において、残念ながら核事故というリスクは現実のものになってしまった。

日本人の二度目のHIBAKUと敗戦

 そして、誤解を恐れずにいえば、日本人は今、広島・長崎に次いで2度目の「HIBAKU(被曝)」を経験しているのであり、それは、言い換えると原爆投下から66年、原子力の平和利用の旗を掲げ、世界最高峰の原子力技術を構築してきた日本の工業技術神話が根底から崩壊したことを意味する2度目の「敗戦」でもある。

チェルノブイリの事故の時には、旧ソ連に対して世界中から非難の声が集中した。旧ソ連の原子炉自体の安全設計の杜撰さ、人為的なミスなどが事故原因に露呈し、高度な管理・オペレーション能力が必要とされる原子力発電に対する不適格性、責任能力の欠如が問題視されたからだ。

 しかし、福島原発の場合は違う。世界中の誰もが日本の世界最高水準の安全管理技術、原子炉システムの信頼性などについて疑いを持っていなかった。だからこそ、東芝、日立といった日本の原子炉メーカーは、初動において韓国などに多少の遅れはとったものの、米国の100基を超える今後の原発増設計画や東南アジア、インドなど新興国における原発商談を受注する本命と見られていた。だから、福島原発事故が勃発した時に各国の首脳や関係者が抱いたのは非難の感情よりもむしろ「畏れ」だった。すなわち、原発技術において世界のトップランナーである日本でさえ、原発事故を制御できなかったという現実への深い動揺と「畏れ」である。日本でさえコントロールできない事態が起きている、その畏れから在日外国人はこの国から脱出しているのだ。

福島原発事故以降の世界を覆う「畏れ」

 福島原発事故が今後、どのような推移を辿って収束できるかにも因るが、この「畏れ」から、3.11以降の世界は逃れられないだろう。ドイツのメルケル首相は、「日本のような高度な技術を持った国の下で起きた事故が他のどこの国で起きないと言えるだろうか」と従来からの反原発路線を再確認するコメントを出した。タイにおいては、原発計画自体を見直すということが伝えられている。

よくよく考えてみれば、日本の工業技術、安全技術神話とは、たかだか、戦後数十年の間に構築されたものに過ぎない。一万年のスケールを持つ原子力という対象を完璧にコントロールすることなどできはしないという当たり前の現実が露呈したに過ぎないという言い方もできるだろう。日本経団連の米倉弘昌会長は、事故後の16日に「千年に一度の津波に耐えたのは素晴らしいことだ。原子力行政はもっと胸を張るべき」という発言を行い波紋を広げた。
 経団連に近い日本の中央メディアはこの発言を非難するどころかほとんど取り上げようともしないが、あえて言わせてもらえば、今回の原発事故に人的原因があったとすれば、こうした思い上がりも甚だしい、しかも厚顔無恥(&無知)な旧来の経営者の認識と行動に他ならないといえるだろう。

思い上がりも甚だしい経団連会長の発言、東電の経営層

 電力関係者、政治家、メディア含めて、従来から原発がなければ、日本の今の快適な生活はあり得ないという言説をふりまいているが、それは大嘘だ。自然代替エネルギーの利用を怠り、スマートグリッドの導入でさえ鼻先で笑ってきた東電経営層の怠慢を隠蔽する言い訳として利用されてきたに過ぎない。今、日本国民は、一方的な強制停電によって、不自由な生活と経済の沈滞を余儀なくされているが、電力の問題でいえば、ピーク時の対応が問題なのであり、現在のように総量規制を押しつけられるいわれはない。インターネットのような分散制御型の電力システムに移行すれば、巨大な発電能力を持つ原発のような存在は最小限ですむか、不要となるだろう。

もう一歩踏み込んでいえば、原発とは、地域独占企業体である電力会社の神殿のようなものであり、原発の安全神話とは、その体制を護ってきた一種のカルト宗教に他ならない。3.11により、それがガラガラと崩れ去ったことは、悲惨な現実の中にあって国民が得た唯一の収穫かも知れない。

3.11以降の世界

3.11以降、我々は何処に向かっていくのだろうか?

 その答えは簡単には見つからない。唯一わかっていることは、この世界に予測不能な制御できないリスクが存在しているということを認識した人類にとって、とれる行動は、そのリスクを認めた上で、リスクを分散する知恵をもつことでしかない。
しかし、今の日本人にとって、この世界に排除できないリスクが存在しているという現実を認識することが、たぶん最も難しいことだろうと思っている。

例えば、ここ数日、放射能による環境汚染という究極のリスクが露わになってきている。日本において原爆投下、敗戦以降は、放射能というリスクを原子力発電所の中に閉じこめ、人目に晒さずにおくことができた。しかし、今、それは日本の至る所にあふれ出て、一般市民が日常的に口にする野菜や食品までも汚染が広がっている。
機会をあらためてこのことは論じたいが、放射能による食物汚染に対する対応が、3.11以降、日本人に架せられた最初の大きな試練となるだろう。

 繰り返していおう、我々はもう、3.11以前の世界に戻ることはできない。
テレビが連日流している映像に象徴されているように、巨大地震と津波は、これまで築き上げ信じていてものを奪い去り、戻る場所さえ跡形も無くなってしまったからだ。その現実を受け止めることは誰にとっても極めて苛酷なことではあるが、そのことが3.11で亡くなられた人々に対して、生き残った者たちができる唯一の弔いである。我々は前を向き、この第二の敗戦を生き延びなければならない。

先週の金曜日、ちょうど大震災のあった一週間目の同じ時刻に、東北の被災地ではサイレンが鳴り響き、日本中が死者たちに弔いの黙祷を捧げた。
一万年に一度の大地震と、一千年に一度の大津波によって、我々は完膚無きまでに打ちのめされた。しかし、我々の祈りは未来に向けられており、永遠の時間とともにあることを忘れてはならない。

(カトラー)

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