管直人首相が目論む?「脱原発解散総選挙」というウルトラ延命策

   
自然再生エネルギーによって発電された電力の全量買い取り制度を導入する「再生可能エネルギー促進法」が正念場を迎えている。
退陣表明をしながら、なお政権続行に意欲を見せる管直人首相が、成立に並々ならぬ意欲を示していることなどが報じられており、政局との絡みで一気にこの法案の帰趨に注目が集まっている。

結論からいえば、日本の自然代替エネルギーシフトを後押し、環境ビジネスの推進をこの国の新たな成長戦略の柱としていくためには、是が非でもでもこの法案は通す必要がある。逆にこの法案を通すことができなければ、今後の日本の環境ビジネスは世界的なイノベーション競争から取り残され、卓越した要素技術を持ちながら、事業展開で後塵を拝するというこれまでの負けパターンを繰り返すことになるだろう。

「再生可能エネルギー促進法」は孫正義を利する保護法案か?

一部でこの法案は、メガソーラー事業などへの参入を既に表明しているソフトバンクグループ孫正義氏、および彼を中心に組織された「自然エネルギー協議会」を利するだけの保護法案であるといったトンチンカンな議論をするような輩も出てきているが、馬鹿を言ってはいけない。
福島原発事故が発生した3.11以降にこの「再生可能エネルギー促進法」が公に議論されているために、脱原発との関わりでこの法案が取り上げられ、あたかも管首相が孫正義に乗せられてこの法案を提出しているかのように思われているが、お門違いもはなはだしい。実際は、民主党が2009年の政権交代によって自然代替エネルギー重視の姿勢を打ち出し、鳩山前首相が二酸化炭素の25%削減を国連で公約した時点から法制化作業が進められてきたものである。

この法案が孫正義を利するものだというような質の悪い皮相な議論をしている連中は、この法案に盛り込まれている「電力の全量買い取り制度」が、今後の自然代替エネルギーの普及にとってクリティカルポイント(決定的要素)であるということを、全く理解していない。あるいは、そのことを承知した上で「送、発電分離」という、日本の電力行政史上、初めて陽の目を見た議論を再び封殺するために悪質な確信犯的議論を流布しているに他ならない。

余剰電力買い取りと全量買い取りの本質的な違い

現在、日本では余剰電力の買い取りが制度化されている。拙宅でも10年前に二世帯住宅を建築した際に太陽光発電を屋根にのせ、発電した電気を東京電力に売電しているが、発電した電気は先ず家で消費して、余った分を東電に売るという形になっている。
それが全量買い取りになると、いったん発電した電気は全て電力会社が買い取ることになる。制度上の違いは、いってみればそれだけである。売電価格にもよるが、個人の場合は、売電収入の実入りが2~3割良くなるかどうかの違いでしかないが、企業にとっては、全量買取制度の有無は、電力事業に参入するかどうかを左右する決定的判断要素(クリティカルポイント)となる。

つまり、余剰電力の売却制度が想定しているのは、あくまでも自家消費を前提とした発電だが、全量買取制度の下では、自家消費とは関係なく発電だけを行う事業主体が想定できるようになる。そして、こうした発電事業への参入を意図する企業、投資家にとって、全量買取制度があることで、太陽光発電等の発電設備の設置にかかる費用を「投資」、そして、そこから得られる電気の売電による収入を「リターン(金利)」として見なすことが可能になるのだ。

投資とリターンの関係を明確化する全量買取精度

別の言い方をすれば、「投資」と「リターン」の関係が明確化されることで、逆に投資活動が活性化されることになる。単純化していえば、1億円で建設された発電設備から発電される年間の電力量が、仮に500万円で買い上げられることが明らかであれば、その投資に対するリターン(年利)は5%と計算できる。安定的に年利5%のリターンが期待できるとなれば、投資機会が見えなくなった日本のような先進国にあって、それはラストリゾート(最期の投資機会)になるといっても過言ではない。

事実、世界で計画されているメガソーラープロジェクトの投資主体として名乗りを上げ初めているのは、安定的なリターンを上げる投資機会を世界中で探している、年金資金のような巨大な資金を保有する機関投資家である。欧州を中心に責任投資原則という考え方が広がっており、食糧や資源を舞台にハイリターンだけを追い求めて「投機」を繰り返してきた従来の投資姿勢は厳しく制限されるようになった一方で、メガソーラープロジェクトのような環境分野への積極的な投資が始まっている。

安定的なリターンをもとめる世界の年金資金、環境投資マネー

年金資金は、その本来的性格からしてハイリスク・ハイリターン投資とはもともと馴染まない。ただ、年金制度を存続させるためには、平均で年利5%程度のリターンを実現することが不可欠であることから、大儲けはできなくとも安定的なリターンが期待でき、なおかつ地球環境問題の解決にも貢献できるメガソーラープロジェクトのような環境セクターへの投資に世界の年金資金等の関心が集まっているのだ。そして、彼らが投資判断を下す上で最低限の条件となるのが、投資とリターンの関係が明確化されていること、すなわち発電ビジネスの問題でいえば「全量買取制度」が施行されていることである。

日本の問題に話を戻すと、福島原発事故により発生した電力不足危機をチャンスに変えるためには、発電、送電を地域電力会社が独占してきた体制に風穴を開け、新たな事業者、新たな資金を呼びこむ仕掛けが不可欠なことは明らかである。巨大な賠償債務を抱えることになる東京電力に既にあらたな投資余力はなく、赤字財政に呻吟する政府とて同じような状況だ。だとすれば、電力の世界に新たなプレイヤーと新たな投資を呼びこむことをしなければ、自然代替エネルギーへのシフトは進まず、原発の新設や再稼働も困難な中で、電力不足が今後も長期にわたり解消されない事態に陥る。そうなれば、早晩、国内製造業の本格的な国外逃避が始まるだろう。

グローバル環境投資マネーを呼び込め

「再生可能エネルギー促進法」が、特定事業者を利するだけの保護法案だと揶揄する前に、3.11以降の現実を見通してエネルギー産業への参入をほぼ1週間で決断した孫のような企業家が、この日本に存在していた幸運をむしろ前向きに評価すべきだ。
孫が提唱するメガソーラープロジェクトが、どこか1箇所でも、この日本で実現すれば、世界の投資家の目は、日本の自然代替エネルギー開発投資に一気に向かうだろう。
自然代替エネルギーによる発電を20~30%にまで高めると仮定すると、その発電設備に対する投資規模だけで10兆円は下らない。もともと地域電力会社だけで手に負える規模ではないのだ。従って必要なことは、世界に目をむけ、グローバル環境投資マネーを呼び込む仕掛けつくりを一刻も早く進めることだ。それが結果的に3.11後の復興事業の加速にもつながる。

菅直人首相は15日、国会内で開かれた「再生可能エネルギー促進法」の集会に参加し、「国会には“菅の顔は見たくない”という人がたくさんいるが、ならばこの法案を早く通した方がいい」と述べ、早期退陣を求める与野党議員を挑発した。集会での菅首相は、法案の支持者を前に終始上機嫌で、内心ではひょっとすると「一点突破、全面展開」を考えているのかもしれない思わせるほどだった。

「一点突破、全面展開」とは、菅直人がよく口にする、自身が得意とする行動パターンのことだ。これを今の状況にあてはめ、管直人になったつもりで今後の行動を勝手に想像すれば、仮に「再生可能エネルギー促進法」が通らない場合は、解散権を行使し、衆議院解散、総選挙に打ってでるのではないか。その場合に実施される総選挙は、「脱原発解散総選挙」とされ、脱原発の是非を問う実質的な国民投票となるだろう。

私は管直人という政治家については、お遍路姿を公開するよう所が昔から虫が好かず、顔も見たくないくらいだが、仮にそうした状況が到来したら、迷わず官直人政権を支持する。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

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3月11日以降の世界

 3月11日、午後2時46分。10日前のこの時点を境に日本は大きく姿を変えてしまった。大地震と巨大津波が東北の人々を襲い未曾有の人命が失われ、同時に発生した福島第一原子力発電所における大事故は、現在も進行中であり、日本ばかりか世界中の人々をも震撼させている。

 この国が天災に襲われたのは今回だけのことではない、ここ数十年を振り返っても、日本の国土は繰り返し地震や洪水に見舞われてきたが、その対応力と高度な技術力により、「安全、安心」な国という「ブランド・イメージ」を世界に向けて発信してきた。しかし、今、そのイメージが根底から揺らぎ日本から世界中の人々が逃げ出している。

今回の災害によりこれまでとは一体何が違ってしまったのか?東北関東大震災が発生してから、ずっと考えてきたのはそのことだ。

 今回の災害を解説する学者たちの弁によれば、1万年に一度のM9.0の巨大地震が発生し、千年に一度の大津波が東北の海岸都市を襲った。その結果、何重もの安全策によって守られていたはずの原発があっという間に機能停止状態に陥り、原子炉のメルトダウンの危機に瀕している。
「想定外」というフレーズが度々地震・津波学者、原子力関係者の口からのぼってくるが、このことは、我々が築き上げてきた技術、あるいは我々の持ち合わせている想像力や言葉が、今、進行している現実に対してほとんど無力であったことを表明しているに他ならない。誤解しないでほしいが、私はその無力さを取り上げることで、地震・津波学者や原子力関係者たちを「思い上がっていた」などと非難するつもりは毛頭ない。

制御できないリスクに満ちてしまった世界

 むしろ、その逆だ。今回の災害や原発事故に対して防災担当者や原発の技術者の「想定外だった」という発言を非難したり、逆に反省してみせたりするという態度には、どこかで「この世界のリスクは予測可能であり、対処ができるものだ」という思考が潜んでいると思う。今、私が抱いているのは、それとは正反対の見方。つまり、この世界は3月11日以降、予測不可能な制御できないリスクに満ちてしまったのではないかという認識である。

このブログで過去にも取り上げたことがあるが、ウルリッヒ・ベックというドイツの社会学者が「世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊 」という本の中でもこのことに言及している。

この本の中で著者のベック氏は、以下のような逸話を紹介している。

「数年前、アメリカの議会がある科学委員会に放射性廃棄物の最終貯蔵地の危険性を1万年後の人々に説明すべき言語またはシンボルを開発するように要請した。言語学者や芸術家、古代学者、脳研究者などさまざまな分野の専門家が集められ討議されたが、人類の創り出すことのできるシンボルの有効性はたかだか数千年で、1万年後に意味を伝えられるシンボル・言語を構想することは結局できなかった。」

 このことからベック氏は、人類が言語化できない、その意味で制御不可能なリスクを背負う「世界リスク社会」に立ち会っていると指摘している。
1万年後の人類に対して、核廃棄物質の危険性を伝える手段を持たないという点において、核の時代とは、人類にとって予測不能なリスクの時代の幕開けを意味した。原爆投下からから66年、人類はこれまで核戦争こそかろうじて回避することができたが、福島原発事故の勃発において、残念ながら核事故というリスクは現実のものになってしまった。

日本人の二度目のHIBAKUと敗戦

 そして、誤解を恐れずにいえば、日本人は今、広島・長崎に次いで2度目の「HIBAKU(被曝)」を経験しているのであり、それは、言い換えると原爆投下から66年、原子力の平和利用の旗を掲げ、世界最高峰の原子力技術を構築してきた日本の工業技術神話が根底から崩壊したことを意味する2度目の「敗戦」でもある。

チェルノブイリの事故の時には、旧ソ連に対して世界中から非難の声が集中した。旧ソ連の原子炉自体の安全設計の杜撰さ、人為的なミスなどが事故原因に露呈し、高度な管理・オペレーション能力が必要とされる原子力発電に対する不適格性、責任能力の欠如が問題視されたからだ。

 しかし、福島原発の場合は違う。世界中の誰もが日本の世界最高水準の安全管理技術、原子炉システムの信頼性などについて疑いを持っていなかった。だからこそ、東芝、日立といった日本の原子炉メーカーは、初動において韓国などに多少の遅れはとったものの、米国の100基を超える今後の原発増設計画や東南アジア、インドなど新興国における原発商談を受注する本命と見られていた。だから、福島原発事故が勃発した時に各国の首脳や関係者が抱いたのは非難の感情よりもむしろ「畏れ」だった。すなわち、原発技術において世界のトップランナーである日本でさえ、原発事故を制御できなかったという現実への深い動揺と「畏れ」である。日本でさえコントロールできない事態が起きている、その畏れから在日外国人はこの国から脱出しているのだ。

福島原発事故以降の世界を覆う「畏れ」

 福島原発事故が今後、どのような推移を辿って収束できるかにも因るが、この「畏れ」から、3.11以降の世界は逃れられないだろう。ドイツのメルケル首相は、「日本のような高度な技術を持った国の下で起きた事故が他のどこの国で起きないと言えるだろうか」と従来からの反原発路線を再確認するコメントを出した。タイにおいては、原発計画自体を見直すということが伝えられている。

よくよく考えてみれば、日本の工業技術、安全技術神話とは、たかだか、戦後数十年の間に構築されたものに過ぎない。一万年のスケールを持つ原子力という対象を完璧にコントロールすることなどできはしないという当たり前の現実が露呈したに過ぎないという言い方もできるだろう。日本経団連の米倉弘昌会長は、事故後の16日に「千年に一度の津波に耐えたのは素晴らしいことだ。原子力行政はもっと胸を張るべき」という発言を行い波紋を広げた。
 経団連に近い日本の中央メディアはこの発言を非難するどころかほとんど取り上げようともしないが、あえて言わせてもらえば、今回の原発事故に人的原因があったとすれば、こうした思い上がりも甚だしい、しかも厚顔無恥(&無知)な旧来の経営者の認識と行動に他ならないといえるだろう。

思い上がりも甚だしい経団連会長の発言、東電の経営層

 電力関係者、政治家、メディア含めて、従来から原発がなければ、日本の今の快適な生活はあり得ないという言説をふりまいているが、それは大嘘だ。自然代替エネルギーの利用を怠り、スマートグリッドの導入でさえ鼻先で笑ってきた東電経営層の怠慢を隠蔽する言い訳として利用されてきたに過ぎない。今、日本国民は、一方的な強制停電によって、不自由な生活と経済の沈滞を余儀なくされているが、電力の問題でいえば、ピーク時の対応が問題なのであり、現在のように総量規制を押しつけられるいわれはない。インターネットのような分散制御型の電力システムに移行すれば、巨大な発電能力を持つ原発のような存在は最小限ですむか、不要となるだろう。

もう一歩踏み込んでいえば、原発とは、地域独占企業体である電力会社の神殿のようなものであり、原発の安全神話とは、その体制を護ってきた一種のカルト宗教に他ならない。3.11により、それがガラガラと崩れ去ったことは、悲惨な現実の中にあって国民が得た唯一の収穫かも知れない。

3.11以降の世界

3.11以降、我々は何処に向かっていくのだろうか?

 その答えは簡単には見つからない。唯一わかっていることは、この世界に予測不能な制御できないリスクが存在しているということを認識した人類にとって、とれる行動は、そのリスクを認めた上で、リスクを分散する知恵をもつことでしかない。
しかし、今の日本人にとって、この世界に排除できないリスクが存在しているという現実を認識することが、たぶん最も難しいことだろうと思っている。

例えば、ここ数日、放射能による環境汚染という究極のリスクが露わになってきている。日本において原爆投下、敗戦以降は、放射能というリスクを原子力発電所の中に閉じこめ、人目に晒さずにおくことができた。しかし、今、それは日本の至る所にあふれ出て、一般市民が日常的に口にする野菜や食品までも汚染が広がっている。
機会をあらためてこのことは論じたいが、放射能による食物汚染に対する対応が、3.11以降、日本人に架せられた最初の大きな試練となるだろう。

 繰り返していおう、我々はもう、3.11以前の世界に戻ることはできない。
テレビが連日流している映像に象徴されているように、巨大地震と津波は、これまで築き上げ信じていてものを奪い去り、戻る場所さえ跡形も無くなってしまったからだ。その現実を受け止めることは誰にとっても極めて苛酷なことではあるが、そのことが3.11で亡くなられた人々に対して、生き残った者たちができる唯一の弔いである。我々は前を向き、この第二の敗戦を生き延びなければならない。

先週の金曜日、ちょうど大震災のあった一週間目の同じ時刻に、東北の被災地ではサイレンが鳴り響き、日本中が死者たちに弔いの黙祷を捧げた。
一万年に一度の大地震と、一千年に一度の大津波によって、我々は完膚無きまでに打ちのめされた。しかし、我々の祈りは未来に向けられており、永遠の時間とともにあることを忘れてはならない。

(カトラー)

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映画「アバター」に仕掛けられたキャメロン監督の企み、あるいは「胡蝶の夢」

Avater

ジェームズ・キャメロン監督の3D映画作品「アバター」が世界的な大ヒットになっている。

私は昨年の年末の封切り直後に、近所のシネコンまで見に行ったが、構想14年、製作に4年を費やした3D映画の大作という触れ込みに、見せ物小屋にでも行くような興味が先行していただけで、正直なところ、映画の内容などにはほとんど期待を持っていなかった。が、実際に観て、いっぺんに虜になってしまい、既に2回この作品を観るために映画館に足を運んでいる。

この映画の誕生によって、映画を観るという行為の持つ意味が根本から変えられてしまうだろう。それぐらい、これからの映像表現にとってこの映画は画期的な意味を持つ作品だ。
14年前にアバターという映画の構想の方が先に生まれ、3D映像の技術が後から追いついてきて、その最新技術をブラッシュアップさせながら作品が創り上げられていったそうだ。キャメロン監督は、当初予定されていた公開日程を延期させてまでも、新しい3D技術の採用にこだわったようだが、映画を観てその理由がはっきり理解できた。

反戦、反アメリカ映画として第一級の作品

この映画は様々な観点から評価できるだろうが、私はこの作品が反戦、反アメリカ映画として第一級のものであることを指摘したい。
この映画の映像体験の対極に位置するのが、米軍の圧倒的な軍事テクノロジーのショーとなった1991年の湾岸戦争の映像だ。コンピュータゲームの世界のようにミサイルが海上を渡り、何百㌔も離れた軍事標的を寸分違わない正確さで破壊する映像がCNNを通じて全世界のテレビから繰り返し流された。ただ、それはゲームではなく、今、この現実に起きていることであり、その映像の先にはリアルな人間の死が存在していた。
その最もリアルであるべき人間の死をコンピュータゲームの中で進行している出来事のように感じてしまった後では、全てのイメージ、映像表現は、単なる見せ物になってしまう。

湾岸戦争後、全ての映像作家たちに課せられた十字架は、巡航ミサイルが現実にビルを打ち壊している映像を超えるリアルを誰も表現できなくなってしまったということだ。

キャメロン監督は、その十字架を3Dという魔法を手にしたことで解き放った。
3D映像によって観客は侵略戦争のただ中の空間に引きずり込まれ、圧倒的な力により、一方的に破壊が進行していく様を目の当たりに体験させられる。その体験を通じて観客は、20年前にテレビゲームのように見ていた映像の背後にあった本当の現実を追体験させられるのだ。さらに、この映画を観た人たちは、米国という国家が常に侵略行為と不可分であった歴史の記憶をも呼び醒まされる仕掛けになっている。
この映画に登場する青色の肌をもった異星人ナヴィ族は、自然と感応する霊的能力を持った種族として描かれ、スペイン人ピサロによって滅ぼされたインカの民や白人の西進とともに殺戮され故郷を追われたアメリカインディアンの姿が彷彿とさせられる。

正義のカウボーイの歴史を真っ向から否定

未開の地を切り開き、野蛮な原住民を蹴散らかして西進するというのが、米国のフロンティアスピリットの本質であったとすれば、そうした正義のカウボーイの歴史をこの映画は、真っ向から否定しているといってもよいだろう。
この映画は、日本と同時に米国でも封切られている。ナヴィ族が体現している自然と共生するアニミズム的な世界観への共鳴は、私たち日本人にはむしろ馴染み深いものだが、米国人はこの映画の隠された反カウボーイ、反アメリカメッセージをどのように受けとめているのだろうか。
米国の私の友人によれば、この作品に対して保守派の反発も生まれているが、むしろ、前政権のカウボーイ・ブッシュによって主導された「ブッシュの戦争」で深く傷ついた米国人の自信や心のトラウマを癒している作品としてとらえられるという。

物語では、過去の戦闘で負った脊椎損傷で半身不随となった主人公の元海兵隊員ジェイクが、傭兵として、物語の舞台、惑星パンドラにやってくる。ジェイクはアバターとリンクしてナヴィ族にスパイとして潜入するミッションを与えられるが、ナヴィ族との接触を通じて徐々にその世界観を学び、遂にはナヴィ族の一員として受け入れられるまでになる。物語のクライマックスでは、地球人(スカイ・ピープル)の侵略に対して、ナヴィ族の戦士として立ち向かう。

米国の贖罪と新たな再生神話の創造

ネタばれになってしまうが、ラストシーンで主人公のジェイクはナヴィの一員として生まれ変わる。つまり、キャメロン監督が、この作品で明確に意図しているのは、米国のこれまでの侵略や開発至上主義的な自然破壊に対する贖罪と新たな再生神話の創造といえるだろう。

米国でもこの映画が大ヒットしている背景には、アメリカ国民が深く傷つき、新たなアメリカン・ドリーム、希望の物語を欲しているということがあるだろう。ただし、その希望の物語とは、きらびやかな車やプール付きの家やシャンパンで彩られたものではない、
荘子が2300年前に語った「胡蝶の夢」のように、夢の世界で舞うはかない蝶のようなものだ。

アバターと荘子の「胡蝶の夢」

「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」

アバターとは、この荘子の説話に登場する胡蝶のようなものといえる。胡蝶の夢の説話と同様にアバターの世界では、夢と現実が混じり合い、その境界が無意味なものとなる。もっとラジカルにいえば、アバターという作品によって提起されたものは、その境界線を無化してしまうことで世界を変えてしまおうという高度な企みなのだ。ジェームズ・キャメロンが、3D映画に見た戦略的な可能性は正にその点にこそ存在しただろう。

この映画を観ながら、3D映画のテクノロジーを使って、等身大のロールプレイゲームをやったらどんな感じだろうと考えていた。パソコンの平面世界のネットゲームでさえ、はまりこんでしまうゲーマーが数多くいるくらいだから、仮に3Dのゲーム空間が登場したら、一生そこから出てこない若者も出てきて社会問題化するかも知れない。アバター的な現実とは、産業的にも大きな広がりを持ってくるだろう。

キャメロン監督の次回作のテーマは「原爆」

昨年の年末、ジェームズ・キャメロン監督は、日本を訪れ、広島の病院で一人の老人を見舞っていた。
その老人は、山口彊(つとむ)さんといい、戦時中は三菱重工の技術者だったが、広島、長崎の両方で被爆するという苛酷な運命を背負った。ずっとその二重被爆という重い体験を誰にも話していなかったが、次男を2005年にガンで亡くしたことをきっかけにその体験を公に向かって語りだした。
山口老人は、オバマ大統領にも手紙を書いたが、ジェームズ・キャメロン監督が、次回作品で「原爆」をテーマにしているという話を聞き、直接会って話したいと希望していたという。

キャメロン監督は山口老人に面会し「あなたのような稀有な経験をした人を後世に伝えるために会いに来た」と語りかけたそうだ。面会後、山口さんは「使命は終わった」と話し、今年の1月4日、93歳で死去した。

ジェームズ・キャメロンは、次の原爆を題材とした作品で、山口老人の体験を全世界の人々に共有させることを企むのだろう。それは、果たして、人類の犯した過ちに対する贖罪と再生の物語になるだろうか。

(カトラー)

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環境バブルの足音が聞こえる?「クリーンテック投資」競争が始まった

Cleantech 環境分野に膨大なマネーが注ぎ込まれようとしている。この数年のうちに環境バブルは必ずおきるだろう。

来週からコペンハーゲンで開催されるCOP15では、米国と中国を枠組み合意に引き込むことが期待されていたが、そこまでの合意形成は難しそうな雲行きだ。しかし、二酸化炭素の2大排出国である両国は、COP15の開催に先だって、早々と独自の削減目標値を発表していることからもわかるように、昔とはうってかわり、両国ともこの問題に積極的にコミットするという姿勢を見せている。そこには、二酸化炭素削減というグローバルな課題に関しても世界の主導権を握るという意志がありありと見えている。

環境がカネのなる木になった

かつては、「二酸化炭素削減を発展途上国にも強要するのは先進国のエゴ」と真っ向から否定していた中国政府、そして、ブッシュ前政権の時には、京都議定書を反故にした米国が、こぞって積極姿勢に転じているのには理由がある。環境がカネのなる木になる前提が揃ってきたからだ。

米国では既に4~5年前から環境分野のテクノロジーに対する投資が活発化しており、「クリーンテック」というキーワードがシリコンバレーを席巻している。2006~2008年の3年間でVCのクリーンテックへの投資は3倍に急増し、1200億ドルの規模にまで膨らんできた。オバマがグリーンニューディール政策を掲げて、当選してきたのには、こうした背景があることを理解しておく必要があるだろう。
クリーンテックとは環境テクノロジジーという意味だが、これまでいわれてきた「環境技術」や「グリーン(Green)テクノロジー」と何が違うかといえば、端的にいえば、これが「カネの臭いのする環境テクノロジー」という意味をもって使われている点である。

米国を席巻する「クリーンテック投資」

この分野のスポークスマン的存在で「クリーンテックリボリューション 」という本を著したRon Pernic は、以下の8分野をクリーンテックのカテゴリーとして示している。

①太陽光発電・太陽熱(solar power)
②風力発電(wind power)
③バイオ燃料(bio fuel)
④グリーンビル(green buildings)
⑤EV,pHV(personal transportation)
⑥スマートグリッド(smart grid)
⑦モバイルアプリケーション(mobile application)
⑧浄水(water filtration)

この著書の中でRon Pernicはクリーンテックという言葉に一応の定義を与えているが、先にものべたようにそれは明確なものではなく、もともと、シリコンバレーのベンチャーキャピタリストの間で流行っていたバズワード(Buzz word)を拾っただけのものなので、ちゃらちゃらした底の浅い概念だ。「原子力はクリーンでないからクリーンテックのカテゴリーには入れない」などともっともらしい説明を加えているが、要は、原子力のような分野はプレイヤーが限定されすぎていて、自分たちの出る幕がないと思っているだけだろう。

しかし、IT、インターネットの場合もそうであったように、バズワードでビジネスを盛り上げ、既成事実やデファクトを作りあげてグローバル市場を制していくのが米国流ビジネスの真骨頂であり、IT、インターネットで成功した同じ手法で米国は世界の環境テクノロジーのイノベーションについても再び主導権を握ると宣言しているのである。

「責任投資原則」のもとで進むEUの環境投資

ヨーロッパに目を向けると、米国などよりもっと本格的で真面目な動きが進行しつつある。
ヨーロッパの環境投資の主役は、ベンチャー企業やVCではなく、年金資金のような存在である。
米国でエンロンが破綻したことなどをきっかけとして、「責任投資原則」という考え方が広がっている。儲かれば何に投資しても良いのではなく、投資活動を行っていく上での社会的理念、投資家の責任原則を構築しようというものだ。

年金のように、本来、長期、安定的なリターンを求める資金にとって、たとえ大きなリターンが期待できるとしてもリスクの大きいベンチャー投資やヘッジファンドで運用することにはそもそも抵抗感があった。そうした所に今回のリーマンショック以降の金融危機でリスクマネーに対する投資が大きく裏目に出てしまった。ヘッジファンドに運用を任せていたために、リターンを得るどころかポートフォリオの1~2割を失ってしまった年金資金もあった。
しかも、ヘッジファンドは、投資の中味を明らかにしないので、自分たちの資金がどのように使われ、どんな理由やプロセスを通じて失われたのかを知ることさえできないということに大きな反発が広がっている。今後は、ヘッジファンドなどでの運用を行わないという意思決定をする年金資金も現れている。

長期、安定的なリターンに適した環境への投資

こうした金融秩序の混乱の中で、逆に関心を集めているのが、環境分野への投資である。
環境分野への投資は、本来的に未来の世代のためのものであり、リターンさえ伴えば、資金としての本質に合致している。日本も含めて、年金や保険の資金は、年利4~5%という利回りを前提に制度設計されており、要は、この利回りが可能であって、社会的にも良いことであれば彼等としては大歓迎ということになる。

たとえば、砂漠に太陽光発電パネルを敷き詰めてメガソーラー発電所を建造するプロジェクトを想定した場合に、膨大な初期投資を年金資金が担うということが、今後期待されてくることだ。砂漠から上がってくる電力を販売して得られるリターンが利回りで4~5%に相当すれば、年金資金としては十分に取り組む価値ありということになる。ヘッジファンドのように年利3,40%といった高利回りでなくてもいい、4~5%を安定的に実現できるのであれば、そちらの方がはるかに望ましい。

問題は、それだけのリターンが上げられるかどうかだが、ここで奥の手が登場する。政府である。つまり、電力の買い上げ額を投資のリターンに見合う水準にまで引き上げてしまえば良いのである。

政府もコミットする環境投資の仕組み

ドイツはこうした考え方と戦略によって、あっという間にシャープを追い抜いて自国のソーラーパネルのベンチャー企業Qセルを世界一の太陽光発電パネルメーカーに育て上げた。日本のマスコミなどでは、一夜にしてQセルのような企業が生まれたという表面的な現象ばかりが強調されるが、もっと重要なのは、その背後で政府もコミットする形で環境技術に対する投融資の仕組み、金融面のインフラ整備が進められていることだ。

Clean_tech_chart このことは、右の図のように示すことができる。
すなわち、環境技術の革新と投資、公共政策は、これまでも関連しあっていたとはいえ、それぞれ別々に動いていた。しかし「クリーンテック」という言葉の登場が象徴的に意味するように、その3つの領域が重なり合ってきたというのが現在見えてきた現実だ。

今後は、環境分野のテクノロジーイノベーションは、国家をまるごと巻き込んだ熾烈なグローバル競争となっていくだろう。米国も中国もEUも、そのゲームの始まりを前に、神経戦を開始している。

環境イノベーションに必要とされる戦略的な「強い政府」

翻ってこの国の状況はどうだろうか。
政権交代によって、環境問題に対する取り組みはとりあえず前に進みつつあるように見える。鳩山首相が打ち出した二酸化炭素の25%削減目標も国際社会からは評価を受けている。
しかし、問題はこの先だ。環境技術で日本は数多くの分野でトップレベルにあるといわれるが、総花的に優位でもこれからの環境戦争に勝てるとは限らない。むしろ、このままでは要素技術をたくさん抱えた単なる「環境デパート」で終わってしまいかねないと危惧を抱いている。
米国は、要素技術において、日本よりもプアだから、戦略分野をクリーンテックという言葉で8つに絞り込んできた。鳩山政権に求められるのも、ゲームの土俵そのものを創造していく戦略性だろう。

政府がコミットするというと、「大きな政府」を志向するのかと言い出す輩がいるが、「大きい政府」「小さい政府」が問題なのではなく、「強い政府」になることが必要なのだ。

(カトラー)

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官僚たちの夏の終わり

Photo ブログの更新がすっかり疎かになている間に、世の中では鳩山政権がスタートし、「脱官僚依存」が、次なるキーワードとしてメディアを賑わしている。
多分にパフォーマンスも入っているのだろうが、政治主導を印象づけるやりとりがメディアを通じて流されている。苦笑させられたのは、環境省の着任式で小沢鋭仁新大臣に対する小林事務次官の言葉だ。

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環境ファシズムの足音が聞こえる:あらためて宮下公園のナイキ公園化に反対する

東京都渋谷区は18日、区立宮下公園の命名権(ネーミングライツ)を、スポーツ用品メーカー「ナイキ・ジャパン」(東京・品川)に売却する方針を区議会で明らかにした。ナイキ側の予算で公園改修も進めるという計画だ。(アサヒコムより)

Photo 渋谷区が、ナイキに宮下公園のネーミングライツ(命名権)を売り、「ナイキ宮下公園」化する計画を公式に発表した。ナイキ・ジャパンが費用負担する形で、宮下公園内に新たにスケートボード場(1100平方メートル)、ロッククライミング施設が整備され、夜間は施錠されることになるという。

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ばらまき補正予算の影で進行する日本農業の緩慢なる死

Photo8月にも想定されている衆議院総選挙に向けて、地方票の取り込みを狙った農家へのばらまき・アナウンス合戦が激しさを増している。

そもそもの発端は、先の参議院総選挙で、民主党の小沢一郎代表が農家に対する「戸別所得補償」という政策をぶち上げ、自民党の牙城ともいえる農村票を鷲掴みにして、参議院総選挙に大勝、参議院における与野党、逆転状況を作りだしたことにあった。

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爆走する中国の電気自転車ブームの行方

Photo 最近、上海や北京に行った人が印象に残ったこととして必ずあげるのが、電動自転車が街のあちこちを走り回っている光景である。

一昔前の日本のメディアが、中国を描く際に、必ずといっていいほど取り上げるステレオタイプ化された映像があった。それは、人民服を着た膨大な数の中国人労働者が自転車に乗って一斉に職場に出勤するシーンだ。自転車に乗った人々が蟻の大群のように街のそこかしこから溢れ出て行進する姿は、中国という国の貧しさ、そして同時にその膨大な潜在力を象徴していた。

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GMの連邦破産適用と自動車産業の終わりのはじまり

‘Surgical’ Bankruptcy Possible for G.M.

By MICHELINE MAYNARD and MICHAEL J. de la MERCED
Published: April 12, 2009
DETROIT — The Treasury Department is directing General Motors to lay the groundwork for a bankruptcy filing by a June 1 deadline, despite G.M.’s public contention that it could still reorganize outside court, people with knowledge of the plans said during the weekend.

Gm_segway540 ゼネラル・モーターズ(GM)の破綻が秒読みの段階に入った。
ニューヨークタイムズのネット版が、12日、関係筋からの情報として、米国財務省が6月1日までに外科的な破産(米連邦破産法:Chapter11)の適用申請を準備するよう命じたと伝えている。
数週間前から、こうしたGMの再建を巡るリーク情報が流れてくる。手厚すぎると槍玉に上がっている従業員の年金制度のリストラや債務の大幅圧縮が自力再建の最低条件とされているが、その交渉が困難を極めていることをメディアが報じている。

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米粉が日本の農業を救う?

Spe1_ph_07_2 米粉が入ったパン、麺、スイーツなど米粉入りの食品をあちこちで目にするようになった。

先日もスタバで1個320円で売っている「米粉ロールケーキ」を食してみると、食感がふんわりと柔らかで、なかなかいけると思った。カリスマパティシエとして有名なモンサンクレールの辻口博啓シェフもスイーツ向けに小麦粉を100%代替えできる米粉「リファリーヌ」を製粉会社と共同開発して、その米粉を使ったスイーツを色々作って評判をよんでいる。

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