3.11後の現実と歌の力

先週、木曜日の夜、赤坂のB♭(ビーフラット)で素晴らしいライブがあった。
「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」で一緒に活動している音楽家・作家の八木啓代さん(vocal)を中心に、なんと元特捜検事の郷原信郎さんがサックス奏者として登場し、それに阿部篤志さん(piano)大熊ワタルさん(clarinet)河村博司さん(guiteer)、福田大治さん(charango)といった、そうそうたるミュージシャンが共演した。

こんなありえないライブが、何故成立したのかというと、ジャーナリストの岩上安身さんのパーティーで郷原さんがサックスを吹くことが判明、一緒にライブをやるという話が盛り上がり、「気がついてみたら本当にやることになってしまった」(八木さん)。

2月頃から八木さんから、「いよいよ4月に本当に赤坂ビーフラットでやることになった」という話を聞き、郷原さんがサックス奏者としてプロのミュージシャンと共演したら一体どんな事態になるのだろうと、ほとんど怖いもの見たさ(失礼!)から期待していたのだが、そこに思わぬ事態が発生した。3.11東日本大震災である。

得体の知れない喪失感に苛まれる人々

3.11は、好むと好まざるとに関わらす、この国の全てを変えようとしている。
誰もが変わらなければならないと思いながらも、今、直面している現実とは一体何なのかをつかみあぐね呻吟している。いや、「変わらねばならない」などと考えているのは、ごく一握りの人間たちだけで、大半の人々は、「自分の身にはとりあえず何事も起きていないのだから大津波もレベル7に至ったフクシマの問題も全てテレビの向こう側の現実」と思い込みたいだけなのかも知れない。しかし、自分が立っている安全・安心なはずのこちら側の現実も、気がつくと大津波の引き潮が足下の砂を猛烈な勢いで奪い去っていくように崩れ去っていく・・・そうした得体の知れない喪失感にこの国の全ての人々が苛まれている。

東京電力のような巨大企業が、一瞬の震災により、巨大な賠償責任を抱え、事業継続そのものが危ぶまれる事態に陥ることなど誰も予想できなかった。しかし、想定外の出来事を想定することが、リスク管理の根本であり、特に東京電力のような社会インフラを担う大企業の場合は、最低限の社会的責務といっても過言ではない。それを「想定外の災害に見舞われた」と言い切ってしまった所に、東京電力のみならず、この国の企業や組織体がダメになっている底知れない病理がある。

「想定外」という言葉で防波線を張った東電

実は東京電力が、震災直後に記者会見で「想定外の災害」と言ったことには明確な根拠がある。原子力損害賠償法により、原子力発電所を運営する電力会社は、事故が発生した場合でも賠償義務は1200億円が上限、それ以上は国が対応するものと法律上は定められており、なおかつ、その事故が「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」などによる場合は一切を免責されるという規定がある。東京電力の経営幹部は、この規定に基づき、わざわざ「想定外」という表現を使っていたのである。

つまり、原発周辺の福島県民に苛酷な避難生活を強い、世界中を震撼させている原発事故の真っ直中において、東電経営層の頭の中を占めていたのは実はこの「法律」のことであり、それに基づいて防波線を張っていたのである。

ライブのトークの中で、郷原信郎氏は、東京電力の危機管理の姿勢に言及し、「この会社のコンプライアンス啓発に多少とも関わった人間として責任を感じている」と述べた。
郷原氏が言いたかったことを解説すれば、この国の企業、官僚組織にとって、コンプライアンスといえば「法令遵守」のことしか意味していない。つまり、法律に書かれていることを神学的に解釈し、それを企業行動と紐づけることが「コンプライアンス」と勝手に翻訳されている。法律を守るのは当然のことだが、実は法律に規定されていない事柄や事態に直面した場合に、企業や組織が、社会的存在としてどのように行動するのか、その無形の行動規範となるのが本来のコンプライアンスであるべきだった。

コンプライアンスの本来の意味を理解しない企業組織

東京電力には、この本来の意味での「コンプライアンス」が皆無であったことが露呈してしまった。「想定外の災害」と記者会見で責任逃れの防波線を張る前に、避難地域に社員を送り込み、住民退避の手助けをする。経営トップが現地に先ず入り陣頭指揮する。対策本部を福島原発の近隣に設置し、住民が置かれているリスクを共有するといった行動を起こすべきであったであろう。こんなことは、法律のどこにも書かれていないが、企業市民、人間としてとるべき当然の行動である。

郷原氏は、東京電力の危機対応が硬直的で現実に即応できていない理由を「安全神話」の盲信にあると指摘していた。「原発は安全である。なぜなら何重もの安全防護策が講じられており事故が起きるはずがないから」この思考ループの中を堂々巡りするのみで、想定外の事故は、結局想定されることがなかった。本当に想定不可能だったわけではない、そもそも事故を前提としない「安全神話」によって思考停止状態に陥っていただけだ。
そして、このことは、東京電力だけでない、例えば、前田元検事の証拠改竄事件のような検察組織の問題とも通底している。すなわち、検察組織の「無謬神話」があらかじめ存在し、その神話を護るために現実が改竄されていったように。

ロラン・バルトは、30年以上前にこの現代の「神話作用」について次のように指摘している
「ものごとは神話の中に、それらの製造の記憶を失うのだ。世界はさまざまな活動の、人間の行為の弁証法的関係として言語の中に入り、諸本質の調和に満ちた一幅の絵として神話から出て来る。一種の手品が行なわれたのだ。現実をひっくり返し、そこから歴史をからにして自然で満たしたのだ。ものごとからその人間的意味を抜きさり、人間的無意味を意味させるようにしたのだ。神話の機能は現実をからにすることだ」(ロラン・バルト「神話作用」)

ロラン・バルトは神話には強制力が発生するといっている。というのも神話の常套手段は話者を巧みに消し去ることだからだ。「原発は安全である」と述べているのが誰であるのかがわかれば、その言説の是非を問うことができるが、神話においては、その発語者は常に隠蔽されてしまい、一切の異議申し立ては抑圧され、人々は思考停止状態に陥り、言葉は沈黙する。

神話的現実を破壊する武器としての歌

そして、こうした神話作用に抗い、神話の対極にあるものが詩であり歌である。
詩や歌は無力だが、神話やシステムの中に隠蔽されていた人間的な意味をあらためて呼び起こし、顔の見える声や調べとして甦らせ、現実のまったく違った側面、秘められた意味や手触りを鮮やかに示してくれる。現実とは、もともとモノのようにあらかじめ私たちの外部に存在しているものではなく、それがいくら強固に見えたとしても、結局、私たちの意識が作りだしたイリュージョン、神話的現実でしかない。詩や歌は、そのことに気付かせてくれ、神話なるものをぶち壊す武器となりうる。

多くの人々の命を不条理に奪った3.11大震災に、もし「意味」と呼べるものが唯一あったとすれば、それはこの国の現在を覆っている「神話的現実」を粉々に壊し去ったことではないか。絶対安全神話が福島原発とともに粉々に飛び散った今、これまでアプリオリに受け入れていた様々な約束事やお作法も全て無効になった。そして、私たちがこれからどうやって生き延びていくかは、政府や法律も組織やメディアも教えてくれないことが、白日の下に暴かれてしまった・・・

だいぶ話が横道にそれたが、4.20ライブの報告に戻ろう。
八木啓代さんを初めとした参加ミュージシャンは、全てが素晴らしかった。3.11後の現実の中で、歌こそが輝きを増していることに気付かされた。個人的には3.11以降、鬱々とした気分で過ごしていたが、初めて曇天に青空を見た思いがし、歌の力に感動し、感謝した。

郷原信郎さんのサックス演奏もお世辞で無く素晴らしかった。あの目つきの悪い、元特捜検事の郷原氏がサックスを奏で、甘い声で謳う姿を日本中の誰が想像しただろうか。その姿は、3.11後の現実のなかで個々人が自由に生きるしかないことを身をもって示してくれ感動的でさえあった。

甦ったヴィクトル・ハラの歌「平和に生きる権利」

この日の朝、私はたまたまベトナムから戻って来たのだが、ライブの終盤で懐かしいヴィクトル・ハラ(Vivtor Jhara)の「平和に生きる権利El derecho de vivir en paz」がフィーチャーされたことに驚いた。この歌は、70年代の初頭、世界的に広がったベトナム反戦運動のシンボルだった。その歌が、この日のライブでフクシマバージョンとして甦ったのだ。

「平和に生きる権利・FUKUSHIMA ver.」作詞:八木啓代、河村博司

静かに暮らし/生きる権利を/いま問いかける/FUKUSHIMAの空から/生まれた故郷を/追われる悲しみを/分かち合えない/痛みを/

稲穂たなびく/緑の大地よ/遠く広がる/青い海原よ/月さえ砕ける/悲しみの叫びに/祈りの歌よ/届け

静かに暮らし/生きる権利を/平和に暮らし/生きる願いを/FUKUSHIMAの空から/TOKYOの街から/取り戻すまで/歌うよ

静かに暮らし/生きる権利を/平和に暮らし/生きる願いを/HIROSHIMAの空から/OKINAWAの島から/取り戻すまで/歌うよ

La La La ・・・・・

消せはしないだろうこの歌を

ヴィクトル・ハラは、1973年、軍事クーデターの動乱の中で虐殺された。ライブを見ながら私は、同じように関東大震災の混乱の中で虐殺された大杉栄の「美は乱調にあり」という言葉を思い出していた。この言葉が似合う美しいライブだった。

(カトラー Twitter:  @katoler_genron

・ヴィクトル・ハラ(Vivtor Jhara)の「平和に生きる権利El derecho de vivir en paz」youTubu video

・B♭ライブ 第1部演奏

・B♭ライブ 第2部鼎談

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3月11日以降の世界

 3月11日、午後2時46分。10日前のこの時点を境に日本は大きく姿を変えてしまった。大地震と巨大津波が東北の人々を襲い未曾有の人命が失われ、同時に発生した福島第一原子力発電所における大事故は、現在も進行中であり、日本ばかりか世界中の人々をも震撼させている。

 この国が天災に襲われたのは今回だけのことではない、ここ数十年を振り返っても、日本の国土は繰り返し地震や洪水に見舞われてきたが、その対応力と高度な技術力により、「安全、安心」な国という「ブランド・イメージ」を世界に向けて発信してきた。しかし、今、そのイメージが根底から揺らぎ日本から世界中の人々が逃げ出している。

今回の災害によりこれまでとは一体何が違ってしまったのか?東北関東大震災が発生してから、ずっと考えてきたのはそのことだ。

 今回の災害を解説する学者たちの弁によれば、1万年に一度のM9.0の巨大地震が発生し、千年に一度の大津波が東北の海岸都市を襲った。その結果、何重もの安全策によって守られていたはずの原発があっという間に機能停止状態に陥り、原子炉のメルトダウンの危機に瀕している。
「想定外」というフレーズが度々地震・津波学者、原子力関係者の口からのぼってくるが、このことは、我々が築き上げてきた技術、あるいは我々の持ち合わせている想像力や言葉が、今、進行している現実に対してほとんど無力であったことを表明しているに他ならない。誤解しないでほしいが、私はその無力さを取り上げることで、地震・津波学者や原子力関係者たちを「思い上がっていた」などと非難するつもりは毛頭ない。

制御できないリスクに満ちてしまった世界

 むしろ、その逆だ。今回の災害や原発事故に対して防災担当者や原発の技術者の「想定外だった」という発言を非難したり、逆に反省してみせたりするという態度には、どこかで「この世界のリスクは予測可能であり、対処ができるものだ」という思考が潜んでいると思う。今、私が抱いているのは、それとは正反対の見方。つまり、この世界は3月11日以降、予測不可能な制御できないリスクに満ちてしまったのではないかという認識である。

このブログで過去にも取り上げたことがあるが、ウルリッヒ・ベックというドイツの社会学者が「世界リスク社会論―テロ、戦争、自然破壊 」という本の中でもこのことに言及している。

この本の中で著者のベック氏は、以下のような逸話を紹介している。

「数年前、アメリカの議会がある科学委員会に放射性廃棄物の最終貯蔵地の危険性を1万年後の人々に説明すべき言語またはシンボルを開発するように要請した。言語学者や芸術家、古代学者、脳研究者などさまざまな分野の専門家が集められ討議されたが、人類の創り出すことのできるシンボルの有効性はたかだか数千年で、1万年後に意味を伝えられるシンボル・言語を構想することは結局できなかった。」

 このことからベック氏は、人類が言語化できない、その意味で制御不可能なリスクを背負う「世界リスク社会」に立ち会っていると指摘している。
1万年後の人類に対して、核廃棄物質の危険性を伝える手段を持たないという点において、核の時代とは、人類にとって予測不能なリスクの時代の幕開けを意味した。原爆投下からから66年、人類はこれまで核戦争こそかろうじて回避することができたが、福島原発事故の勃発において、残念ながら核事故というリスクは現実のものになってしまった。

日本人の二度目のHIBAKUと敗戦

 そして、誤解を恐れずにいえば、日本人は今、広島・長崎に次いで2度目の「HIBAKU(被曝)」を経験しているのであり、それは、言い換えると原爆投下から66年、原子力の平和利用の旗を掲げ、世界最高峰の原子力技術を構築してきた日本の工業技術神話が根底から崩壊したことを意味する2度目の「敗戦」でもある。

チェルノブイリの事故の時には、旧ソ連に対して世界中から非難の声が集中した。旧ソ連の原子炉自体の安全設計の杜撰さ、人為的なミスなどが事故原因に露呈し、高度な管理・オペレーション能力が必要とされる原子力発電に対する不適格性、責任能力の欠如が問題視されたからだ。

 しかし、福島原発の場合は違う。世界中の誰もが日本の世界最高水準の安全管理技術、原子炉システムの信頼性などについて疑いを持っていなかった。だからこそ、東芝、日立といった日本の原子炉メーカーは、初動において韓国などに多少の遅れはとったものの、米国の100基を超える今後の原発増設計画や東南アジア、インドなど新興国における原発商談を受注する本命と見られていた。だから、福島原発事故が勃発した時に各国の首脳や関係者が抱いたのは非難の感情よりもむしろ「畏れ」だった。すなわち、原発技術において世界のトップランナーである日本でさえ、原発事故を制御できなかったという現実への深い動揺と「畏れ」である。日本でさえコントロールできない事態が起きている、その畏れから在日外国人はこの国から脱出しているのだ。

福島原発事故以降の世界を覆う「畏れ」

 福島原発事故が今後、どのような推移を辿って収束できるかにも因るが、この「畏れ」から、3.11以降の世界は逃れられないだろう。ドイツのメルケル首相は、「日本のような高度な技術を持った国の下で起きた事故が他のどこの国で起きないと言えるだろうか」と従来からの反原発路線を再確認するコメントを出した。タイにおいては、原発計画自体を見直すということが伝えられている。

よくよく考えてみれば、日本の工業技術、安全技術神話とは、たかだか、戦後数十年の間に構築されたものに過ぎない。一万年のスケールを持つ原子力という対象を完璧にコントロールすることなどできはしないという当たり前の現実が露呈したに過ぎないという言い方もできるだろう。日本経団連の米倉弘昌会長は、事故後の16日に「千年に一度の津波に耐えたのは素晴らしいことだ。原子力行政はもっと胸を張るべき」という発言を行い波紋を広げた。
 経団連に近い日本の中央メディアはこの発言を非難するどころかほとんど取り上げようともしないが、あえて言わせてもらえば、今回の原発事故に人的原因があったとすれば、こうした思い上がりも甚だしい、しかも厚顔無恥(&無知)な旧来の経営者の認識と行動に他ならないといえるだろう。

思い上がりも甚だしい経団連会長の発言、東電の経営層

 電力関係者、政治家、メディア含めて、従来から原発がなければ、日本の今の快適な生活はあり得ないという言説をふりまいているが、それは大嘘だ。自然代替エネルギーの利用を怠り、スマートグリッドの導入でさえ鼻先で笑ってきた東電経営層の怠慢を隠蔽する言い訳として利用されてきたに過ぎない。今、日本国民は、一方的な強制停電によって、不自由な生活と経済の沈滞を余儀なくされているが、電力の問題でいえば、ピーク時の対応が問題なのであり、現在のように総量規制を押しつけられるいわれはない。インターネットのような分散制御型の電力システムに移行すれば、巨大な発電能力を持つ原発のような存在は最小限ですむか、不要となるだろう。

もう一歩踏み込んでいえば、原発とは、地域独占企業体である電力会社の神殿のようなものであり、原発の安全神話とは、その体制を護ってきた一種のカルト宗教に他ならない。3.11により、それがガラガラと崩れ去ったことは、悲惨な現実の中にあって国民が得た唯一の収穫かも知れない。

3.11以降の世界

3.11以降、我々は何処に向かっていくのだろうか?

 その答えは簡単には見つからない。唯一わかっていることは、この世界に予測不能な制御できないリスクが存在しているということを認識した人類にとって、とれる行動は、そのリスクを認めた上で、リスクを分散する知恵をもつことでしかない。
しかし、今の日本人にとって、この世界に排除できないリスクが存在しているという現実を認識することが、たぶん最も難しいことだろうと思っている。

例えば、ここ数日、放射能による環境汚染という究極のリスクが露わになってきている。日本において原爆投下、敗戦以降は、放射能というリスクを原子力発電所の中に閉じこめ、人目に晒さずにおくことができた。しかし、今、それは日本の至る所にあふれ出て、一般市民が日常的に口にする野菜や食品までも汚染が広がっている。
機会をあらためてこのことは論じたいが、放射能による食物汚染に対する対応が、3.11以降、日本人に架せられた最初の大きな試練となるだろう。

 繰り返していおう、我々はもう、3.11以前の世界に戻ることはできない。
テレビが連日流している映像に象徴されているように、巨大地震と津波は、これまで築き上げ信じていてものを奪い去り、戻る場所さえ跡形も無くなってしまったからだ。その現実を受け止めることは誰にとっても極めて苛酷なことではあるが、そのことが3.11で亡くなられた人々に対して、生き残った者たちができる唯一の弔いである。我々は前を向き、この第二の敗戦を生き延びなければならない。

先週の金曜日、ちょうど大震災のあった一週間目の同じ時刻に、東北の被災地ではサイレンが鳴り響き、日本中が死者たちに弔いの黙祷を捧げた。
一万年に一度の大地震と、一千年に一度の大津波によって、我々は完膚無きまでに打ちのめされた。しかし、我々の祈りは未来に向けられており、永遠の時間とともにあることを忘れてはならない。

(カトラー)

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「韓国負け」する日本、何故日本は韓国に負け続けるのか?

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バンクーバ五輪が昨日で幕を閉じた。

前回のトリノでは、荒川静香の金メダルだけだったことに比べれば、メダルの数こそ増えたが、金メダルはひとつも取れずに終わった。
対照的だったのが韓国だ。スピードスケートでの長島、加藤の銀、銅メダルには日本中が沸いたが、金メダルをとったのは、韓国選手だった。前評判通りの圧倒的な強さを見せたキム・ヨナをはじめ、韓国は、今回のオリンピックで金メダル6個を含む計14個のメダルを獲得し、参加国中5番目という好成績を残した。

オリンピック開催の1週間前、サッカーの日韓戦でも日本は韓国に完敗した。
シュートの技術的精度といい、選手の気持ちの強さといい、全ての面で韓国は、日本チームを上回っていた。試合終了後、日本のサポーターからは日本のイレブンに対してブーイングが飛び、「岡田監督辞めろ!」というプラカードが掲出されたほどで、ワールドカップが半年先でなかったら、確実に岡田監督の更迭論に火が付いただろう。

政治、経済の面でも韓国負けする日本

スポーツばかりではない、経済の面でも韓国が、政治とカネの問題でゴタゴタが続く日本を尻目に、4~5%という回復軌道に乗り始めた。
リーマンショック後の世界経済危機の中で、外需依存率が高い韓国は、日本よりも大きなマイナスを被った。しかし、その後は、例えば米国の自動車市場で、日本車が軒並み売上げを落とし続けた中にあって、現代(ヒュンダイ)だけがシェアを伸ばしている。家電の世界でも、薄型テレビの米国市場で一番の売れ筋のトップブランドは、今やSONYやPanasonicではなくSUMSUNだ。
韓国の工業製品が世界市場で躍進している背景にはウォン安が進んだこともあるが、製品開発力やマーケティング力が日本企業と互角以上になりつつあることが根本要因だ。

政治の世界では、もっと明暗がはっきりする。
就任当初、逆風を受けて、支持率が急降下した李明博大統領だったが、ここにきて強力なリーダーシップで実績をあげ、支持率をV字回復させている。

アラブ首長国連邦の原子力発電プロジェクトを落札

アラブ首長国連邦(UAE)の原子力発電プロジェクトを日本、フランスを向こうに回して韓国が落札したことには、世界中が驚いた。国内で原子力発電所を稼働させているとはいえ、技術的に日仏に優っているわけでもなく、海外での原子力プラントの建設実績もなかったからだ。
韓国の「快挙」に対して、李明博大統領が直接セールスしたからとか、価格面でダンピングをしたからと表面的な報道が日本のメディアを通じて垂れ流されたが、日本が負けた理由はそんなことではない。

韓国は、海外での原子力発電所建設・運営ビジネスを自国の成長戦略の柱に位置づけ、全面的なバックアップを行っていた。今回の入札に関しても原子炉メーカーだけでなく韓国電力公社を中心としたコンソーシアムを組んで対応しており、日本が原子炉は日立、運営はGEにという形で丸投げして対応していたのとは対照的だった。
UAEのような原子力発電所の運用経験の無い国にとって、必要なのは高価で技術スペックの高い原子炉ではなく、それを確実にオペレーションしてくれるパートナーの存在だ。

とすれば、日本の負けは入札段階から既に決まっていたともいえる。韓国がダンピングしたからでも、李明博大統領が皇太子に電話をして直接セールスしたからでもない、負けるべくして、負けたのだ。

世界の農地の確保に乗り出した韓国

2月11日にオンエアされたNHKスペシャル「ランドラッシュ」では、世界的な食料危機を見こした外国企業がアフリカやウクライナの肥沃な農地の争奪戦を展開していることが報告されていた。
韓国も2年前の世界的な穀物価格の急騰に教訓を得て、国内の食糧需要の四分の一を海外農地の確保によって賄うことを国策と位置づけ、世界中で農地の獲得を進めている。番組では、ロシアの沿海州の農地を売却する話が、いったんは日本企業に持ち込まれたが、結局、国策を受けて動いている韓国の現代工業に持っていかれてしまった経緯がレポートされていた。

韓国南部の全羅北道には、現在、国家食品バイオクラスターが建設されつつあり、機能性食品の研究開発拠点、製造工場、そして商品パッケージなどをデザインするデザイン・マーケティングセンターなども整備され、日本の食品メーカーなどに対しても投資、進出を呼びかけている。

こうしたひとつひとつの事実を線で結んでいけば、そこからは韓国の周到な食糧戦略が浮かび上がってくる。
すなわち、まず、海外の肥沃な農地を低コストで確保し、そこで生産された大豆などの農産物を加工、商品化する産業拠点を全羅北道において育成する。次いで、その商品をアジアの物流ハブとなった釜山港、仁川空港を通じて全世界に輸出していくという構想だ。

日本は、何故、韓国に負け続けるのか?

私はその根本原因は、日本の政治、企業、メディアそして国民が内向きで、外を見ようとしていないことにあると考えている。もちろん、社会、経済の全体として見れば、日本の方がまだ韓国に優っている点が多い。しかし、国内に大きな市場を持っていることが逆に世界市場に目を向けさせ、そこで真剣勝負することの足枷になっている。

外を見ようとしない内向きな日本

例えば、薄型テレビの基本部材である液晶パネルの生産で、世界市場でトップシェアを持っているのは、いずれも、サムスン(25.7%)、LG(20.3%)、AUO(17.0%)といった韓国や台湾企業で、日本のメーカーでは、シャープだけだ。そのシャープのシェアもわずか8.4%という水準であり、日本の消費者は、この数字を聞くと誰もがホント?という顔をする。世界中のテレビを日本の家電メーカーが製造しているという過去の栄光のイメージから醒めていないからだ。

国内的には大成功している(といわれる)シャープのような日本企業が、世界市場の競争の舞台では、いつのまにか後塵を拝しているという事実、これと同じような現象が、日本の政治、経済、社会のいたるところで進行しているのではないか。

国内に耳障りの良いことしか書かないマスコミ

メディアもこうした現象の片棒を担いできた。というのも日本のマスコミは、基本的には国内市場だけを相手にしてきたからだ。今回のオリンピックでも、長島、加藤の銀、銅メダルのことは騒ぎ立てるが、韓国選手が金メダルをとったことはほとんど報じない。国内の人間にとって耳障りの良いことしか書き立てないのだ。

逆に韓国の強さは、国内市場が日本に比べると格段に小さいため、常に外に向かうことを強いられている点だ。日本のように、内需か外需かという問題の立て方そのものが成立しない。外で勝てなければ、それはそのまま野垂れ死にすることを意味する。
日本経済も本当は韓国と同じではないかと思っている。外需ではなく内需主導云々というのは、政治的キャッチフレーズとしてはありえても実体としては幻想に過ぎない。食糧の国内自給率を上げれば、島国の中で日本人は幸せに暮らしていけるなどというのは所詮お伽噺だ。

話をもう一度オリンピックに戻そう。
女子フィギュアスケートの決勝で、韓国のキム・ヨナが完璧な演技を見せ、歴史に残る高得点をたたき出し、金メダルを獲得した。

浅田真央が流した涙の意味

試合後の浅田真央のインタビューが、私にとっては最も印象的だった。
キム・ヨナが前評判通りの圧倒的な強さを目の当たりにすれば、浅田は、現在の実力の差を理解して、むしろさばさばしているのではないかと思っていたが、予想に反して子供のように泣きじゃくっていた。

よほど悔しく、金メダルが欲しかったのだろう。技術、表現力の面での完成度からいえば、数段、キム・ヨナが優っていて、そのことを浅田が一番わかっていたはずだが、それでもなお浅田が心の底から金メダルを獲ろうと決意していたことが伝わってきた。例によって日本のメディアは、「トリプルアクセルを史上初めて2度飛んだ」とか、本当にくだらないヘドが出るようなフォローを行っていたが、日本のメディアや観客が、どう思っているかなどは関係なく、浅田真央は、金メダルだけが欲しかったからこそ泣きじゃくっていたのだ。

この純粋さこそが、浅田真央という選手の強さの本質であり、少し大げさにいえば、こうした若者が登場してきたことがこれからの日本の「希望」かも知れない。

彼女は、今回、キム・ヨナに負けた。しかし、彼女の目には明らかにその先に広がっている「世界」が見えていたはずだ。

(カトラー)

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百年デフレと卵かけごはん(T・K・G)の味

日銀は1日、臨時の金融政策決定会合を開き、10兆円規模の新たな資金供給手段を急遽(きゅうきょ)導入することを決めた。金融市場に国債などを担保に期間3カ月の資金を年0.1%の固定金利で供給する。産経ニュースより)

Photo デフレが止まらない。
日本の消費者物価は99年度から下落を続けている。右に示した消費者物価の推移が、日本経済が置かれている状況を端的に表している。08年からエネルギー・資源価格の高騰などによって、総合指数は一時的に上昇したが、それを除けば、他の物品の価格は一貫して下落しつづけていることがわかる。右肩下がりのデフレが基調としてダラダラ続き、その下降線を間歇的にバブルが引きあげるという現象が繰り返されていることがわかる。
ここに示されている2000年以降のデフレとは、バブル崩壊後の「失われた10年」の延長としてあるのではなく、もっと構造的な変化がグローバルな規模で進行していると見るべきだろう。

グローバリゼーションが招いた百年デフレ

バブル崩壊以降に進行したのは、土地本位制の崩壊を前提とした「資産デフレ」であったが、2000年以降進行している物価の下落は、程度の差こそあれ世界の先進諸国において共通して見られるもので、グローバリゼションが根本的な要因である。
世界が市場として統一され、中国などの新興国に生産拠点が移転、安い労働コストとIT革命による生産性の向上によって大量の低価格の商品が国境を超えて怒濤のように流れ込むことになった。ユニクロが史上最高益をたたき出し、イオンが880円でジーンズを販売できるというのも生産拠点のグローバル化・海外移転と徹底した効率化を可能にしたIT革命がもたらしたものである。
同等の品質のものがより安く買えるようになるデフレは国内消費者にとって恩恵であると同時に、物価の下落が、経済収縮と賃金の下落を加速させ、さらにデフレが進行するというデフレサイクルを生み出す元凶にもなっている。

エコノミストの水野和夫氏は、現在、われわれが直面している、こうした「デフレ」を大きな歴史的転換点における構造的なデフレとして「100年デフレ」と名づけている。
水野氏によれば、歴史的に見れば、世界経済は以下に示すように4回の歴史的デフレを経験しており、現在は、その4回目のデフレに直面していることになる。

①14~15世紀:モンゴル帝国崩壊による貨幣収縮
②17世紀:イタリアからオランダへの覇権移動
③19世紀:国民国家の統一
④21世紀:ソ連の崩壊と大競争時代

そして、世界的なデフレをもたらしている最大の要因が資本利潤率の低下にあると指摘している。
かつて、世界経済は、米国、欧州、日本の3極で構成され、先進諸国が生産する製品を購入するのもこの3極域内の消費者だったが、今や、日本や米国の消費者は、車や家など大型の耐久消費財を買わなくなってしまった。世界経済の最後の買い手といわれた米国民も、サブプライムローンの破綻に端を発するリーマンショック以降は消費を抑え、借金を返し、貯蓄率が上昇しつつある。かくして、資本は先進諸国に高い利潤をあげることのできる市場を見つけることが困難になってしまった。

日本の土地バブル、米国の住宅バブル、いずれも行き場のなくなった余剰マネーが、バブルとして噴き出したものだ。その背景には、先進諸国市場の成長力が衰退し、数パーセントの利回りを確保できる投資事業が、どこにも見当たらなくなってしまったことがある。

新興国の設備投資もデフレリスクに

一方で、世界経済の中で高い成長を示している中国など新興国市場のポテンシャルに大きな期待が集まっているが、一般国民の購買力の伸びを上回る規模とスピードで設備投資が進んでおり、国内の需給ギャップがどんどん拡大しているという実態がある。
中国当局は、暴走しつつある設備投資の引き締めに躍起になっているが、近い将来、現在の設備投資は膨大な供給力過剰となってはね返ってくるだろう。世界経済にとって、中国の成長も巨大なデフレリスクとしてのしかかっている。

鳩山民主党政権は、現状を「緩やかなデフレ状況にある」との認識を示し、日銀の白川総裁の尻をたたいて、10兆円規模の新たな資金供給策の実施を承服させた。
しかし、こうした措置によっても「百年デフレ」を退治することはできないだろう。各国の金融当局は、需給ギャップを埋めるため、超金融緩和策をとっていて、日本の金融施策は、明らかに出遅れているとはいえ、仮に他の先進諸国と同様に需給ギャップを埋める金融緩和策を行ったとしても、デフレ基調が反転させることは難しいのではないか。

実際、これまでの金融緩和策がもたらしたものは、インフレではなく、バブルであった。全世界の余剰マネー(過剰流動性)は140兆ドルという巨額な規模に達しているが、それに対して中国、インド、ロシア、ブラジルといった新興国の経済規模は全部まとめてもGDP総額で20兆ドルに過ぎない。その7倍規模のマネーが行き場を失っているわけだから、資本利潤率が低下するのが当たり前なのである。
仮にこの地球上に今の新興国グループをあと7つ作ることができるなら、帳尻が合うかもしれないが、その前に地球が壊れてしまうだろう。

じゃぶじゃぶのマネー地獄にはまった世界

かくして、余剰マネーは、バブルに向かうしかなくなる。バブルの崩壊は金融システムを傷め、その都度、金融緩和策がとられるものだから、さらに余剰マネーが拡大して、世界はじゃぶじゃぶのマネー地獄の中で、底なし沼にはまったようにゆっくり沈んでいく。これが、今の世界が直面している危機の本質である。

もう、潮時だと誰もが思い始めている。しかし、次はどこに向かえばいいのか。
日本のデフレは失われた10年も含めれば、15~6年の長きにわたっている。これまでだって十分にしんどいのに、百年デフレというからには、この後、さらに85年も現在のような厳しい経済環境が続くことを覚悟しなくてはならないというのだろうか。

この際だから考え方を根本から変えて見ることも必要だ。よくよく考えてみれば、それは、案外、単純なことかもしれない。一切の「インフレ期待」を捨て去ってみればいいのだ。

思いつくままに言ってみると、百年デフレ下では、借金は年々重くなるだけだから、ローンなどは組まないようにする。新しいモノを買うのではなく、今あるものを使い続ける。できれば、食糧は自給し、貨幣経済への依存を下げる。ブランド品よりも自分に合った安くて良い物を見つける目を養う。4~5%の運用利率を前提にした年金は、取り崩されていき、いずれ破綻するから、他の老後の自立手段を考える。・・・・

あなたが、身近な所に幸せの青い鳥を感じることができる人なら、百年デフレもまんざら捨てたものではないのかもしれない。

デフレ日本でブームの卵かけごはん(T・K・G)

Photo_2 先日、日比谷の帝国ホテルの前を歩いていたら、インペリアルタワーのCHANELショップの向かいに「たまごん家(ち)」という名前の新しい居酒屋がオープンしているのを見つけた。
「卵かけごはん」が売り物の居酒屋で、他のつまみも含め、出すメニューは全て1品305円。帝国ホテルの目の前でこの安さは何だ?と思い、店に入り、売り物の「卵かけごはん」を注文した。
実は、私は卵かけごはんに目がない。飲んで帰った夜や休みの日など、ごはんに卵をかけグチャグチャ、ズルズルとやっている。「他にいくらでも食べるものがあるのに」と家人からは顰蹙をかっているが、これだけは止められない。
世間では「卵かけごはん」はT(たまご)K(かけ)G(ごはん)と呼ばれ、今やデフレ下の日本で全国的にブームとなっている。18歳のプロゴルファー石川遼君が「僕はたまごかけごはん!」と叫ぶCMを記憶している人も多いだろうが、卵も米も国内自給率がほぼ100%なので、卵かけごはんが普及することは、自給率のアップにつながると、このCMは農林水産省が広告主になっている。

さて、その居酒屋の卵かけごはんだが、305円ながら、米と卵にはとことんこだわっているとのことで、大変美味だった。

茶碗に口をつけて一気に卵かけごはんをかき込んで、居酒屋の窓の外の帝国ホテルに目をやりながら実感した。

「ああ、これが百年デフレの味だ」

(カトラー)

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花王エコナのトクホ失効の波紋と「リスクゼロ」という神話

Ecn_oil_00_img_l 花王の食用油「エコナ クッキングオイル」に発ガン物質「グリシドール」に変化する可能性のあるグリシドール脂肪酸エステルが多く含まれることが報告され、社会問題にまで発展した。

花王は、政府の食品安全委員会に対して、エコナのグリシドール脂肪酸エステルの含有量について報告し、エコナおよび関連製品の販売自粛に踏み切る一方で、消費者に対してはエコナの安全性そのものについては問題がないとアナウンスしていた。しかし、発足したばかりの消費者庁がトクホの認可取り消しに向けて再検討に入ったのを見て、花王は自らトクホの失効を申請した。

消費者庁の対応を巡って思い出されるのは、昨年のマンナンライフの「蒟蒻畑」をめぐる問題である。こんにゃくゼリーを喉につまらせ幼児や老人が死亡する事故が相次いだため、国民生活センターは注意勧告を出し、マンナンライフ側もパッケージにリスク表示を掲載するなど対応を進めたが、昨年の7月に幼児が同様の事故で死亡ことを受けて、当時の野田聖子消費者行政担当相は製造元であるマンナンライフを内閣府に呼び、再発防止策の徹底を要請したために、マンナンライフはついに製造中止にまで追い込まれてしまった。

新聞、テレビなど大マスコミは、「安全」を錦の御旗にメーカーにあくまで完璧を求める野田聖子の姿勢に同調した報道を行っていたが、ネットや一般消費者の中には「これはやりすぎ」という声があがり、製造中止に追い込まれたマンナンライフに激励の電話が殺到した。

こんにゃくゼリーバッシングと同じ構図

こんにゃくゼリーの問題については、私も当時の野田聖子消費者行政担当相がとった対応は明らかに行き過ぎだったと考えている。こんにゃくゼリーを喉に詰まらせて不幸にして亡くなられた幼児やご老人には同情の念を禁じ得ないが、同じような事故は、餅など他の一般食品でも多発している。こんにゃくゼリーだけを槍玉にあげるのは、いかにも公正さを欠き、これは安全に名をかりた、有権者への点数稼ぎ、ポピュリズムに過ぎないだろう。

今回のエコナの問題についても、同じ臭いが感じられる。福島瑞穂大臣は、消費者庁発足の最初の手柄にしようとしていたことが見えみえで、スケープゴートにされることを嫌った花王が、先回りしてトクホの失効を申請したというのが本当のところだ。

エコナの問題が発生した背景には、測定機器の精度が飛躍的に向上したという事実がある。問題となったグリシドール脂肪酸エステルは、エコナだけでなく、パーム油など他の一般の食用油にも含まれているが、エコナはそれらに比べ数十倍多いということが問題となった。
しかし、どの程度であれば、健康上問題なのかは、知見があるわけではない。グリシドール脂肪酸エステルが問題であるということであれば、一般の食用油も程度の差こそあれ「発ガンリスクがある」ということになる。

野田聖子大臣は、こんにゃくゼリーよる死亡事故が17件であるのに対し、餅による事故の方が168件も発生していることを問われて「餅は喉に詰まるものだという常識を多くの人が共有しているから」と訳のわからない説明をしていたが、今回のケースでも、逆に、エコナと同じようにグリシドール脂肪酸エステルが含有されている一般の食用油は安全である根拠はどこにあり、放置しておいていいのか?と問われたら、福島瑞穂大臣は何と返答するのだろう。

リスクを完璧に排除したら食べられるものが無くなる?

食の安全は重要だが、リスクを完璧に排除していったら、この世の中からそれこそ食べられるものが何も無くなってしまうだろう。しかも、そのリスクは、もともとその食品自体に内在していたものが、測定機器の能力向上やマスコミの報道によって可視化されただけで、本質は何も変わっていないかもしれないのだ。

考えてみれば、太古の人類にとって、食とは、命がけで獲物を捕ってくることであり、常に細菌感染や毒物を回避しなければならず、そもそもが大きなリスクを伴うものだった。それに対して、現代では、食物は安全であることが、当たり前とされ、例えば、食べ物の賞味期限が少しでも過ぎているだけで、ゴミ箱行きだ。私のようにチョット臭いを嗅いでこれは平気だと思えば食ってしまうような人間は、野蛮人扱いされてしまう。

日本人が食の安全性にこだわり、リスクを徹底的に排除しようとするのは、衛生観念が発達し完璧を求める国民性の現れであるというように説明されたりするが、私はそうは思わない。このことは、単に戦後日本人のリスクに対する考え方が幼いことを示しているに過ぎないと考えている。
食の安全を追求することを全て止めろとはいわないが、この世界には、コントロールできないリスクが存在していると考える方が、人間としては余程現実的であろう。こんにゃくゼリーをバッシングしても餅の飲み込み事故は無くならないように、物事のリスクを排除することには限界がある。
そうしたまともな現実感覚、バランス感覚が、この国の人々に欠如しているとすれば、それはリスクに対する感覚がどうしようもなく鈍磨しているからではないか。

あえて極論すれば、この国では戦後60年、戦争やテロで殺された人間がいないからだ。

リスクをゼロにすることよりヘッジすることを考える

華僑の人々は、戦争や政治クーデターなどで一夜にして全てを失うリスクというものと何世代にもわたり向き合ってきたために、リスクをヘッジする感覚や生き方が身に付いている。私の知り合いの華僑中国人は、息子や娘を、米国、日本、ヨーロッパといった世界各地に留学させている。ひとたびどこかの地域で致命的な事態が勃発しても、他の地域の兄弟がその危機から家族を助け出すことができるからだ。ようするに、リスクをゼロにすることではなく、リスクが存在することを認めた上で、そのリスクをヘッジすることを彼等は考えている。

食品の安全性、リスクゼロを追い求めること自体は否定しないが、反面、そうした内向きな議論ばかりをやっていることが、食に関するもっと大きなリスクを隠蔽することにつながっているのではないかと危惧している。例えば、それは、食糧危機のリスクだ。

Shibusawa_data2 世界の一人あたりの耕作可能な農地の面積は一貫して減り続けており、限界値といわれる10アールにまで減少している。農学者によれば、10アールの耕地が一人の人間が生きていくのに最低限必要な面積であり、これまで、何とかやってこられたのは、単位面積あたりの収量が農業・栽培技術の進歩などにより、一貫して伸びてきたからだという。しかし、現在では、ひとたび凶作などが世界のどこかで発生すると、食糧危機が全世界に広がるという状況下にあることは、ほとんど知られていない。

食料危機の巨大なリスクの下にある世界

食糧危機という巨大なリスクがあるから、食品の安全性のリスクには目をつぶってもいいなどと言うつもりはない。リスクをゼロにすることに血道をあげるより、リスクをヘッジすることに知恵を使う方が余程賢いといいたいだけだ。

花王エコナの問題が顕在化してから、トクホや機能性食品そのものを否定するような論調も出始めている。トクホの管轄が厚生労働省から消費者庁に移されたことで、トクホの認定が全く進まない状態になっており、業界から悲鳴が上がっている。

トクホの認定は、厚生労働省時代には専門家による委員会で検討されていたが、消費者庁に移管されてからは、消費者代表から成る消費者委員会に託され、結果的に果てしのない安全性論争が繰り広げられているという。彼等は至極まじめな信念の持ち主なのだろうが、リスクゼロをいうことは、宗教的信仰と何ら変わるところがない。
私自身は、自分が食べるもののリスクは、自分で判断したい。その判断材料は示してほしいと考えるが、消費者保護の名をかりて彼等の「宗教的信念」を押しつけてほしくない。
エコナの問題に即していえば、エコナをどれだけがぶ飲みすれば、ガンのリスクが生じるのか、そのデータを示してさえくれればいい。そうしたデータが無いのなら、無いということだけ言ってもらえばいい。

(カトラー)

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新型インフルと北朝鮮ミサイルに見る、水際症候群という日本の病

Photo_2 新型インフルエンザ騒ぎで、そこかしこにマスク姿の人々を目にするようになった。
ニュースなどで大阪の通勤風景が報じられていて、電車待ちをしているプラットフォーム上のほとんど全ての人々がマスクをつけている様は、異様な感じがする。
高城剛が、ロンドンのヒースロー空港でも日本人だけがマスクをしていて、これは日本人の集団ヒステリー現象に他ならないと自分のブログに書いているが、そのブログ記事がKY(空気読めない)発言だと反発を買っているようだ。

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ヒスパニックの病としての新型インフルエンザと米国の危機

B00528_h1n1_flu_blue_med_2 新型インフルエンザ(H1N1Flu)、通称「豚インフルエンザ」の感染拡大が止まらない。
ここにきて、発生源と見られているメキシコの保健衛生上の対応に疑問の声が上がっている。これまでも他国に比べて死者の数が飛び抜けて多いことが疑問視されていたのだが、突然、メキシコの保健相が、新型インフルエンザで死亡したことが確実な死者の数を大幅に引き下げる発表を行ったのだ。日本でも感染が疑われる旅行者が入管の簡易チェックに引っかかり大騒ぎになったが、結局、新型ではないと判定された。

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裸になって何が悪い! ~公園で裸になる自由とホームレスする権利~

Photo SMAPの草なぎ剛が、泥酔して全裸で真夜中の赤坂の公園で騒いでいとところを公然猥褻罪で逮捕されたことが大ニュースになっている。

このニュースを出張中の新幹線の中で流れていた文字ニュースのテロップで知ったのだが、全裸というのがユーモラスに感じられて、世間では笑い話になっているのかなと思ったら、テレビ、新聞がトップで取り上げるような大ニュースになっていた。

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ハーフ・エコノミーの衝撃、もう米国にも内需にも頼れない

Photo 経済が縮減し、ついには1/2になってしまう「ハーフ・エコノミー」の恐怖が現実のものになりつつある。

3月発表された米国の新車販売台数は、約68万台で、DSR(1日当たり販売台数)は前年同月比約38.9%減、17カ月連続のマイナスとなった。中でも米国メーカーの落ち込みがひどい、ゼネラル・モーターズは前年比-51%という惨憺たる状況だ。

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元厚生事務次官を襲ったルサンチマンの時代のモンスター

Koizumi_takeshi

元厚生事務次官らの連続殺傷事件で、警視庁は24日午後、同事件への関与を認める供述をしている無職、小泉毅容疑者(46)=さいたま市北区=を銃刀法違反容疑で送検した。調べに対し「昔、ペットを保健所に殺されて腹が立った」などと供述しており、警視庁は元厚生次官や家族を狙った動機などの解明を急いでいる。(NIKKEI NETより)

元厚生事務次官と家族に対する殺傷事件の犯人、小泉毅が警視庁に出頭し、不可解な自供をはじめたことで、戸惑いが広がっている。

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